文明の災禍 (新潮新書 437)

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  • 新潮社 (2011年9月20日発売)
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 東日本大震災における自然の災禍と、それとともに起きた福島原発の人災という文明の災禍とが起きた後に、自然と人間、そして人と人の関係をどのように編み直して生きうるのかを、文明に対する根本的な反省にもとづいて探究しようとする論考。その議論が死者の「供養」を出発点としていることは、印象的である。死者を置き去りにした空々しい「復興」の未来に血道を上げるのではなく、まず死者を弔い、その死を引き受けながら、生死が隣り合う現実に向き合うのでなければ、一歩も前に進むことはできないという。その地点から著者は、原発の人災に立ち至った文明そのものの問題へ踏み込んでいく。その議論によると、自然のなかに生きる身体を遊離した知性は、知を「専門家」に独占させたうえに、神話的なイメージとしての情報が飽和した空間を作り出し、そのなかでみずから機能不全に陥ってしまう。その果てに文明は、人が住めなくなった原発周辺の地域が象徴するような、いかなる創造ももたらさない破壊と化したのだ。未来の破壊。これまでの生の営みが根こそぎにされ、後に何も生まれない世界が、もしかすると生きもの自体の内部から産み出されつつあるのかもしれない。そのような状況を、生きることをつなぐ方向へ転換する可能性を、著者は「存在の諒解」のうちに求めようとする。それは自然の生きもののあいだに、他人たちのあいだに生きている、さらに言えばそこで生かされているという感覚を取り戻して、今一度「風土」に根を下ろすことであるという。それによって関係を再構築することが「復興」の前提というのが著者の結論のようである。それゆえ「復興」は、まず「地域の復興」でなければならないというのだ。たしかに、自然と人間、人間と人間の関係の再構築は必要だろう。しかし、それは「風土」に根づくことなのか。「風土」を語ること自体のうちに、あまりにも特殊なものの普遍化が忍び込んではいないだろうか。そして、著者の考える人間に、根を失って日本列島を漂いつつある人々は含まれていないように思えてならない。文明の災禍によって根を下ろしてきた場所を失った後、漂って生きること、漂着した人とともに生きること。その可能性を、共有するものをもたない者たちの関係のうちに探ることのほうが先だろう。さらに、漂着した場所で、身体的に生き方を変えてでも生きうる、生体の可塑性が根底から脅かされていることを、まずは問わなければならないはずだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学
感想投稿日 : 2011年10月14日
読了日 : 2011年10月14日
本棚登録日 : 2011年10月14日

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