「スロバキア人やポーランド人は、民族主義に命を差し出すことができる。これに対してチェコ人は、自らの民族感情に対しても懐疑的です。これはチェコ人が何も信じていないことと関係していると思います。チェコスロバキア政府の統計によれば、チェコ人の過半数が無神論者です。」
「共産党政権の政策に添う回答をしているのではないですか」
「ちがいます。実際にチェコ人の過半数が何も信じていないのです。神を信じないのと同時に共産主義も信じていない。民族主義には宗教的な要素があります。チェコ人は何も信じていないので、民族主義も信じることができないのです」
「宗教は信じていなくても、人間性の理念は信じているのではないでしょうか」
「『信じていた』と過去形で表した方がいい。1918年10月28日にチェコスロバキア共和国が建国されたときは、確かに多くのチェコ人は人間性の理念を信じていました。しかし、1938年9月のミュンヘン協定で、欧州民主主義国はチェコスロバキアをナチス・ドイツに売り渡した。ここで自由主義、民主主義に対するチェコ人の信頼は失われました。西側に対するチェコ人の幻滅が、第二次世界大戦後、チェコスロバキアを社会主義に向かわせた。チェコスロバキアは、中東欧において、自由選挙の結果、共産党政権が成立した唯一の国です。しかし、そこでチェコ人が経験したのは、スターリンによる恐怖政治でした。ここで多くのチェコ人が共産主義に対しても幻滅した。その中で、スターリン主義ではない、本来の社会主義を回復することができると考えた人々がいました。しかし、その希望も1968年8月にソ連軍の戦車が『プラハの春』を叩き潰したことによって潰えた。この三重の挫折が、チェコ人の存在論に影響を与えました」
「チェコ人の存在論?」
「そうです。結局、人間性というものを信用することはできないという実感です。」

北モラビアの人たちは、スリボビッツェ(プラムから作った度数50程のブランデー)を好みます。自家醸造している人も多い。スリボビッツェはモラビア人(東部のチェコ人)が好む飲み物です。ボヘミア人(西部のチェコ人)は、強い酒が苦手でもっぱらビールばかり飲みます。スロバキア人はワインを好みます。チェコスロバキアに行って、酒の好みを見ると、チェコ人、モラビア人、スロバキア人の区別がつきます。

「あなたは、ミラン・クンデラの小説を読んだことがありますか」とマストニーク氏は尋ねた。
「あります。『冗談』が日本語に訳されているので読みました」
「いま話題になっている『存在の耐えられない軽さ』は読みましたか」
「まだ日本語訳が出ていないので、英訳で読みました」
「どんな感想をもちましたか」

「僕は、ソ連に連れ去られた後、ドゥプチェク第一書記がラジオで国民に対して呼びかけたところの描写が印象に残っています」
「私もあの放送のことはよく覚えています。聴いていたラジオの前で、ドゥプチェクの声が十数秒間出てこない状態が何度も続きました。あの沈黙が何時間のようにも感じられた。チェコ人とスロバキア人は、ロシアに対して異議申し立てをしてはならないのだという現実を、ドゥプチェクの沈黙によって知らされたのです」
(ドゥプチェクはしばらく第一書記にとどまっていたが、その後トルコ大使になり、1年で本国に呼び戻された。西側に亡命してくれればプラハの春は西側の謀略だったと言えるので、本国はドゥプチェクに亡命を期待していたと思うが、ドゥプチェクは亡命しなかったという話が続く)
「佐藤さん、チェコ人の亡命者は、亡命後、2つのパターンに別れます。第1は、チェコ人という痕跡を消し去り、亡命先に完全に同化しようとする人です。フランスに亡命したクンデラにはその傾向が強い。クンデラの小説にチェコスロバキアという...

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2023年12月20日

読書状況 読み終わった [2023年12月20日]

私は津久井やまゆり園の元職員で、事件で亡くなった犠牲者19人のうち7人の生活支援を担当していた。県立時代の2001年から05年まで職員として働いていた。・・確かに外部からの批判や論評はできる。しかし、彼らは、そもそもやまゆり園のことも、犠牲者も加害者も知らない。このような事件の時のみ注目し、作家やライター、ジャーナリストなどがこぞって取材する。彼らは一体何のために取材しているのか。当時の被告の映像や画像を繰り返して使用し、モンスター化することに何の意味があるのか。事件後、障害当事者やその家族をメディアに出演させ、被告を批判・否定しようとしているが、「いのちは大切」「ともに生きる社会」などと声高に訴えることが事件に対する回答なのか。疑問を感じざるを得ない。

一般に知的障害者施設は、入所施設とグループホームに分けることができる。施設では、利用者の個性や特性に応じて、施設やホームが用意した日課・プログラムに参加することになっている。とりわけ「強度行動障害」と区分されている利用者は、家庭や、グループホームでの対応は難しい。彼らは自分の欲望を聞き入れてもらえないと、物に当たったり、自傷や他害、つば吐きなどといった問題行動を起こしたりもするのである。暴れる利用者や日課にのらない利用者をどう指導していくか。周りの職員も見ているし職員自身の指導力、力量性が問われているのだ。障害者虐待防止法が施行されて久しいが、職員は、懲戒と体罰のギリギリのところで勝負しているといっても過言ではない。「強度行動障害」の利用者は、どちらかといえば、体育会系の職員が担当することが多い。時に、抑え込み(ホールディング)という援助技術を行使することもある。そして、その帰結として利用者とどのように折り合いをつけるのか、反省・内省させるかといったことが課題となる。

(津久井やまゆり園と同じ)法人のかながわ共同体が運営する愛名やまゆり園入所者の元園長の不祥事と津久井やまゆり園入所者の長時間の身体拘束など不適切な支援の事例が数多く寄せられたことから・・県は第三者委員会を立ち上げ、津久井やまゆり園の支援の実態を調査することになった。そして2020年1月10日「津久井やまゆり園利用者支援検証委員会」が発足することになった。同年5月「検証委員会」による「中間報告書」が公表されたが、この「中間報告書」をめぐって波紋が広がっている。
「中間報告」では、一部の利用者に24時間の居室施錠や身体拘束を行うなど、やまゆり園の「虐待」疑惑の実態が明らかになったのだ。

暴力は、物理的に限らず言論の暴力も存在します。障害児の家族は平気で嘘をつきますし、都合が悪くなると机を叩きながら大声で威嚇します。面倒で怖いので誰も関わりません。おかしい方を守れば、おかしくなっても仕方無いと思います。意思疎通がとれないものを、どうして「人間」として扱うのか、法律を信じて疑わない方には考えることができません。加えて、価値とは、それを取得するために支払われた対価にもとづきます。人生の多くを浪費した家族が現実を認識するのは極めて困難です。障害者の家族は、「私達は幸せだ」と発言されますが、不幸に思う人もいます。幸せなら自分の家で、自分のお金で育てるべきです。施設で働く職員が重度障碍者の親になったときは「目の前が真っ暗になった」と云いました。・・(植松聖との手紙より)

2023年12月9日

読書状況 読み終わった [2023年12月9日]
カテゴリ 精神・障害 ☆4,5

菊澤教授は、本居宣長に関心をもった批評家の小林秀雄が晩年に繰り返し述べている「大和心」をもとに、マネジメントのあり方を論じます。

菊澤 そこに、不条理回避のヒントがあるのではないかと思っています。
昔は、最新の科学知識が中国から入ってきたため、科学的知識のことを「漢心(からごころ)」と言い、その反対語が「大和心」でした。それは、非科学的な価値判断に関わることであり、ある状況を見たときに、良いか悪いか、もし悪いとすれば、何をすべきか。ある人が悲しんでいる。それを無視することは良いかどうか。良くないなら、何をすべきか。まさにこれは人間としての誠実さ、真摯さに関わることであり、これを非科学的だと恐れるべきではないと小林秀雄は言っています。
ここで言う「大和心」は、言い換えれば「真心」のことです。業績や成果が高いかどうかという「見える」科学的観点から従業員を評価するだけでなく、従業員が誠実かどうか、正しい行動を行おうとしているかどうかといった「見えない」倫理的観点にも注意し、誠実な従業員を高く評価するマネジメントの尺度として理解できます。
(「組織の不条理―日本軍の失敗に学ぶ」菊澤研宗)

2022年6月11日

読書状況 読み終わった [2022年6月11日]

お薦めするのは、自分がこの古典の立場に立つとしたら、どのようにものが見えるか、そこからどう読み解くか、そうした錨になれる著作を二つつくることです。
私が基本的にアンカーにしているのは、神学部で勉強しましたから聖書です。それからカール・バルトの「教会教義学」。そしてマルクスの「資本論」。日本語では「太平記」です。今挙げた書物はかなり細かく読み込んでいますので、内在する論理は自分の中でそれなりに体得しています。つまり成り代わって、その立場から物事を言えるということです。

2022年4月18日

読書状況 読み終わった [2022年4月18日]

元々ベトナム戦争の後、ニクソンが他国を支援しながら権益を守る方針を発し、その時選んだのがイランとサウジだった。つまりイランは親米だったのだが、米軍の支援を受けた王政の腐敗が激しく、国民に打倒されることになった。新しい統治理念はホメイニーのヴェラヤーテ・ファギーフ論に基づくイスラム法学者による統治で、(僕は知らなかったのだが)イランでは憲法として発令されている。そこでは司法はイスラーム法に基づいており、議会は立法機関ではなく、行政機関なのだ。ただ、その後イスラーム法より社会公益(マスラハト)を重視するという令を出すことで、中央政府が立法府化している。
流れとしては、宗教的大義の元で支持者を動員して支配体制を樹立し、その後現実的体制維持に比重を移すというパターンで、そこはどの国も共通するところがある。と、いうことは、変動の時代にはどの大義が力を持つのかが重要という事だろう。

2022年4月14日

読書状況 読み終わった [2022年4月14日]

強気になる必要もないが、弱気になってはいけない。「合理的なものは存在し、存在するものは合理的である」との原則に従って、所与の条件を受け入れる他の術はないのだろう。

江戸時代までは日本でも本は今よりずっと大切に取り扱われた。…当時は、声に出して読むことのみを「読む」といって、黙読は「見る」といったはずだ。このスタンダードからすれば、小生は毎日本を「見て」いるに過ぎない。

ヘーゲルは「(知恵の象徴である)ミネルバのふくろうは夕暮れが近づいたときになって、やっと飛び始める」(『法哲学綱要』序文)と言っていますが、一つの時代がどのような時代であったかということが理論的(知的)に認識できるのは、その時代が終わるときだとい意味です。

昨日『旧約聖書』を読み終えました。1502頁、400字詰め原稿用紙に換算すると約4100枚になります。四カ月足らずの短期間で、決して読み易いわけではない宗教経典を通読できたのも拘置所に入ったおかけです。

独房で、私は二つの世界に足をかけていることになります。ひとつは過去の世界で、外交官という「公の世界」での半生の整理です。もうひとつは未知の世界で、おそらくは中世末期の神学、哲学を研究していくという「私の世界」におけるこれからの人生に向けての準備です。この二つの作業をドジに進めていても私には特に違和感がないのです。ということは、私の中では、この二つのテーマがどこかで繋がっているということになります。おそらく、「人間とは何か」という問題意識で繋がっているのだと思います。

『太平記』を読んでいて気付いた他の興味深い点は、日本が中華(中国)文化圏の辺境に位置しているのだということです。『太平記』の中で行動規範として引用されているのはすべて中国の古典からです。古事記、日本書紀の世界が行動規範になっていません。

(チェコの)初代大統領のトマシュ・マサリクは哲学者で社会学者、ロシア思想の第一級の専門家でした。学者としてのスタートは自殺の研究で『現代文明の傾向としての自殺』という本で、生活困窮が自殺の原因というのは実証的に裏付けることができず、むしろ、平均生活水準の高い集団で自殺は多いことを証明し、その理由として、システムの転換についていけず、アイデンティティーをもてなくなる市民が自殺傾向をもつということを挙げました。そして近代文明そのものに自殺化傾向があると警告しました。1890年頃のことです。

ロシアの冬で厳しいのは快晴の日です。ロシア語で「凍てつくような太陽」という表現があり、マイナス20度台の晴天には独特の寒さがあいました。大気中の水分が凍ってきらきらと光りながら落ちてくるのです。

2022年4月1日

読書状況 読み終わった [2022年4月1日]
カテゴリ 社会

イエスは、人々に悔い改めを訴えた。悔い改めはキリスト教の基本のはずだ。しかし、キリスト教徒は悔い改めを忘れてしまった。プロテスタント教会は、市民社会と呼ばれる資本主義システムと自己同一化してしまった。この根源は、313年のミラノ勅令によってコンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認したことにある。これによって、教会と国家が癒着してしまった。

キリスト教徒というのは、どの組織にも、どの社会にも、ましてや国家には一体化できない人たちです。それだから、他者に影響を与えることができるのです。牧師は、教会の中だけで働くのではない。社会のあらゆるところで牧師は働かなくてはならないと僕は考えている。
・・別れ際に石井先生が、「佐藤君。外務省での生活が苦しく、どうしても耐えられなくなったらいつでも神学部に帰ってきなさい。僕たちはいつまでも君のそばにいるからね」と言った。

2022年3月20日

読書状況 読み終わった [2022年3月20日]
カテゴリ 社会 ☆4,5

筆者が、ロシアで最も影響を受けたのは、エリツィン政権初期に国務長官をつとめ、ソ連崩壊のシナリオを描いたゲンナジー・ブルプリスだった。ブルプリスは筆者に「歴史を創るような政治家に食い込む手段は一つしかない。1本脚のテーブルになることだ」と言った。筆者はよく意味が分からなかったので「1本脚のテーブルとは何ですか」と尋ねた。ブルプリスは、言った。
「官僚や外交官は、いつも保険をかける。複数の政治家とバランスを取ってつき合おうとする。しかし、エリツィンのような政治家は、そういう連中を信用しない。テーブルは1本脚でもそれがしっかりしていれば倒れない。3本、4本の脚があっても、寸法が合わないとがたがたする。『この人だ』と決めたら、絶対にそこから動かない。そういう人間は外国人であってもロシアの政治家から信用される」

給料ももらえず、アパートの一室でたくあんだけの夜食をとり、靴下のほころびをつくろう。熱にうなされ、目がさめる。発熱して腕にキラキラと光る汗をかいた夜が、いくたびもあた。これが二十二、三歳の私の青春の一面でもある。
一日の快い疲労を願ってもかなわぬ体で、アパートの一室へ帰った私の、当時ひそかな楽しみは、読書であり、またあまり音のよくないレコードの曲に独り静かに耳を傾けることだった。ホイットマンの『草の葉』をよく読んだ。神田の書店でなけなしのお金をはたいて求めたものである。新世界をうたう民衆詩人との対話に、私は慰めよりも勇気を求めた。「寒さにふるえた者ほど太陽の暖かさを感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る」とのホイットマンの一句は、私の心境でもあった。

創価学会にキリスト教のような原罪観はない。しかし、人間の悪を自覚させる十階論という優れた考え方がある。

1978年のフランス革命による共和制、1917年のロシア革命による社会主義体制も権力の魔性から逃れることはできなかった。フランス革命ではロベスピエールの恐怖政治が行われた。革命後の混乱からナポレオンが登場し、皇帝に就任し、共和制が理想とした民主主義は形骸化してしまった。ロシア革命の結果、スターリン主義が生まれ、ソ連は収容所群島になってしまった。
これらはすべて権力の魔性の仕業なのである。人間革命を経ない政治革命、社会革命は必然的に権力の魔性の虜になってしまうのだ。

2022年3月17日

読書状況 読み終わった [2022年3月17日]
カテゴリ 人間・啓発 ☆4,5

結局、僕は神を信じたいのだけれど、信じることができないのだと思う。もちろん無神論を信じることもできないけどね。アウシュビッツ以降のユダヤ人はみんなそういう感覚を共有しているよ。
・・
父から何度も聞いたことだけど、アウシュビッツでは人間のすべての能力が試される。知的能力の高いものが生き残るわけでもなければ、意思力が強固な者が生き残れるわけでもない。人格的に高潔な者が生き残るということもない。しかし、それが神の意思であるというのは、あまりに安易な合理化のように思えてならない。神という作業仮説をできるだけ回避することが、僕は人間として誠実なあり方だと思う。

時間はかかるけれども、チェコスロバキアの全体主義体制は必ず壊れるよ。今度は、『プラハの春』のときとは違う。逆戻りはない。ただ、社会主義後のチェコ人は、共産主義も髪も、そして自分自身も信じることができない、とてもシニカル(冷笑的)な人々になると思うけどね。そういう状況でわれわれがどうやって人間性を回復していくかについて、もう一度、マサリクやフロマートカに立ち返って考え直してみる必要があると私は思っているんだ。

「結局、一人ひとりが、自らの足場を掘り下げていくしかないと思うんだ。学問にしても、人生にしても。究極的なところでは群れたらだめだ」
「それはちょっと淋しい気がしますね」
「淋しいけれど、そうなんだと思う。しかし、問題はその先だ。一人ひとりが足場を掘り下げた地下にはこの鴨川のような地下水脈が流れているのだろうか」
「どういうことですか。先生がおっしゃることの意味がよくわかりません」
「実は僕もよく意味がわかっていない。人生なり、研究なりを真剣に掘り下げて、その先に他の人々ともつながる地下水脈はあるのだろうか。もし、ないならば、僕は一生かけて水の出ない井戸をただ掘っているだけになるんじゃないか」

2022年2月23日

読書状況 読み終わった [2022年2月23日]
カテゴリ 伝記・体験 ☆4,5

・自主訓練として何からやればいいか。例えばハーバーマスを読んで、難しいから、どんなふうに要約したらいいかわまだわかんない場合は、要約ではなくて、抜き書きをすればいい。全部の書き取りみたいなことをしたら、むしろいけません。・・全体の2%ぐらいがちょうどいい。「この本についてどこかで説明しないといけない」という状況を設定して、メモとして持って行けるのはこのくらいと決められている。そのための抜き書きをつくるんです。

・キリスト教は刺青みたいに墨が入っていて抜けない(原罪)。仏教は罪はあるけれど墨抜きできる。イスラム教はそもそも原罪感がない。

・あの人たちは、厳しい宗派で、一定の人数を勧誘しないと天国へ行けないんです。だから自分の子どもを放っぽり出してでも、伝道して雑誌を売って歩いてるんですよね。
(まあ、これは全然正確でない)

2022年2月12日

読書状況 読み終わった [2022年2月12日]

僕は無神論者なので、批判的に見ますけれど
とても丁寧に神学というものをどう考えているのかを説明していたと思います。

・キリスト教は、救済を目的とする宗教です。より正確に言うと、「真の神であり真の人であるイエス・キリストが唯一の救い主である」ことを信じることによって救われる宗教です。救済は、人間にとって、主体的な問題です。キリスト教の場合は、神からの人間に対する呼びかけにどう答えるかが、問題の核心になります。それだから、キリスト教について、純粋に客観的なアプローチはありません。主体的な参与(コミットメント)を必要とする事柄に関して、純粋客観的な記述をするというこおとは、範疇(カテゴリー)が異なるので不可能です。

・日本では、キリスト教が近代主義と親和的で、知的な宗教であるという印象があります。これは、現代に影響を与えている日本のキリスト教が、明治期以降、日本の近代化の過程で導入されたからです。このキリスト教は、啓蒙主義の嵐をくぐり抜けて、近代的な世界観と折り合いをつけることに成功したキリスト教です。もっともキリスト教が啓蒙主義とつけた折り合いは、表面的なレベルにとどまり、神学的に深く考察すると、キリスト教は人間の理性と衝突します。キリスト教は、人間が原罪を持っていると考えます。それですから、人間が造りだした文化や社会制度に肯定的価値を付与することは、根源においてできないのです。

・キリスト教は人間の良心に積極的な価値を付与しません。両親は、人間の内部の力によって担保されているのではありません。あくまでも外部からの、神の啓示によって人間の良心が呼び出されるのです。神からの召命を抜きに人間の良心は成立しません。

・バルトは、日常的に教会に通うキリスト教徒を、語りかける第一義的対象者と考えました。こういうキリスト教徒に対して、資本主義社会の小市民的な文化と福音を混同してはならないとバルトは警鐘を鳴らしました。しかし、教会の外側の人は、バルトにとっては第二義的な対象に過ぎませんでした。このようなバルトの姿勢に私は物足りなさを感じるのです。

・私は、「神はどこにいるか」という問題を学術的に解決することはできないと思っています。神は、人間と人間の関係において見出されるのです。具体的な人間と人間の関係で「上にいる神」を実感するというアプローチをとるしかないと思います。言い換えると、人間が他者に奉仕する過程において神を知るのです。

2022年2月3日

読書状況 読み終わった [2022年2月3日]
カテゴリ 社会

コンサルタントは三種類のプロセスを徹底的に調べることになる。クライアントが何を考えどんな問題解決プロセスを思い描いているか、進め方についてクライアントが明確に理解しているか、コンサルタントがするべきことに対してクライアントがどんな思い込みをもっているか、の三つである。


プロセス支援とはつまり、厄介な問題になりかねない懸案を認識し、そのうえで誰かの無知(知らないこと)を戦略的・戦術的に使うこと、そして、今起きていることをグループがみずから目にし、別のやり方を選択することについて自分たち自身で判断できる瞬間に、タイミングを測り、最新の注意を払って質問することである。


