きことわ

著者 :
  • 新潮社 (2011年1月26日発売)
2.97
  • (59)
  • (198)
  • (420)
  • (208)
  • (70)
本棚登録 : 2412
感想 : 478
5

 三越本店の向かいに、タロー書房という極めて個性的な書店があった。「タロー」というネーミングとロゴは見るからに「爆発芸術家」岡本太郎由来のものだろうと推測されるのだが、確認してみたことはまだない。
 その書店が新しくできたビルに移転して、品揃えや陳列方法という点ではユニークさがすっかりなくなってしまった。店名ロゴこそはユニークなままだが、店員の思い入れ満杯の文庫本が、透明アクリルの階段状の書棚に表紙が見えるスタイルで並べられていた、あの売り場はなくなってしまった。
 もうかつてのあのタロー書房は失われてしまったのはわかっているのに、先日通りがかりに立ち寄ってしまった。「麗しき過去の喪失」をああやはり確かに失われてしまったのだと再確認してみないと気が済まない。くどい性格なのだと自分で思う。
 平凡な大型書店になってしまったその書店の、入り口正面の平置き台に直近の芥川賞受賞作が二作品、山積みになっていた。見ると、二作品ではなくて山積みになっていたのは男女二人の受賞者のうち男性の方だけで、朝吹真理子の『きことわ』は最後の一冊だけ残してきれいに売れていた。
 私が手にとったら、平台が真っ平らになった。それをしり目にまず立ち読みする。
 書き出しの二行。

 永遠子は夢をみる。
 貴子は夢をみない。

 鳥肌がたってしまったのは、タイトルの『きことわ』とは、キコとトワコという二人の女性の再会の物語だと、受賞を報じるニュースで聞いていたのが予告編になっていたこともあるだろう。書き出しを読んだだけで鳥肌テスターがマックスに振れてしまったのは、梶井基次郎の『檸檬』や川上弘美の『真鶴』以来のことだ。
 『きことわ』というタイトルの語感もとてもいいと思う。「たそがれ」とか「いやさか」とか、古代から日本人が使い慣らしてきたのに現代では記憶のバックヤードに仕舞い込まれている大和言葉がある。「きことわ」にはそれらに相通じる響きがある。そういえばそんな言葉が昔からあった様な気がする、という誤解を誘う巧みすぎる技だ。鳥肌のスイッチというのはこういう潜在意識の奥底に潜んでいるものなのかもしれない。

 そういえば芥川賞の選者の一人が「過去と現在の重なり合う時間の表現がとても巧い」と評していたのもニュースで聞いた。読んでみると確かにその通りなのだがそれだけではない。貴子と永遠子が、手も足も髪も、互いに自分のものなのか相手のものなか解らなくなるほどもつれ合い絡みあった濃密な過去の記憶と25年後の現在との交錯が独自の文体でさらりと、絡み合ったまま記されている。同時に、生に見た現実なのか夢や妄想で見たもうひとつの現実なのかも、二人の手足や髪のもつれあいと同様に絡み合わせながら読ませてしまう。
 それらが全て、貴子(キコ)と永遠子(トワコ)という二人の名がひとつの大和言葉まがいの「きことわ」というタイトルに象徴される渾然一体の物語として結実している。もはや反則の域の技だ。著者の略歴では慶大大学院在籍という部分だけが喧伝されすぎているが、詳しく見てみると専攻は近世歌舞伎だという。少し納得できる気がする。

 物語は二人が少女時代を過ごした葉山の別荘が取り壊されるのを機に、30代と40代に成長した二人が再会するというもの。二人は別荘の随所に早世した貴子の母春子の影を見出すのだが、そのあたりの回想と夢と現実とのない交ぜとなった文体は絶妙で、まさしく今、日本で最高の文学賞を与えられるべきものだと思わせる。
 日本語のブンガクはほんの1億余りものにとってだけの、世界に向けては閉ざされた世界だ。同時に、失われた20年を経て、失われてしまった「麗しきなにものか」を過去の中に追想する以外に目を向けるべき方向も閉ざされてしまっている。その限られた方向の中に優れた創造性を発揮するのは、よほどの才人か達人しかできるワザじゃない。
 朝吹さんは一昨年のドマゴ文学賞の受賞で世にでた。失礼ながらその時の印象は「美人なのに残念なぐらい耳だけが大きい子」というものだった。彼女が聞きわけた「きことわ」という響きは日本語のブンガクという池に投げ入れられた一石だ。芥川賞の授賞式では髪で隠されていた彼女の耳が、次には何を聞きわけて、どんな石を私たちの方へ投げ入れてくるのだろうか。
 朝吹真理子の「おおきな耳」に日本ブンガクの未来がかかっている。大真面目に私はそう思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説
感想投稿日 : 2011年2月25日
読了日 : 2011年1月25日
本棚登録日 : 2011年2月24日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする