ウォーターランド (新潮クレスト・ブックス)

  • 新潮社 (2002年2月27日発売)
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本棚登録 : 318
感想 : 25
5

妻が起こした誘拐事件のために、学校を辞めさせられることになった歴史教師の「私」。フランス革命を学ぶことが今の自分たちの何に役立つのかと問う反抗的な生徒に応えて、「私」はカリキュラムから外れ、生まれ故郷の沼沢地帯・フェンズについて語りはじめる。沼地の排水に従事してきた祖先たちのこと。土地を拓き、成りあがった一族にまつわる呪われた噂のこと。そして「私」の少年時代に川を流れてきたある死体のこと。どんなに水を抜いてもまた滲みだしてくる沼地のような〈歴史〉と〈記憶〉をオブセッションに憑かれた男の視点で描いた、グレアム・スウィフトの代表作。


古川日出男の好きな本としてずっと頭の片隅にあった小説。実際読むと納得度高い!「子供たちよ」という呼びかけも、憑りつかれたような饒舌体も似ているし、なにより根幹にある歴史観が近しいと思う。つまり、古川作品が好きな私はこの『ウォーターランド』も大好きだ。
既読の『マザリング・サンデー』は運命の一日ですべてがひっくり返るあざやかさと、その手前の静止したような時間の描き方が強く印象に残っているが、本作では文の端々でほのめかされる伏線を、一見関係ないと思えるほど遠い過去から余所見と迂回をくり返してじわじわ回収していく語りの力を感じられた。
本作で語られる〈歴史〉には大きく分けて三つのレイヤーがある。校長に退職を迫られ、反抗的なプライスと意見を交わす現在パート。妻メアリを含む幼馴染たちとの少年時代~結婚までの過去パート。そしてフェンズの郷土史パート。郷土史パートは主に地元の名士・アトキンソン家の興亡が語られ、第一次大戦後に「私」のルーツに繋がるところは、この小説のクライマックスのひとつと言える。
アトキンソン家の物語は終始ゴシック小説じみているのがミソだが、ふいに差し込まれた”幻の特製ビール”というモチーフが「私」を襲う悲劇にまで大きな影響を及ぼすあたりのファンタジックな面白さが尋常じゃない。堕胎シーンのマーサが「私」からは魔女に見えると同時に、村八分にされて生きてきた人のリアルが窺い知れるところもよい。現実が残酷なおとぎ話のように歪んで見える瞬間とその心理を捉えていると思う。
知的障害を抱えたキャラクターの心情をミステリー的に〈謎〉扱いする是非について読みながら考えていたが、語り手の「私」ことトムはディックに寄り添うことができなかった人間として書かれているのが本作の誠実さではないかと思う。トムはフレディとディック、そしてメアリと自分のあいだの子の死によって〈歴史〉に憑りつかれ、〈おはなし〉を構築しようと目論んだのだが、一方でアトキンソン家の呪いが自分のあやまちを〈説明〉してくれるはずもないということはわかりきっているのだ。父もディックもメアリもプライスもトムにとって大きな謎、完全なる他者であり続け、「子供たちよ」と語りかけられた読者にとってのトムもそうなのである。それでも過去という沼地から水を抜き、はかない努力を続けるのが人間であり、沼地に残る足掻きの跡が歴史なのだろう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説
感想投稿日 : 2023年6月28日
読了日 : 2023年6月28日
本棚登録日 : 2023年6月28日

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