ずっとあとになって、私は重要なことを理解した。私は厳しい専門家になって「その行動はよくない」とグループに指摘してしまっていた、と。感受性訓練グループのファシリテーションで学んだルールの一つ、すなわち、行動は観察するものであって判断を下すものではない、というルールに、私は完全に背いてしまっていた。行動について判断を下すことや、発言をさえぎったらどうなるかを考えることは、グループにしてもらうことなのだ。私は、「このグループでは〇〇ということがたびたび起きていますね」ということによって、それは望ましくない行動だとはっきり告げてしまっていた。


私は忘れてしまっていた―優秀な人がわけもなく愚かな行動を取るはずがないことを。そのため、端から見れば愚かに思えるが、彼らとしては筋が通っているのかもしれないことを彼らがしている理由を見つけ出す必要があることを。


傾聴の仕方に関するアドバイスはさまざまあるが、そのいずれにおいても、“どんなことに耳を傾けるべきか”については選択肢が十分に区別されていないと思うからである。このケースで私が耳を傾けることにしたのは、「彼らが何が何でも取り組みたいと思っていることは何か」という点だった。


コーヒーとデザートが運ばれてくるとすぐに、私は一同に注目してもらい、次のように語った。
「話し合いをうまく進めるために、全員でやってみたいことがあります。少し奇妙に思うメンバーもいるかもしれませんが、このように始めることはきわめて重要だと私は考えています。私の左側から、座っている順番に一人ずつ、マス・オーデュポンに参加した理由を、飾らず率直に一、二分ずつ話してください。全員が話し終えるまで、意見を述べたり話しを遮ったりしないこと。その後、予定の議題に入ります。時間は少々かかりますが、全員の理由を聞くのは意義深いことだと思います。ではロジャー、トプバッターをお願いします。あなたはなぜこの組織に入ったのですか」
…実際の展開は、「ミラクル」という言葉がおそらく最もふさわしいだろう。自分の番になると誰もが、とりわけノーマとルイスが、マス・オーデュポンが自分の人生においてどれほど大切か、環境保全や自然教育に対してこの組織が果たしている役割がどんなに重要か、そしてこの組織の成長と繁栄に貢献することに自分がどんなに情熱を燃やしているかを、熱く語ったのである。30分ほどで全員が話し終え、私たちはこのタスク・フォースにはさらに細部を詰めつつ進んでいく覚悟ができていることを知ったのだった。


【読者への提案】
潜在クライアントが問題を抱えて電話をかけてきたとする。次に示す対応すべてに目を通し、自分がしそうな対応として最も可能性の高いものから低いものまで順位をつけて、「なぜそのように言うのか」を考えてみよう。

・潜在クライアント
シャイン教授ですね…、よかった、つかまって。私たちの組織で行う文化調査に、ぜひお力添えいただけないでしょうか。従業員エンゲージメントがあまりに低いので、この点について私たちの文化を明らかにしたいと思う...

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2020年1月2日

読書状況 読み終わった [2020年1月2日]

>神田橋
まず「何番さんどうぞ」と呼ぶときには、カルテの住所欄だけは見ています。ああ、どこどこから来られた人か、と。で、患者さんが入ってこられたときにボクがいちばん先に見るのは、入ってきたときに向こうがどういうスタンスをとるか、なんです。いま思い描いているケースの場合は、入ってきたら、さささっと部屋の中の様子を観察されました。そしてそれを見たらボクは、この患者さんは脳に余裕がある、と思います。受動的な振る舞いでなく、能動的な・情報収集の振る舞いをしているから、余裕がある、という判断です。余裕があることを確認したら、次にするのは、もう一度、住所を見ながら、「兵庫からわざわざ来たん?」とか言う。

>白柳
そのかたは男性ですか、女性ですか?どんな人ですか?

>神田橋
男性です。年は三十代くらい。中肉中背。

>白柳
(人物像をイメージして)…はい。

>神田橋
それでボクは「兵庫のほうから来られたんですか、大変でしたね、新幹線ですか?」と言う。するとそれに対して患者さんは、「実は高校までは鹿児島で、○○高校なんです。大学が関西のほうで、そのまま関西で就職したからいまは兵庫ですが、実家はこちらですから」って。これは、こちらが出した<遠くから来て大変でしたね>という問いかけに対して、的確に、ボクが必要とするであろう情報を提供してくれているわけです。これは、忖度の能力です。忖度を多く含んだコミュニケーションをやり取りする能力。

>白柳
兵庫から来て大変と思われたでしょうが、実家はこちらですから、ちょいちょい移動している距離なんですよ、という話ですね。

>神田橋
入ってきたときに周りを見回して、そしてこういったやり取りのできる人であれば、まず、双極性障害圏の人である可能性が高いと判断します。6、7割の確率でそうだろう、と。それで次にするのは、○○高校と聞いたわけだから、「ボクは(鹿児島県の)加治木高校なんですよ」と言ってみる。これは同じ県内の高校ということで、親しみを投げかけているんです。

>白柳
はい。

>神田橋
そして投げかけた親しみがポジティブな機能としてはたらく―、はたらくというかそのように受け止める人であれば、これは<接近>に親和性がある、と考える。接近されることに警戒や抵抗感がないわけですから。そうするとこの人は、対象関係が良くて、愛着障害はあまり考えなくてもいいだろうな、と想定する。

>白柳
愛着障害に関連するのかもしれませんが、接近しすぎるか・接近がほどよいかは、親しみを投げかけた時点で現れますか?

>神田橋
現れます。

>白柳
接近しすぎる人だとどうなのですか?

>神田橋
接近しすぎる人だと、さっき言った、部屋に入ってきたときからの、全体を見回して忖度のある応答をして、という構成が壊れています。たとえば、空間を見回すことなく、こちらに心を寄せてこられたりとか。


>白柳
うつ病でのうつ状態と、双極性障害でのうつ状態とは、その状態だけ見て、見分けがつくものですか?

>神田橋
すぐわかる。うつ病のうつというのは、気分が憂鬱だとよく言われるけれど、そうではないんです。気分が下がる前に能力が下がるんです。

>白柳
気分はどうともないけれど、なんかうまく動けないなあという時期が先行するわけですか?動けない時期があって、それから気分の落ち込む時期が来る?

>神田橋
そうです。仕事ができないとか頭がはたらかないとか。ひらめかない。

>白柳
では頭がはたらかないなあと言っているときには、まだ、気分は落ちていないのですか?

>神田橋
落ちていない。でも仕事もうまくできないし、焦って、それでだんだんうつになるの。気分...

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2019年10月2日

読書状況 読み終わった [2019年10月2日]

「みんなどんなにすばらしいカードがそろっていても、私が降りてしまっては困るからと、絶対にレイズしようとはしないの」。そこでデュークは生徒たちに尋ねる。自分に強いカードがそろっていてもレイズしないのに、なぜ相手がレイズしたら強い手を持っていると思うのか、と。「この演習をしてみて、みんなようやく自分がどれほど敵の視点でテーブルを見られていないか分かるのよ」とデュークは言う。

レンゼッティ家はチェスナット通り84番地の小さな家に住んでいる。フランク・レンゼッティは44歳で、引越会社で経理の仕事をしている。妻のメアリーは35歳で保育園で働いている。二人には5歳になる息子のトミーがいる。夫を亡くしたフランクの母カミラも同居している。ここで質問だ。レンゼッティ家がペットを飼っている可能性はどれくらいか。
この質問に答えようとするとき、たいていの人は一家の詳しい情報に目を向ける。こんなふうに考える人もいるかもしれない。「レンゼッテというのはイタリア系の名前だな。フランク、カミラというのもそうだ。だとするとフランクには大勢の兄弟がいたはずだが、息子は一人っ子だ。おそらく大家族を望んでいるが、経済的余裕がないのだろう。だから代わりに犬を飼うというのは理にかなっている」。一方別の人は「ペットは子どものために飼うことが多いが、レンゼッティ家の子どもはまだ一人で、ペットを世話するには小さすぎる。だから飼っていない可能性が高い」。このようにストーリーを組み立てるのはとても説得力がある。家族にまつわるさらに詳しい情報が得られる場合はなおさらだ。
しかし超予測者は、少なくともはじめはこうした情報には目もくれない。最初に確認するのは、アメリカの家庭の何%がペットを飼っているかだ。
(フェルミ推定)

新たな視点を手に入れる方法はたくさんある。他の人々はどんなふうに予測を立てているのか。どんな外側、内側の視点を持つに至ったのか。専門家は何と言っているのだろう。訓練すれば自分自身で新たな視点を生み出せるようにもなる。
ビル・フラックも予測を立てるとき、デビッド・ログと同じようにチームメイトに自分の考えを説明し、批判してほしいと頼む。仲間に間違いを指摘してもらったり、自分たちの視点を提供してもらいたいからだが、同時に予測を文字にすることで少し心理的距離を置き、一歩引いた視点から見直せるからでもある。

積極的柔軟性は、ペンシルバニア大学で私の隣の研究室にいる心理学者ジョナサン・バロンが考案した概念だ。バロンが作成した積極的柔軟性を測るテストは被験者に、次のような文に同意するか否かを尋ねる。
・自らの考えと矛盾するエビデンスを考慮すべきである。
・自分と同意見の者より、違う意見の者に耳を傾ける方が有益である。
・意見を変えるのは弱さの表れである。
・直感は意思決定における最高の指針である。
・矛盾するエビデンスがみつかっても、自らの考えを貫くことが重要である。

もう一つの示唆に富むエビデンスは「五分五分」という表現にまつわるものだ。注意深く確率論的に思考する人にとって、50%というのは数ある選択肢の一つにすぎない。このため50%と数字を使う頻度は49%や51%と変わらない。一方、頭の中に選択肢が三つしかない人は確率を判断しろと言われると、50%という数字を使いがちだ。50%を「どちらともない」と同義に考えているからだ。このため頻繁に50%を使う人は、予測の正確性が低いと考えられる。トーナメントのデータもまさにそれを裏づけている。

あなたと人生のパートナーのこと、そして二人を結びつけた無数の出来事を考えてみよう。あの晩、あなたがパーティに行かずに勉強していたら。パートナーがあの日もう少し速く歩いて、電車を逃していなかったら。あの週末、あなた...

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2019年8月25日

読書状況 読み終わった [2019年8月25日]

私の好きな経営者がよくおっしゃっていて、共感する言葉に、「利益は、うんこ」というものがあります。「うんこ」って生きていくうえでなくてはならない要素ではあるけど、それを目的にしてしまうとおかしな人生になります。

急ぐことは無い。朝起きて夜寝るまでの間に1個でも2子でも何かつかめたことがあったなら、良い。それでも、気づいたら案外たくさんのことができているものだよ。

「また来たい」を生むのは、どの飲食店も永遠の課題。その実現において究極的に何が大事かというと、「相手に合わせること」です。これは言いなりになるという意味ではありません。お客様は何を望んでいるのかを推察し、自分が打てる手をいかに出すか。料理をつくる時もそうです。

2019年8月16日

読書状況 読み終わった [2019年8月16日]

陽明学の持つ「良知(Conscience)」と「天の法(Heavenly laws)」の思想を、内村は、もっともキリスト教に近い思想と解している。そのために、陽明学は、進歩的、革新的な思想となり、江戸時代には危険な思想ともみなされたのである。
内村は、高杉晋作が、かつて長崎で聖書を調べ、「これは陽明学に似ている。帝国の崩壊はこれで始まるだろう」と述べたと書いている。
 
 
ナポレオン的人間の太閤に対して、クロムウェル的人間として西郷をみていたのにもかかわらず、そのクロムウェルと西郷との相違も、やがて指摘するようになる。

西郷と較べまして、クロムウェルは其天稟の性に於て劣って居ったかも知れません。しかし彼はより広き活動の舞台を持ちました。又より深き宗教を信じました。キリストは確かに王陽明よりも偉大なる人類の教師であります。それ故にクロムウェルは西郷の為し得ない事を為しました。彼は第一に自己に勝ちました。情に負けませんでした。正義の為には己の部下、同僚、友人と戦ひました。彼は又英国人でありながら英国の為に戦ひませんでした。英国を以って世界人類の為に戦ひました。西郷もまた「正義の為には国家を犠牲に供すべし」と言いましたが、クロムウェルは西郷のこの言を実行したのであります。
 
 
仏教基督教の相違はどこにあるかと云ふに、枚挙するにいとまあらずといえども、主として愛の観念に於いてある。基督教に最も近いと称せらるる浄土門の仏教に於いて弥陀の他力本願が唱へらるるといえどもこれをキリストの十字架上の罪の贖いと比べて其間に天地の差があることを認めざるを得ない。弥陀の慈悲が慈悲の為の慈悲であるに対して、キリストの愛は義に基づける愛である。基督教の神は義の神であって、義によらざれば人の罪を赦さず、義によらざれば救を施したまはない。
 
 
宗教は心を耕すもので、農地は地を耕すものである。実物を貴び、空想を排する点に於ては二者全く同一である。―農業と宗教
 
 
「報徳記」でも、「日本及び日本人」でも、道徳と経済との結合は、きわめて単純で、道徳がそのまま経済的な繁栄の有無に直結するものとして把握されている。内村の尊徳論には、まだ、道徳的にすぐれていることが、必ずしも経済的な繁栄を生むことにはならないという、神義論的な疑問が見られない。
それが、再改版の「代表的日本人」(1921)には、はじめて一言されてくる。再改版「代表的日本人」での修正部分は、相変わらず、文法的な小修正などにとどまるが、一か所のみ注目されるのは、パナマ運河の開削工事が中絶状態にあることを述べたところに、次の注記を加えていることである。

Now accomplished by American gold, against our prophecy is Mammonism!

すなわち、1904年からパナマ運河はアメリカの手で建設が開始され、事実上の開通を、再改版「代表的日本人」の出る八年前の1913年9月25日に迎えていたのである。
 
 
日本陽明学の祖といわれる中江藤樹の思想に、日本のキリスト信徒たちは、少なからぬ親近感を寄せてきた。海老名弾正は、藤樹のことを「基督の福音を聞かずして既に基督教界の長老たり」と言っている。
 
 
内村の中江藤樹論は「村の教師(village teacher)」の副題がついているように、教育論、教師論である。内村は、西洋化された近代日本の教育と対照して、古き日本のよい教育を列挙することから始める。
第一に、教育は生活手段を獲得するための職業教育ではなく、真の人間形成、「君子」となることを目的としていた。
第二に、知識の詰め込みを、教師が専門分野ごとに分かれて行うのではなく、道徳、それも実践道徳が教え...

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2019年6月17日

読書状況 読み終わった [2019年6月17日]

「相関」という概念が提唱されたのは1888年のことだ。提唱者は、チャールズ・ダーウィンのいとこに当たる人類学者、統計学者のフランシス・ゴルトンである。人間の身長と前腕の長さの間には関連性があると気づいたのが、きっかけだった。

「causality(因果関係)」「correlation(相関関係)」

相関は、「理由」ではなく「答え」しか教えてくれない。

確かに人間は世の中を因果関係で眺めている。まず、手っ取り早く架空の因果関係を持ち出すパターンがある。もう一つは、じっくり時間をかけて綿密に因果関係を検証するパターンだ。ビッグデータによる相関関係は、このどちらにも影響を及ぼす。
なぜ架空の因果関係を持ち出してしまうかといえば、「因果関係を知りたい」という本能的な欲求があるからだ。たとえ原因などなくても、原因があるはずだと思い込む習性が人間にはある。これは文化や家庭環境、教育とは関係ない。単に人間の認知の仕組みによるものだということが研究で明らかになっている。ある出来事の後に別の出来事が起こると、脳が因果関係で捉えるように強く命令するのである。

例えばこんな3つの文を見ていただきたい。
「フレッドの両親が遅刻してきた」
「仕出し屋はまもなく到着する見込みだ」
「フレッドは怒っていた」

これを読むと、なぜフレッドが怒っていたのかピンとくる。仕出し屋がすぐに来るからではなく、遅刻した両親が原因だ。本当は、ここにある情報だけでは何もわからない。それでも人間の脳は、与えられた事実を基に、因果関係のある筋の通ったストーリーを作り上げてしまう。
2002年ノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学のダニエル・カーネマン教授は、この例を引き合いに「人間には2つの思考法がある」と主張する。
1つは手間をかけない直感的な思考法だ。こちらは即座に結論に飛ぶ。もう1つは、難易度が高く、時間をかけてじっくり考え抜く論理的な思考法だ。1つめの直感的な思考は、たとえ因果関係などない場合でも、因果関係を「思い描く」ことを優先する。また、既存の知識や信念にこだわる傾向がある。人類の古代史を見れば明らかだが、人間は乏しい情報の中ですばやい決断を迫られるような場面が多い。そういう危険な環境で生き抜く時に、この直感的思考は役に立つ。しかし、現象を生み出した真の原因を見つけられないことも多い。

日常生活では因果関係で物事を捉えることが多いため、因果関係は簡単に見つかると考えがちだが、現実派そんなに甘くない。数学的に浮かび上がる単純明快な相関関係と違い、因果関係は「証拠」を数学的にはっきり示す方法がない。そもそも一般的な方程式では因果関係を簡単に表すこともできないのだ。

モーリーはデータを集めると、大西洋全体を緯度・経度とも5度ずつのブロックに細分化し、各ブロックに気温、風や波の速度・方向を書き込んだ。もちろん、日付も添えた。その上で全体をじっくりと眺めると、一定のパターンが明らかになり、効率的なルートが浮かび上がってきた。
改めて船乗りたとの間で代々語り継がれてきた航路を当てはめると、風のない凪の海にわざわざ進路をとっていたり、風や海流に逆らっていたりするものもあった。ニューヨークからリオデジャネイロへのある一般的な航路の場合、自然を上手に利用するどころか、長時間、自然に戦いを挑むようなコースも散見された。米国の船乗りの間では、「リオにまっすぐ南下する航路は危険が多い」と言われてきた。そこでいったん南東に進路をとり、赤道を越えた後に南西に進路を切り替えていた(その移動距離たるや大西洋を3回横断できるほどだった)。この複雑怪奇な航路にはまったく意味がなく、一気に南下すればよかったのだ。
(大半の航海距離が1/3に短縮された)

2019年3月6日

読書状況 読み終わった [2019年3月6日]

ケレーニィが、「神話は本来、<なぜ>に答えるものではなく、<どこから>に答えるものである」と述べるように、神話は時の始まりの聖なる歴史の物語である。それは、人間ではなく神々と英雄たちの物語である。

…お母さん。私が拒食症になったのは、ふとっているからやせたくて食べない、というはっきりした理由ではなかった。私はもともとやせていたのだから。自分では食べなければいけない、と思ったの。それなのに食べられなかった。それはとても苦しかった。
でも、病院のベッドではっと気づいたの。自分の決意や努力ではどうにもコントロールできない<何か>が私に働いている。入りたい高校の私見に落ちたのも、自分でコントロールできない<何か>が働いたのだと思う。
もっと辿って行けば、私がカナダへ行ったのも、イギリスへ行ったのも、アメリカへ行ったのも<何か>の力が働いたのよ。お父さんがそういう会社で働いていたからじゃないと思う。それをいうなら、私がお父さんとお母さんの子どもとして生まれたから、ということになるでしょう。そういうことじゃないのだ、と気がついたの。
人間ができる限り力をつくしても、どうにもならない、というものがあるのよ。麻衣子なら麻衣子という一人の女の子の<こうしたい、こうしよう>というコントロールを超えた<何か>、その<何か>の力はとても大きくて強いの。いままである既成の言葉でいうなら、<何か>は<宿命>とか<運命>とかいうのかもしれないけど、ちょっとそれとも違うようなかんじなのね。
人間はできる限り力をつくせば必ず成功する?そんなことないでしょう。一生懸命生きているのに白血病になる人はいるし、一生人のためにつくした人がガンになったり、ボケたりする。
そういう、私の決心や努力ではコントロールできない病気の体を、私は自分自身で受け入れようと決心したの。お母さんは、私に生理が来ないから、結婚できないのではとか、子供を産めないのではとか、心配しているのでしょう。それは私を超えた問題。
いまは、病気になってしまった体を自分のこととしてまず受け入れる。自分の力の及ばない状況から逃げ出すのではなく、あきらめるのでもなく、いま、自分の力の及ぶことをやるの。それは勉強すること。病院のベッドで寝ていてさえ、これだけのことがわかったのよ。ベッドに寝ていたから、ともいえる…。
私が勉強したいのは、どんな願わしくないことがやってきても、打ち負かされない力をつけたいから。お父さんがあの時、私が九年生の時、<日本の学校へ行け>といったから、こんなことになった、なんて、一度も考えたことはないのよ。

この人、死ぬために戻ってきたんじゃない。…どこで死にたいかということは、どこで生きていたいかということと同じなんだ。

「ことばのない世界」とは、「区切る」ということのない世界。それがそれそのものとしてある世界である。

ソシュールは、言語記号は慣用的にそれからもたらされるイメージのみを示すのではなく、その概念をもになっていることを指摘し、言語記号は「概念」と「聴覚映像」の二面を有する心的実在体であると主張した。そして、前者を「意味(シニフィエ)」、後者を「表現(シニフィアン)」と新たに呼ぶことを提唱した。すなわち、ことばはイメージのみを示す「記号(サイン)」ではなく、意味と表現が相互に呼応し合うものであると主張したのである。

病者と非病者は、対をなす概念ではないことを強調したい。病者が「有徴者」であるのに対して、非病者は無徴者であるから、「非病者」という否定的表現しかできないはずであって、「健常者」ということばはおかしい。

心理療法にはじめて科学的方法を導入したのは、周知のようにフロイトである。また、近代医学の発展も科学の恩恵によっている。そこでは、否定的...

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2019年2月16日

読書状況 読み終わった [2019年2月16日]

あるネットワークビジネスが1994年に公表したデータによると、少しでも小売活動やスポンサー活動をした「アクティブ・ディストリビューター」(全ディストリビューターの約30%)の平均年収が約21万円、仕入れが直接できるランク以上(アクティブ・ディストリビューターの約1.3%)の平均が約488万円、名実ともに成功者と呼ばれるランク以上(アクティブ・ディストリビューターの約0.05%)の平均が約2350万円である。

2019年2月3日

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われわれは物事を別の面から見るばかりでなく、別の目でもって見る。だから、それらの事物が同じように見えるわけがない。―パンセ

本書にとって重要なことは、明治時代になって、日本の心理療法が、そのような呪術的環境に生まれ落ちたということである。心身の不調をキツネが憑りついているせいだと捉え、山伏がキツネの霊を祓う文化の中に、心理療法の種子は播かれた。このとき、病の原因は病者の外側にあるこころへと移されることになるので、そこには激しい葛藤が生じることになる。

ウィニコットはスクイグルが「赤ん坊の自己がまだ形成されていない、ごく初期の依存が最大の時期」のコミュニケーションをもたらすと指摘している。

実は、意味を汲みだし理解することと、美的にかたちづくることが芸術療法の両輪であることを、芸術療法の始祖であるユング派深く認識していた。ユングは芸術に対する態度として、表現された意味を把握する「理解原理」と、美的なかたちを追求する「造形原理」の二つがあり、両者が相互補完的に作用することが望ましいと指摘している。しかし、実際には、ユングは「造形原理」ではなく「理解原理」を偏重した。その決定的な瞬間が、彼の自叙伝に描かれている。


ここからは数冊の本を棚に入れた。

2019年1月19日

読書状況 読み終わった [2019年1月19日]

若い世代の採用問題は、これまで見てきた出生数の減少だけにはとどまらない。「若い世代が家を出たがらなくなっていること」が採用問題に拍車をかけている可能性が高いのだ。若者が外出しなくなっていることを知る上で、面白いデータがある。国土交通省の「平成27年全国都市交通特性調査」によれば、20代(20~29歳)の若者の1日の移動回数は、1992年の2.4回から、2015年には1.8回に減少している。ちなみに、70代は1.5回から1.9回へと増加しており、70代のほうが20代よりも移動回数を見ればアクティブだといえる。

買う物次第ではあるが、アマゾンとゾゾタウンで欲しいものが手に入るという前提に立てば、買い物に出かけることを娯楽までに転換させるか、または1万円近くの意味がある行為として意味を持たせなければ、人は「買い物にでかける」ということに疑問を感じ始めるかもしれない、ともいえる。

ここで第二章の冒頭で触れた、オックスフォード大学のオズボーン/フレイの論文「雇用の未来」を思い出してみたい。その論文の中で、もっともコンピューターに置き換えられにくい職業は何だったか?
第一位は「レクレーション・セラピスト」だった。
日本では聞きなれない職業だが、レクレーション・セラピストのSOCをもとに「ONET Code Connector」の仕事内容を見てみよう。ちなみにONET Code Connectorは、米国の労働省が運営しており、職業内容を定義したデータベースを管理している。
「(レクレーション・セラピストは)病院、(自立した生活が困難な人向け等の)ナーシングホームやその他機関における患者の為に医学的に認定されたプログラムを計画、管理、調整を図る。(そのプログラムには)スポーツ、旅行、芝居、社会活動、美術工芸を含んだ活動がある。(レクレーション・セラピストは)患者の状態を評価したり、適切なレクレーション活動を薦めたりすることがある」

2018年10月22日

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サティアの面接にまつわる有名な話があります。台所で手斧を持って妻を追い回す男性へのコメントです。サティアは彼に言ったものでした。「あなたは本当は、奥さんにもっと近づきたいって伝えたいんでしょう。でも方法がわからないのよね」。サティアはこのようなコメントが戦略的であるとはこれっぽっちも認めませんでした。彼女が言ったことには「ハエを捕まえる時には、お酢よりハチミツを使った方がいいでしょう」


それは、女流作家アニー・ディラードが、1994年に使ったフレーズです。「川が岸に沿い、形作るように、こころは世界に沿い、形作る」


とうとうトムが父親に向かって、暴力的になる瞬間、浮かび上がってくる声は、身体のどの辺りにあるようですかと質問しました。「頭の中です」と父親が答えたので、トムが「この声が動けるとしたら、それはどこに行こうとするでしょう?」と尋ねました。「私の頭の中に留まっていて欲しいと思います」と父親は言いました。「家族のことを大事にしてあげなさいという声が、あなたの身体のどこか別のところに居場所を見つけるとしたら、どこだったらいいと思いますか?」とトムが尋ねたところ、「私のこころの中だったらいい」という父親の答えが戻ってきました。

トムの最後のコメントは、会話の中で人々にこころが動かされる機会を与えなければならないというものでした。彼は次のように論じています。「声には、それぞれの故郷(ふるさと)があるに違いありません。いつだって、それぞれの声が身体のどんな場所を選んで蔵したがっているかと、尋ねてみなければなりません。セラピストは一つの声の見方をして別の声に立ち向かわせてみたり、一つの声を励まして他の声をコントロールさせたりしてはなりません。平和にまつわる全ての仕事がそうであるように、さまざまな声が隣同士で共存する可能性を与えられるべきなのです」


面接の終わりに、二人の男性がアンデルセンに「あなたの考えはどのようなものですか?」と尋ねました。アンデルセンは「言葉を見つけることができません。悲しい言葉。でも、とても美しい言葉であることは確かなんですが」と答えました。クリスは、自分たちがたくさんの問題で彼を叩きのめしてしまったのではないかと心配になりました、と言いました。アンデルセンの答えは「『叩かれた』という感じではありません。こころの琴線に触れたという感じです。叩くというのは小さな言葉です。触れられたというのはもっとずっと長く続く言葉です。この面接のことを自分がいつでも覚えているだろうと思います」。
ペンは次のように記しています。「外は雨が降っていたのですが、私たちが部屋を出たとき、辺りはビデオの光のためでなく、私たち4人が共にこころ動かされたために生じた光によって輝いているようでした」。


「カール・ロジャーズの沈黙」

ロジャーズがあるワークショップで若い女性のコンサルテーションを行っているビデオテープを見たとき、私は、自分がリフレクティングな態度と捉えているものとたいへんよく似たやり方を彼が実践していると知り、ひどく驚きました。彼は、ちょうど水夫が風の吹いてくる方向に身を乗り出すような仕方で対話者の向きに半身を傾け、問いを発するときも、相手の言葉を反芻して伝え返すときも、ほとんどその姿勢を崩さずにその場に臨んでいました。そのため、彼のやり方は、「積極的傾聴」や「無条件の肯定的関心」といった専門用語がもたらす印象とは非常に異なったものと感じられました。その面接テープは1984年にアメリカ人間性心理学会で撮影されたものでした。ロジャーズは、双子を流産で亡くした若い既婚女性と話していました。その出来事は、とらわれとなって女性の脳裏に留まり続けていました。彼女は再び妊娠をしたところでしたが、どうしたらい...

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2018年9月17日

読書状況 読み終わった [2018年9月17日]

ある10歳の少女は2歳半から自分では排便せずに来ました。この年齢からずっと定期的にしかも頻繁に浣腸されてきました。何年間も彼女はそのたびに激しく抗ったのですが、結果的には受身的になすがままになり、すべての面にわたって完全に受身的な方向にますます引きこもっていきました。
彼女が養護学校に入学したとき、私たちは彼女に浣腸はまったく使用しないこと、いつどこで排便するかはまったく彼女の決断に任されることを約束しました。ただ長いこと大便を体にとどめておくことは彼女にとって不快だろうから、排便することを望むけれどもと伝えました。彼女は以前3日あるいは4日おきに浣腸されていたので、前に許されていた期間をかなり越えて大便を溜めることでその約束を試しにかかりました。はじめの二週間のほとんどは、彼女を快適にしたり、心を動かそうとする私達の努力に彼女はまったく反応を示さなかったのです。しかし10日後、彼女は長く暖かい入浴を好んでいるという微かな兆候を見せました。そこで私たちは彼女と一緒に座り、さまざまな浴用玩具を使って彼女と遊ぼうとしていました。おもちゃのなかには、水を発射するものや小さなゴムボールを発射する特別に選んだものが入っていて、排出する過程が楽しめるようになっていました。
2週間後、私達は約束が守れるかどうか心配になってきました。しかし毅然とした様子は崩しませんでした。幸いにもおもちゃで暗に腸を開放するよう励ましてきたことが効果を上げました。彼女は浴槽のなかで排便し始めました。彼女が浴槽の湯のなかで自分を解き放ったとき私達が味わった喜びと安堵感を十分想像できるでしょう。彼女が腸を適切に機能させることで、自分自身の体に関してイニシアチブをとったことが嬉しかったのです。それまで腸を機能させることを拒否してきたのです。彼女は微かに微笑んで応えました―赤ん坊のとき以来初めての微笑みでした―そしてこれは私たちが喜びを表現したことに報いるものでした。
このあと数週間は浴槽のなかだけで排泄し、そのたびに私たちは賞賛し、喜びました。またより頻繁に容易にするようになりました。そしてついにある日、私たちがいかなる仕方でも示唆しなかったのにトイレに行く決心をしました。以前には断固として世界を拒否し、世界から頑強に引きこもる表れだったものが世界に対する初めての自分自身の贈り物―大便―となり、重要な他者につながる手段となったのです。


二重拘束メッセージは、両親のように子どもの生活にとってきわめて重要な人から出されると破壊性が大きいのです。したがって治療的環境においても重要な人から二重拘束メッセージが出れば、治療的環境の効果が半減します。精神病院で職員があらわにでも隠れてでも反目しあっていることが、患者にとって非常に破壊的であると言われます。スコットランドとコーブラーが『精神病院の生と死』で記したように、それは患者によっては自殺したり暴力を振るったり、病院自体がもがき苦しむことになるほどです。


もし事務職員が彼らの場所へ子どもが侵入することに対して憤慨すれば、子どもは自分が本当に施設で歓迎されていること、何でも望むものを探索してよいことを信じなくなるでしょう。


人は自分自身で選んだ家具のほうがずっと落ち着くことは言うまでもないし、自分が使うために自分で選んだもののほうがはるかに注意深く扱うのも当然です。


質問:ベッテルハイム博士、あなたがかかわった子どもたちに対して示した共感と配慮、尊敬に感動しました。ただ養育や世話の場合もそうですが、子どもの行動になんらかの制限を設定しても、子どもは究極的には配慮や一貫性のしるしと認めるのではないでしょうか。

ベッテルハイム:私は子どものころ制限が課されるときはいつもそれが大嫌いでした。もしかす...

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2018年9月16日

読書状況 読み終わった [2018年9月17日]

ある変化に、どの程度成功すると思うか質問すると、答えはその人の実際の変化の程度を、かなりよく予想していたのである。近年では、この効果を自己効力感(self-efficacy)と呼んでいるが、すべての時代を通じて、治療者たちは信頼と希望の力をよく認識していた。効果的な治療を受けていると信じることは大変重要なので、新薬の治験では、薬を一切服用しない場合とではなく、プラセボ(偽薬)を服用した場合と比較することになっている。

矛盾が十分に大きく変化が重要と思われる時、人は変化の可能な方法を探し始める。重要性の認識が十分にあり、効果があると信じられる変化の方法を発見し(一般的効力感)、その方法なら自分にもできると思える時(自己効力感)、行動の変化が始まる。矛盾の大きさに気づいても改善する方法が一つも見つからない時には、全く別な経過をたどる。行動を変える代わりに、人は思考過程と認識を「防衛」を用いて変換し、不快感を軽減しようとする。これはアンナ・フロイトが提唱した古典的な「防衛機制」の反復でもある。つまり、否認(そんなにひどくない)、合理化(もともと変わろうとなんて思っていない)、投影(それは私の問題ではなく、彼らの問題だ)を用いる。

私たちのクライアントのほとんどが、充分な苦悩を体験していた。屈辱、恥、罪悪感、不安は変化の原動力にはならない。皮肉にも、人はそのような苦渋の敬虔によって身動きできず、変化を遠ざけてさえいる。それよりも、人の建設的な行動の変化は、その人の内的価値、重要なこと、大切にしているものに触れた時に起こるようである。

治療を強いられ腹を立てている人には、動機付け面接法が特に効果的で、治療初期に怒りのレベルが低い人は、動機付け面接法よりも、認知行動療法や12ステップカウンセリングが効果的であると報告されている。

逆説的ではあるが、人をありのままに受容する態度は、その人を自由にして、変わる方向へ導く。一方、非受容的態度(あなたは間違っている、変わるべきである)は、変化の過程で人を身動きできなくさせる。家族療法家は、この現象を「アイロニーのプロセス」と言う。なぜならギリシャ悲劇では、ある行動そのものが、その行動によって避けるつもりであった結果を、惹き起こすからである。


「チェインジ・トーク」
現状維持の不利益
変化の利点
変わる意志
変わることに楽観的

「レジスタンス・トーク」
現状維持の利点
変化の不利益
変わらない意志
変わることに悲観的


もし、ほんの数分しかないように急がせれば、馬を変えるのに一日かかる。
しかし、時間が一日中あるように振る舞えば、ほんの2、3分で済んでしまう。
―モンティー・ロバーツ


言語学的には、質問は解答を要求する。本来の意味について質問の形式で聴かれれば、その意味を味わうことからは距離ができる。一歩引いて自己を観察し、先ほど「言葉で」表現したことを実際にしているのか、または感じているのかどうか自問し始める。この違いは微妙で、誰でも気がつくわけではない。二種類の振り返りの、音の違いを比べてみよう。

「気持ちが落ち着かない?」
「気持ちが落ち着かない」

「お母さんに怒っている?」
「お母さんに怒っている」


熟練した振り返りは、遠くへ飛躍しすぎない程度に、クライアントの言葉を超えるのである。この技術は、力動的精神療法で解釈を挟むタイミングをはかるのと、そろえほど違いはない。もし、クライアントがたじろいで尻込みしたなら、振り返りの言葉が強すぎたか、タイミングが早すぎたからであろう。


クライアントの自己探索を推奨するために、振り返りを用いる場合、話し手が伝えたい意味よりも、少し控えめな言葉で返すことをお勧め...

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2018年8月26日

読書状況 読み終わった [2018年8月26日]
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