日本史の謎は「地形」で解ける【環境・民族篇】 (PHP文庫)

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  • PHP研究所 (2014年7月3日発売)
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読書をしていて楽しいのは、この人の考え方が私が求めていたものだと実感できる時で、この本の著者である竹村氏の新作を先週本屋さんで見つけたときは嬉しかったです。

この本は「日本史の謎は地形で解ける」シリーズの三部作目です。今回は、環境・民族編の視点から纏められていて全部で18章もあり盛りだくさんです。

どの章も面白かったのですが、特に印象的だったのは17章の「なぜ日本語は分裂しなかったのか」という回答として「参勤交代」をあげていて(p375)、どの藩の殿様も江戸の言葉を話すので、方言レベルにとどまったというものです。

彼は明言していませんが、欧州でラテン語から各言語に別れてしまったように、また、中国においても同様かもしれません。彼らは同じ漢字を使うものの、使う言語はかなり違うようですが、これが自然の流れで、300以上の藩に分かれていた江戸時代を通しても言葉が分かれなかった理由として、私はすんなりと理解できました。

また、江戸時代における治水工事(洪水からいかに住宅地を守るか)と現代の考え方が異なるので、都内の川の堤防がなぜあんなに高いのかが理解できました。今後も竹村氏の本には注目していきたいです。

以下は気になったポイントです。

・洪水が氾濫を繰り返していると、ある場所で流れがよどむ箇所がでてきて土砂が沈降、堆積していく。そして大湿地帯の中に州(洲=す)ができる。清洲は濃尾平野における洲であった(p18)

・湿地帯では馬は走り回れないので、洲が騎馬軍団に急襲されることはけしてない。大軍の歩兵も同様(p40)

・幼年時代を過ごした津島の風景が、信長の原風景となり安土山に城を建設した。しかし他の大名はそこに魅力を感じなかった(p47)

・徳川幕府は武家諸法度で城の修繕などは細かく規制したが、治水工事については規制も禁止もしなかった(p54)

・信濃川の洪水の水位を少しでも低くする必要性のためから、2本目の分水路である関屋分水路が建設されることになった、1968年起工で1972年竣工である(p58)

・家康が行った利根川の治水事業は、関東平野を洪水から守ることではなく、関東の湿地の水を抜いて湿地を乾かして乾田化して肥沃な土地を生み出すことにあった、信濃川2本目の分水路も同じ役目(p70、71)

・天下を制した家康は、戦国大名を「流域」に押し込めた、流域内で河川改修をおこない開墾、干拓を行って豊かになることができた、流域封建体制である(p76)

・遠浅は、鉄壁の防御海岸である。戦う船団の最大の敵は、遠浅の海岸である。船団で陸を攻めるには、接岸できる岸壁が必要(p85)

・徳川の終の棲家であった駿府は、鎌倉と同様に地形に防御されていた。前面の遠浅海岸と、背後の険しい山々で防御されていた。東と西は海まで張り出した尾根で厳重に防御されていた(p91)

・陸上生活で困るのは、食物は空気に触れると腐るということ。この判断は生死にかかわる。食物腐敗の認知に、視覚・聴覚・触覚はほとんど役に立たないので、別の味覚である嗅覚が重要になり、陸上動物の鼻と口は一体の役割となった(p101)

・江戸の町では、し尿と生ゴミは廃棄物ではなく、金銭に換えられる貴重な肥料であった、一方、パリやロンドンは臭い街、パリで香水文化が生まれた原点、17世紀に登場したハイヒールも道路の糞尿をさけるため(p103,105)

・明治になり人口急増した東京はリサイクル都市が崩壊して、疫病が蔓延した。そのため下水道を建設する必要が生じた、町の人が排泄するし尿の受け皿としての農地が減ったことも原因(p108,110)

・有機栽培農業で必要な、カリ・チッソは堆肥でまかなえるが、リンは不足するのでリン鉱石による化学肥料が必要。しかし冬みず田んぼでは、そのリンが鳥たちの糞でまかなえる(p125)

・水を張った田んぼには多くの微生物が発生する、イトミミズの糞尿により泥と混ざることで粒子の細かなトロトロ層が形成され、雑草の種が層の下方に沈み込んで発芽できなくなる(p129)

・日本の国土面積は世界陸地の0.3%だが、大地震の20%、活火山の10%を受け持っている(p141)

・日本列島の地形・気象の特徴として、1)南北3000Kmと細長い、2)中央に脊梁山脈が走っている、3)季節が1年中変化するモンスーン帯の北端にある(p144)

・山脈と海峡・川によって地形が分断、季節によって著しく変化する日本列島、この多様性が文明存亡から救ってくれた(p146)

・明暦の大火(1657)は、当時50万人以下の江戸で火災死者数10万人以上という、すさまじい災害であった。関東大震災(6万人)、東京大空襲(10万人)と比較しても最大級。江戸の復興において、江戸城の天守閣を再建せずに、広小路の建設・玉川上水の建設・両国橋の架橋が行われた(p157)

・江戸時代は二段構えの堤防であった、万一、川に近い第一番目の堤防が決壊しても、2つの堤防の間の田畑で洪水は分散して流れる、なのでその田畑は年貢なしであった(p169)

・正倉院の宝物が守られた理由は、日本人の道徳心・倫理観からではなく、奈良の密集した町屋と、狭い路地、そこに住む人々の存在であった(p194)

・日本人は馬や牛を道具として扱わなかった、名前をつけて家族の一員として扱った、家族になれば当然、去勢をほどこすなどはできなかった。江戸幕府が牛車を規制したのは危険だったから(p208,212)

・旅人は真っ暗にならないうちに泊まらせるために、追いはぎ話を、使った。14日の旅路に53もの宿場があり客取り合戦が厳しかった(p230)

・明治2年に都が京都から東京へ遷都した、衰退していく京都の産業を振興させようと琵琶湖からの疎水事業が計画された、1891年(明治24)に蹴上発電所が完成し、1895年には京都市内で日本初の電気の路面電車が運行した、これが牛馬から電気に移行した決定的瞬間であった(p248,251)

・大阪で5・10日に渋滞する理由は、商売相手の顔を見に行くため。信用を交換する決済日となっている(p261,262)

・情報を削るには2つの条件が必要、1)専門分野に関する深い見識、2)社会に関する広い知識と経験(p301)

・6000年前の縄文海進期の気温は現在比較で2℃高かったが、海面は5-7mも高かった、つまり日本の平野部はすべて海面下であった(p345)

・日本中の原子力発電所により1年間に発電された電力量から計算すると、全国で年間680億m3が排水(7℃温められて毎秒70m3で排水)、これは利根川の約7年分(p353)

・中国には漢字造語の専門機関があり、1年間で1000語作っている、日本語は、漢字・ひらがな・カタカナ・アラビア数字・アルファベットの5種類で、外国語はひとまず、そのままカタカタかアルファベット表記にする(p371)

・世界第一言語の人口割合、1位:北京語(14)、以下、スペイン(5)、英語(4.8)、ヒンディー(2.8)、日本語は8位(1.99%)である(p373)

・津軽弁、薩摩弁などの各地の方言は一方言にとどまり、江戸から独立した言葉へ進化しなかった、なにしろ領主様が江戸の言葉で話すので(p378)

2014年7月12日作成

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本史・世界史
感想投稿日 : 2014年7月12日
読了日 : 2014年7月9日
本棚登録日 : 2014年7月5日

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