- Amazon.co.jp ・本 (119ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000080835
作品紹介・あらすじ
1936年8月11日、女子200メートル平泳ぎの決勝レース。前畑秀子が1位でゴールした瞬間に、プールサイドの名取洋之助はシャッターを切った。その時、9000キロ離れた日本では、「前畑がんばれ!」のラジオ実況放送に沸いていた。-ナチス政権下のベルリンオリンピックで、日本選手団の活躍を取材した名取は、その後、ドイツ国内をベンツで周遊し、撮影する。遺された70年前のネガフィルムから、若さとスピード感あふれる報道写真が、今、鮮やかによみがえる。
感想・レビュー・書評
-
〈名取洋之助は1910(明治43)年9月、東京市高輪(現東京都港区)に生まれた。学業不振で早熟な「不良少年」であった彼は、28年に慶應義塾普通部を卒業後、裕福な家のはみ出しものとして渡独して、ミュンヘンの美術工芸学校で商業美術を学んだ。現地で恋に落ちたエルナとの結婚を実家が許さなかったために、生活費を稼ごうとした名取は、31(昭和6)年6月にミュンヘンのグラフ雑誌『ミュンヘナー・イルストリールテ・プレッセ』に火事跡の組写真を寄稿した。採用された写真に支払われたのは、ちょうど一カ月分の生活費にあたる500マルク。写真を始めて日も浅く、しかも、この写真はエルナが撮ったものだったが、20歳の彼は以降の仕事を報道写真に定めた。ジャーナリスティックな勘があることを、本人も周囲も感じてのことだった。〉
きっかけは上のようなものでしたが、それ以降彼はジャーナリストとして近現代史とともに進んでいくのです。
サラエボ事件の真相を追う取材を通じて、ベルリンのウルシュタイン社の契約写真家となる。
昭和6年9月満州事変をきっかけに日本に対する関心が欧米で高まる。家一軒分と同じといわれた高価なカメラ、ライカを二台かかえて日本に出張。世界に配信される。
ドイツでの活動が難しくなり、日本で工房を設立。
外務省の外郭団体で文化による国威の宣揚を目指していた国際文化振興会とつながっていく。
国際文化振興会からの名取への補助金支出の背景には、欧米でオリンピック開催候補地を宣伝する媒体としての期待があったのではないだろうか。
1936(昭和11)年ベルリンオリンピック、
この写真集。
当時の日本の新聞やドイツのグラフ雑誌で一部が掲載された他は、長く発表されていなかった。
2005年12月JCIIフォトサロンで初めて写真作品として展示、報道写真家・名取のオリンピックベルリン大会取材として話題をよんだ。
ベルリンオリンピックから帰国後、名取は妻エレナとドイツ周遊。
つづいて翌年ニューヨークへも行き、ドイツをはなれたユダヤ系旧友たちにむかえられる。
数か月後、ウルシュタイン社(ドイツ)とライフ社(アメリカ)の依頼による上海での日中戦争の取材を経て、1年3か月ぶりに帰国。
報道写真による対外宣伝の企画立案者、実行者として活躍していく。
白山真理さんの解説を参考にしました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ふむ
-
資料番号:011404449
請求記号:234.0/ナ