心星ひとつ みをつくし料理帖 (角川春樹事務所 時代小説文庫)

著者 :
  • 角川春樹事務所 (2011年8月10日発売)
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本棚登録 : 4750
感想 : 617
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本作は全十巻のシリーズの六巻目となる。物語は折り返し地点を過ぎたところである。四話収録されているのは、他の巻と同様だが、『心星ひとつ』では澪は多くの岐路に立つこととなる。おのれよりも、他者への慮りを先立たせる澪にとって、苦しい選択を迫られる話が多い。料理店「つる家」の行く末、幼馴染の野江との思いがけない邂逅、身分違いの恋路の行方……。五巻を費やして、庶民派の矜持は捨てることなく、江戸でも指折りの料理店の料理人となった主人公に、いつの世でも同じ倣いながら、様々な人々、物事がすり寄ってくる。一つではなく、四話の話の中でいくつもの選択を迫られることとなるだけに、本作は読みごたえがある。

ところで、本シリーズを読み、江戸時代の身分制度について時折感慨深く思わされる。澪の出身地でもある商人の街、大坂ではあるいはそうでもないのかもしれないが、当時の江戸の町は完全に武家社会である。歴史を学ぶときに聞かされた「士農工商」の身分制度さながら、ヒエラルキーの最上位である武家に生まれた者とそうでないものは、容易には交われない。本作の最終話では、ヒエラルキーの階層を乗り越えることの困難さについても語られている。女は男の三歩後ろを歩くのが当たり前の世で、女だてらに商売で料理人をやることさえタブー視されていた時代、さらに武家それも旗本の家に入るとなれば、澪の苦悩もいかばかりか。

『みをつくし料理帖』に出てくる者たちは、いずれも多くの言葉を費やさない。大阪の有名な高級料理店でご寮さんを務めていた芳は、時として一言で相手を射抜くような言葉を発するが、その他の者たちは決して饒舌ではない。おのが思いを言葉にするのが、どちらかと言えば下手、もしくは苦手である。そして、そのせいか相手の様子を見て、視線の意味を懸命に汲みとり、わずかな言葉を補うようにして相手に寄り添ってゆく。そうした特性を持つ者たちが繰り広げる物語だけに、小松原が語った一言のダンディズムが際立つ。曰く、「ともに生きるならば、下がり眉が良い」

コロナウィルス禍で、永田町に巣喰う年寄り連中が「不要不急の外出自粛」とおのが行動を棚上げにして叫び始めた頃から、料理業界でもデリバリーという提供形態が流行しはじめた。現代であればデリバリーと称して、そのサービスを享受しない者にとっては迷惑なだけだが、交通ルールなど度外視した暴走自転車を乗り回す者たちが料理を届けてくれる。だが、江戸の世ではそのような仕組みはない。自転車のような手軽で時間をかけない移動手段を持たない者たちに、火を使う時間を限られてしまったつる家が打ち出した戦略が、「割籠(わりご)」すなわち弁当である。熱々の料理を供することができなくなったつる家の苦肉の策ではあるが、白木づくりの弁当箱を返却してくれたら、四文おまけの十六文で割籠を売ってくれるという庶民泣かせのシステムである。十六文と言えば、落語の「時そば」にもあるように、当時かけそば一杯の値段に相当する。弁当一つの値段だと考えれば、かなり安いだろう。

いきなりつる家と澪自身の料理人としての運命を左右する出来事から始まるシリーズ六巻目は、表題にもなっている『心星ひとつ』での小松原、もとい旗本小野寺家と澪との関わりで終わる。最終話の最後で、いまやつる家の主治医ともいえる源斉が、店に立ち寄ったにもかかわらず、澪の振舞う料理を食べることもなく、あまつさえ小雨が降る中を持ってきた傘も忘れて店を出ていくシーンがある。つる家の面々はこの意味を図りかねているかと思いきや、店主の種市が源斉の思いを感じ取る。店主は源斉の思いを呟くが、その呟きもやはり一言。多くの言葉を費やすことはしないという本作の原則は、ここでも生かされている。最終話には、男のダンディズムともいうべき雰囲気が湛えられている。

物語が大きなうねりを迎える『心星ひとつ』は、ここまでの前五巻のいわば長い前置きがあって楽しめる。すばらしい物語ばかりが収められているが、その素晴らしさや楽しさは、やはり前五巻の物語が基となって生み出されるのだろう。是非とも『心星ひとつ』をお薦めしたいが、同時に、ゆめゆめ前五巻を読むことなくいきなり本作を読むことはしないでほしい。第一巻から順に、読み進めでほしいと思う。読めばたちまち、物語の中に生きる者たちは生き生きと動き出すだろう。五巻の物語など、あっという間に読了できる。『心星ひとつ』を読んで確信した――自信をもって、お薦めできる物語である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説・物語
感想投稿日 : 2021年1月15日
読了日 : 2021年1月14日
本棚登録日 : 2021年1月1日

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