中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

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  • 医学書院 (2017年3月27日発売)
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衝撃的な一冊。普段感じる能動でも受動でもないモノを追求して構造化・言語化しようとしている。文法論からスピノザまで大風呂敷を広げた上で、真の自由とは何かを追求した1冊。

私は謝りますと言う。しかし実際には私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることこそが本質的なのである。
出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。
能動と受動を対立させる視点が意志の概念に直結する。
ソクラテス以前の哲学者は、彼らの哲学そのものが素晴らしかったわけではなく、彼らがその中で息をしていた言語が、能動と受動に支配された、尋問する言語には転換しきっていない、中動態的なものを宿す言語だった。
能動と受動に支配された言語は行為の帰属を問う言語。つまり意志の概念と強く結びついている。
原因と結果の関係は、働きかけると働きを受ける、の関係であることをやめて、原因が結果において自らの力を表現する、という関係になる。
われわれの変状が我々の本質によって説明できるとき、われわれの変状が我々の本質を十分に表現しているとき、我々は能動である。逆にその個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現している。その場合にはその個体は受動である。スピノザは能動と受動を方向ではなく質の差として考えた。
純粋な能動にはなりえない。能動は、個体が受ける刺激の種類や量、その力としての本質に依存する。個体の本質は固定的ではなく、力の度合いであって、高まることも弱まることもある。だが、自らの本質が原因となる部分をより多くしていくことはできる。能動と受動は二者択一ではなく、度合いをもつもの。純粋な能動にはなることはできないが、受動の部分を減らして能動の部分を増やすことはできる。
自由は必然性とは対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由である。自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識する(自分はどのような場合にどのように変状するのか)事が自由に近づく第一歩。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2018年7月5日
読了日 : 2018年7月5日
本棚登録日 : 2018年7月5日

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