環境リスク論: 技術論からみた政策提言

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000028189

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  • 日本における環境問題の捉え方は、長らく公害問題の延長線上にあった。しかし筆者は、これから我々が直面しなければならない環境問題は、より広域的であり、未来に向かって長い時間軸の中で捉えなければならない問題に移行していくという。

    たとえば酸性雨、商品に含まれる微量の化学物質による複合的な環境影響、原子力利用に伴う放射性物質の環境影響などである。

    これらの問題は、公害問題と比べて、以下に示すような点で違いがあると筆者は位置づけている。

    ・影響範囲が人数、地理的範囲ともに広範である。
    ・個々の要因(例えば原因化学物質)の影響はさほど大きくないが、複合的な影響が懸念される。
    ・特定の化学物質との因果関係が公害問題と比べると不明瞭である。
    ・影響の及ぼし方が多面的であり、ある環境対策が別の環境影響を及ぼすといった副作用も考慮しなければならない。
    ・環境保全と生活レベルとのバランスを取らなければならない。
    ・未来のために現在何をなすべきかという、時のずれの問題を解決しなければならない。
    ・資源問題、エネルギー問題も視野に入れた取り組みとしなければならない。

    これらの視点を取り込み、様々な環境問題に対して政策判断の基礎を与えるための「環境リスク論」を、筆者は長年にわたり研究してきた。

    筆者の提唱する環境リスク論の主な特徴としては、以下のものが挙げられる。

    ・環境リスクを「どうしても避けたい環境影響の起きる確率」で表現する。
    ・この「どうしても避けたい環境影響」のことをエンドポイントといい、たとえば「人の死」であり「ある生物種の絶滅」などが設定される。
    ・エンドポイントの設定のために行われる議論は、複雑化する環境問題において様々な要因によるリスクを比較可能な形で提示し、それらのコストや優先順位を議論する際の共通の尺度とするために重要である。
    ・リスクの定量的な評価には不確実性が伴う。しかし、評価プロセスを明らかにしておくことで、新たな事実が発見されたときに修正していくことができる。
    ・ある一定の閾値を定めて安全/危険を分ける「二分法」で考えるのではない。リスクとは安全領域のない危険性のことであり、我々が普通に生活していても認識されないが、非常に極端な条件が重なれば、影響が出るものである。
    ・環境リスク論は、様々なリスクの存在を認め、リスク・ベネフィット原則を用いてリスクを管理していくための手法である。

    本書ではまず前半で、環境中に放出される水銀を例に、環境リスク論による分析を試みている。

    水銀汚染による環境問題としては、水俣病がその最初の事例として挙げられる。水俣病の原因が有機水銀であることが判明して以来、社会の中で水銀に対する危険性の意識が非常に高まった。その結果として、水銀を焦点とした環境問題に関する議論がいくつも起こった。

    その中で、筆者はカセイソーダ製造過程における水銀の環境への放出と、使用後の乾電池の廃棄による水銀の環境への放出の問題を取り上げ、それぞれに対して行われた対策を、リスク・ベネフィットの観点から検証している。

    筆者は、この問題におけるエンドポイントを一人の知覚障害者発生のリスクと設定した。これに対し、カセイソーダの問題では製造工程における水銀法を別の製造方法に置換するプロセスによって、それがどの程度リスクを減らしたかを算定している。一方、乾電池については官民挙げた無水銀電池の開発により、廃棄される乾電池からの水銀放出をなくしたことの効果を算定している。

    結果として、カセイソーダの場合、一人の知覚障害者発生のリスクを削減するための費用が33億円となったのに対し、乾電池の場合のそれは4400万円であった。カセイソーダの対策は乾電池での対策に対してかなり割高であり、このコストを他に回すことによって、我々は他の問題を解決することができたのかもしれない。

    また、もう一点重要なことは、カセイソーダの製造が行われた徳山湾においても、また乾電池の問題においても、直接的にそこから排出されたと思われる水銀による知覚障害者の発生は、確認されていないということである。このような小さなリスクに対しても、我々はその影響が広範囲(乾電池は全国で使われ廃棄されている)かつ複合的(水質汚染は他の化学物質も含め複合的な問題でもある)であるとき、そのリスクをなんとかして評価し、様々な対策を比較考量しながら実施していかなければならないという現実に直面している。

    続いて、本書の中盤で、筆者は環境リスクの評価における不確かさとそれをどのようにモデルの中で評価しているか、また市民がリスクを認識する時にどのような特性があるかについて、説明している。

    先に述べたように、本書が対象としている環境リスクとは、非常に少ないリスクであり、実際の症例や調査データから統計的に明らかにすることは困難であることが多い。

    たとえば、発がん性物質のリスク検証においても、実際の人間における症例のデータはなく、動物実験や特定の職業における用量と特定の反応の関係が部分的にデータになっているに過ぎない場合が多い。このような高暴露量のデータから、日常の生活における低暴露量でのリスクを推計しなければならない。このような外挿による推計においては、どのようなモデルを想定するかによって結果は1000倍異なることも珍しくはない。

    しかし、複数の環境リスクとその対策を比較考量するのであれば、一貫したモデルに基づいたリスク推計をしているかぎり、リスクの相対的な大小関係は変わらないことが多い。絶対値による安全基準を定めることではなく、複合的なリスクの中で何を優先的に対策していくか、またそれぞれのリスクの中で突出して大きいもの(規制がされていないもの)はないかという観点で政策を考えていく上では、有益な知見が得られるといえよう。

    このようにある種の不確かさを認識しながらも、それでも得られる知見を判断材料にしていくという冷静な姿勢が求められるというのが筆者の見解である。

    また、市民のリスク認識についても、研究データをもとに説明をしている。リスクは定量的に示されればそれらを比較できるが、実際の定量的に表現されたリスクと、市民のリスクに対する評価は異なることが多い。それは心理的な側面から分析できる。

    アンケート調査等を基に市民のリスクに対する評価の傾向を分析すると、専門家と比較して市民は、制御できない、恐ろしい、破滅的な結果をもたらす「破滅因子」や、観察できず、知ることができない、若しくは遅発性の「未知因子」といったものに、実際の定量的なリスクよりも高いリスク認識を示すという。

    環境リスクを制御するための政策においては、これらのことも考慮しながら市民と対話をしていく必要があるとともに、リスク評価を透明化することによって感情的な議論に対して対応していくことも必要であると筆者は述べている。

    最後に本書では、環境リスク制御のための政策論へと議論を進めている。筆者がこの政策の原理にしているのは、リスク・ベネフィットによる政策評価である。つまりある政策によるリスクの差分ΔRでベネフィットの差分ΔBを割った値を、政策評価の基準とするということである。

    そして、このΔB/ΔRの値に対して、過去の様々な対策の値と比較し、さらにリスクの質(破滅因子や未知因子の性質が含まれるかなど)を考慮したうえで、目標値を設定する。

    リスク・ベネフィット原則は有益な手法であるが、一方で筆者はリスク・ベネフィット原則が、非常に保守的な政策判断につながる可能性もあることに注意を喚起している。それは、ある環境対策が非常に困難、若しくは不可能という評価をした場合、ΔB(マイナス値)が無限大に近くなり、その対策の評価を下げるからである。これは公害対策において企業や業界団体がそのような事をすれば会社は業界が破綻するといった表現で反対をした場合などが当てはまる。

    このような事態を防ぐために、リスクの大きさを明示し、その削減に向けた対策において競争が行われる環境を作ることが必要であると筆者は述べている。

    また、リスクレベルが高く、リスクの影響範囲が大きい事象については、リスク削減のための技術開発を促進することも必要であると筆者は述べている。リスク・ベネフィットの値は、このような政策誘導を行うための根拠としても使うことができる。

    筆者は、リスク・ベネフィット原則による環境リスク制御の具体的な展開例として、大気環境基準値、ベンゼン、ノックスを例に、リスクの推計と基準や規制に対する考え方を紹介している。

    この中で、規制によるリスク低減以外にも、リスクを表示しその対策に対して軽減税率が適用されたり社会的な評価が得られたりするような環境をつくることで、リスクを低減することができるという筆者の提言は、重要であると感じた。リスク・ベネフィットによる環境リスクの評価が一般に認知されるようになれば、このような環境づくりにもつながる。

    全体を通じて、環境リスク評価の複雑さ、不確かさについて率直に認めながらも、ますます複合化し、長い時間軸の中で蓄積されていくリスクに対して有効な政策を打っていくための参考になる評価手法を何とかして用意したいという、筆者の誠実な姿勢が一貫しているように感じた。

    このような評価手法は、完璧さを追求してもそれはかなえられない望みであろう。しかし、現時点で得られるデータを使いながら何らかの判断材料を提供し、新たな知見が得られればそれを随時更新していくことで、我々は環境リスクの制御に一歩を踏み出すことができる。

    さらに、環境リスクに関する情報に透明性を持たせ、広く市民や企業が議論に参加できる土壌をつくることで、環境リスク制御のための取り組みにより広範な協力を得られるようにもなると思う。

    そのような意味で、非常に意義の高い研究であると感じた。

  • 当たり前のことだけど、ちゃんとリスクとベネフィットを考えて環境問題も論じましょうよ、と。

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著者プロフィール

産業技術総合研究所フェロー

「2014年 『原発事故と放射線のリスク学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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