言葉と記憶

著者 :
  • 岩波書店 (2005年1月19日発売)
4.50
  • (3)
  • (0)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 12
感想 : 3
5

自分が築いてきた「詩」の定義が、一気に崩落していく、そういう体験が誘発された。

詩とはいったいなんだろうか。

〇以下引用

ぼくたちが生きている空間や土地にも、当然ながらさまざまな記憶が想いもかけぬ形で沈殿している

六畳部屋は他人の国
窓辺に夜の雨がささやいているが、

灯火をつけて 暗闇をすこし追いやり
時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし
わたしはわたしを小さな手でたきしめて
涙と慰めで握る最初の握手


しかしたがいに作風は違うとはいえ、生前は秘め隠さねばならなかったのだ

彼らの作品はまさしく、日の目を見るかどうか、およそ読者をもつかどうかわからない

おぼろに霧が流れる 街が流れてゆく あの電車、自動車、すべてのくるまはどこへ流されれゆくのか?停泊するいかなる港もなく、憐れむべき多くの人々をのせ、霧のなかに沈みゆく街は

街角の赤いポストに縋って佇めば あらゆるものが流れるなかに ぼうっと光る街路灯 消えずにいるのはなんの象徴か?愛する友 朴よ!そして金よ!きみらはいまどこにいるのか?かぎりなく霧が流れているのに


忘れてはならないのは、どんなに雄弁な証言者も、孤独であるということだ。聞かれないかぎり、聞き届けられないかぎり、それに耳を傾けるものがいないかぎり、そもそも証言は「証言」でありえない

人を不安にさせる作品を作りたい

不安とは、何よりもこの「他者」の遠さと近さにこそ標準をあてている、と言うべきなのだ。一見潔くわかるーわからないと言い切る手前で、むしろこの不透明さにとどまること

まったく知らないことを隠蔽することはできないが、同時にその隠蔽はいつでもぼくらによって自覚的に行われるわけではない

証言者とは、まさにこのぼくらの知と無知の境界線ないし臨界点ー内なる隠蔽の生じる敷居ーに不意に介入する人びとのこと

すべての事物や出来事はそもそも言語である、と語っている。そして、その事物や出来事の言語に人間の言語によって名前を与え、それを「神」に伝達すること

クロード・ランズマンの《ショアー》、ナヌムの家、マギーの遺言などに登場する証言者たちは、しばしば自分自身の身体そのものに陰惨な暴力の痕跡を刻まれている。そしして残された身体の傷跡そのものが、ベンヤミン風に言えば、(言語)なのであって、彼ら、彼女らはまさしく、出来事の言語の文字通りの体現者

その《出来事》について【人間の言語】で、むしろたんたんと語ろうとする。彼ら、彼女らは同時に、その現場ー出来事の言語として彼ら自身がその身体をおいていた現場ーに立ち会った、かけがえのない目撃者でもある。その意味で、証言者とは、このような出来事の言語と人間の言語に強調された意味で引き裂かれざるをえないようなひと、そしてその分裂のただなかから語っているひとびと、ということになるだろう

そもそも金素雲はこれらの訳者をいったい誰に向けて出版しようと

金時鐘にとっての詩作とは、みみずののたうつような環形運動を続けることであり、それによって境界線をこえること

ぼくは抜け出た
すべてが去った
茫洋とひろがる海を
独りの男が
歩いてゐる

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2016年10月18日
本棚登録日 : 2016年10月18日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする