土屋先生の著作はいままでも読んだことがあります。でも母の書棚からひそりと借りるばかりだったので、自分の所有としてはこれが初の土屋先生著作物となります。購入動機としては単純で「解説が野矢茂樹先生だったから」です。…いや、その…土屋センセイごめんなさい…。
いつものユーモアエッセイほど、まだるっこしく冗長でしつこい文体ではありません(ちなみに「まだるっこしく冗長でしつこい」というのは貶しているつもりはなく、それがツチヤ先生のユーモアセンスだとわかってますよ!)。…まぁ多少はまだるっこしかったり冗長だったりしつこかったりもするんですが、いつもほどではありません。思っていたより真面目で真摯な哲学書でした。しかもけっこうわかりやすい。「けっこう」をつけたのは、一読ですべて飲み込めたと錯覚するほど当方も世間ずれしてないわけではないからです。哲学に憧れは抱いてても、そんな純情はとうに持ちあわせません。
読み進めながらツチヤ先生って意外と哲学者なのね! と感想を抱いたのは…事実と照合して真か偽か。
形而上的に設定された哲学的疑問をばっさばっさと斬り捨てて「私たちが使っている言葉で表現されたもの」を即ち事実として確認していくさまは、求道者のようなひたむきさと頑なさを思わせました。「私たちが使っているこの言葉」に操をたてて添い遂げようとしているようにすら見えました。
プラトン、ベルクソン、デカルト。先人の打ち立てた哲学的問いと哲学的真理。その正当性をツチヤ先生は次々に否定していきます。先人たちへのリスペクトは手放さず、しかし容赦なく裁きます。そしてウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」へと辿りついて、ツチヤ先生は「論考」をツチヤ流に解釈してみせるのです。ツチヤ流「論考」を語る先生はいつもの口調であっても、いつもの自信なさげな態度ではありませんでした。
形而上。私たちの言葉が届かぬ世界。言葉が循環関数を形成する世界、言葉が無力になる世界。
哲学とは、哲学を無意味にする学問なのか。哲学とは、無力なのか。
最後に顕われ出でた問いにツチヤ先生は答えます…その言葉は穏やかでした。
講義室を去る先生の背中を幻視しながら私はこの文庫本をいったん閉じました。
ウィトゲンシュタインの見た世界を、世界の涯てを、ツチヤ先生は見たのでしょうか。
語りえぬ、沈黙するしかない世界。
そして、そこを最初の礎として辿りつける地平を、きっと。
- 感想投稿日 : 2018年7月16日
- 読了日 : 2018年7月16日
- 本棚登録日 : 2018年7月16日
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