キリスト教と戦争 (中公新書 2360)

著者 :
  • 中央公論新社 (2016年1月22日発売)
3.37
  • (8)
  • (15)
  • (19)
  • (6)
  • (3)
本棚登録 : 290
感想 : 29
5

「正しい人はいない。一人もいない。」(ローマ信徒への手紙3:10)

「キリスト教こそ、戦争や異端審問や植民地支配で人を史上最も多く殺した最大のカルトである」
「イエスの教えとキリスト教は無関係」
「ザビエルは、先祖は地獄に落ちるのだったらなぜ、そんな有難い神様がもっと早く来なかったのか、との日本人の質問に答えられなかったではないか」
「宣教師とキリシタンたちは、日本の神社仏閣を焼き払い日本人を奴隷として売り払ったではないか」
キリスト教が批判される際に、必ずと言っていいほど言われるフレーズである。
さらに、
「宗教があるから戦争が起こるのだ。
宗教というものがなくなれば戦争もなくなるはず。」
「一神教は排他的で、多神教は寛容」
という恐ろしいほどに単純な二元論が断罪の言葉として使われる。
まあ、確かにそうかもしれないが、ちょっと無邪気に白黒つけるのは待ってほしいと言いたい。
かなりナンセンスな決めつけである。
事態は単に宗教のみでなく、さまざまな伝統や思想や情緒、利害がもっともっと複雑に絡み合っているのである。
実際に同じ組織一つとってしても決して一枚岩ではなく、かなりの幅がある。



例えば戦争ひとつとっても、
「侵略」側が目的とするのは、相手の領土や物品の略奪であり、闘争そのものではない。
戦わずにそれらを獲得できるならそれに越したことはない。
したがって、「侵略者は常に平和を愛好する」。
防御側の目的は、純粋に相手を撃退すること、つまり闘争に他ならないので、戦争概念は防御と共に発生する。

フスも、ルターも、ラインホルトニーバーも、戦争を拒否しなかったし、
ボンヘッファーはヒトラー暗殺に関わり死刑になっている。

聖書に「殺すなかれ」がある割に、聖書の中ではやたらと異民族を虐殺する描写が多い。
もちろん、平和の道を示している箇所もあるが、
解釈者によって都合よく取られてしまう。

創初期のキリスト教徒たちに中にも軍人がいたが、
どちらかというと戦争の拒否よりもローマの偶像崇拝の拒否による殉教が多かった。

ローマ・カトリックは、「正当防衛は重大な義務である」と、
トマス・アクィナス以来の伝統に基づきカテキズムにも記しているが、日本のカトリック教会はそこには触れない。

宗教の違いが争いを生むわけではない。
むしろほとんどの場合はは平和の期間の方が長い。
なんらかの具体的な状況が複雑に絡み合って人々に武力行使を強いる。
宗教もまた戦争の道具となりうる。
宗教自体が暴力の「原因」にはなり得ない。

総じて人は「悪」を意識している時よりも「善」を意識している時の方が凶暴になり他者を傷つけることを躊躇わないものである。
問題は愛の欠如ではなく、誰かを愛しているからこそその人にために誰かを押し退け蔑ろにしてしまう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年11月2日
読了日 : 2022年11月2日
本棚登録日 : 2022年11月2日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする