させられる教育―思考途絶する教師たち

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (211ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000230070

作品紹介・あらすじ

「したい教育」を許さず、教師を徹底的に管理しようとする教育行政のもとで、そもそも教育論は成り立つのか。「管理のツール」の具体例や、苛烈な「処分」の文言を示しながら、人間の心が壊されていく様子を報告。「日の丸掲揚・君が代斉唱」の強制問題を入り口に、教育論義の新たな出発点をつくる。

感想・レビュー・書評

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  • 『子どもが見ている背中』のひとつ前の本。

    新聞では、大阪府の公立高校の卒業式で、"国歌斉唱"の際に「口が動いてない教員」がいないか、校長がチェックしたうえ,校長室に呼び出して問いただしたという記事が出ている。いったい、何のための音楽なのだろう。東京都でも、都教委の職員などが、寄ってきてタテとかウタエとかチェックするという話を聞いたことがあるが、大阪にもこういう事態がやってきたかという思いがする。教員の口の動きをチェックする校長、というのが滑稽でならないが、大まじめにそれを「ルール」「規律」と言いつのる校長や知事や市長に、ツッコミを入れる新聞はないんかなーとも思う。

    同じような「チェック」をしてまわる校長の姿と、その際に使っているチェックリストの数々、管理ツールの具体例が、この『させられる教育』にはあげられている。チェックリストの内容と、その使い方を読んでいると、なんというか、子どもの運動会や何かの発表会で、ビデオやカメラを構えて場所取りをしてせっせと撮影する親みたいやなあと思う。カメラのファインダーの枠をのぞき、液晶画面を熱心にモニターするその目は、子どものなまの姿、表情を見ていない。

    教員の「口の動き」を熱心にチェックする校長は、いったい何を見ているのか?何のために?

    ▼学校現場ではいつの間にか、人をフォーマットによって点数化することに無感覚になっている。フォーマットによって点数を付け【させる】ことにも無感覚になっている。(p.175、【】は本文では傍点)

    京都市のある小学校長が教室巡視の際に使っているという「授業観察表」が示されている。「まるで機械の点検表のようだ」と野田が書く、その表に掲げられた項目は30もある。

    いくつか書き写してみる。

    1 学級の雰囲気はどうか。
    2 学習の躾はどうか。
    6 子どもの目が発言する者に集中しているか。
    8 教師の声量はどうか。
    13 板書のしかたはどうか。
    14 机間巡視のしかあはどうか。
    15 ノート、作業のさせかたはどうか。
    16 教科書の扱い方はどうか。
    22 導入の仕方はどうか。
    23 展開の仕方はどうか。
    24 終末の仕方はどうか。
    26 机の並べ方はどうか。
    27 個別指導がなされているか。
    28 グループ指導が生かされているか。
    … 
    これらの項目をかりに「その時間の授業内容」にそくして筆記するなら、まだわからなくもない。だが、この30項目を評価するのは「A・B・C」の3段階で、まるで「口が動いているか」という項目に「大・中・小」というかんじなのだ。30項目並んだ下に、もうしわけのように「気が付いたこと」を書く枠がもうけられているが、A・B・C、A・B・C、A・B・C…と付けたその目で、何を見て何を書くのだろうと思う。

    この評価用紙は、「その先生の、この時間の授業」をふりかえり、よりよいものにしていくためになされているわけではなく、「教育委員会へ集められ、ファイルされ…処分のため、裁判を起こされたとき防御するため、配転のため、県・市議会の文教委員会での答弁のための書類として保存される」(p.177)というのだ。

    ▼これらは、いわゆる評価の標準化である。教科のテスト、学習したものについての問いと答え、それに似て非なるものである。人間の行為と、ひいては行為の主体が、標準化された物差しで切り揃えられ、評価される人と評価する人との関係が凍りついてしまう。他者の欠点の指摘は対話によってのみ意味を持つものだが、ここでは対話は排除されている。標準化された項目で評価された人は、自分と他者をその項目の評価法によって見るようになり、評価項目によってしか見なくなり、評価の標準化はそれ自体で展開して行き、さらなる標準化へ進む。そこでは人と人との関係性、教育のもつ全体性や柔らかさが失われ、標準化による評価が関係性や全体性に取って替わる。(p.177)

    映画「"私"を生きる」に登場した根津公子さんが、この本でも登場する。根津さんが、どのように「指導力不足教員」にしたてられていったのか。
    ▼現実は、日の丸・君が代に反対する教師の「間引き」が先に決定されており、そのために「指導力不足教員」のラベリングが利用されている。(p.190)

    映画のなかでも、教育委員会や一部の保護者が、なんとかして根津さんを現場から外そうと画策したらしきことが示されていた。この本でも、校長のなりふりかまわない嫌がらせがあったことが記されている。理不尽な言いがかりとしか思えない「職務命令」の連発。自分でもわけがわからなくなったのか、校長の作文は文章までおかしい。

    また、この本では仮名となっているが、やはり「"私"を生きる」に登場した佐藤美和子さんの話も書かれている。

    「先生を処分で黙らせておいて、生徒に「生きる力」をつけさせるといっても、無理である」(p.210)と野田は書く。
    ▼教育は生徒の可能性を信じることに始まり、可能性に驚くことに尽きる、と私は思う。同じように教師を信じなければならない。教師が自らの人間観、社会観にもとづいて生徒に語りかけるとき、生徒はその対話のなかから、この社会へ参加する喜びを育てる。それぞれの教師に片寄りがあっても、欺瞞なく「したい教育」に打ちこめば、相互に調和してよき市民社会が造られる。(p.203)

    学校には、制服があるとか、やたら性別で分けられるとか、昔は性別によって勉強できる教科も違っていたり、暗黙の強制もたくさんあって、そのことも小さな問題だとは思わない。けれど、教育は強制だ、子どもに判断力なんかないのだというような勢力が大きくなることは、なおさら勘弁してほしい。

    (3/7了)

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著者プロフィール

1944年生まれ。長浜赤十字病院精神科部長などを経て、現在、関西学院大学教授。専攻は比較文化精神医学。1999年2月の広島県立世羅高校・石川敏浩校長の自殺についての検証をきっかけに、君が代強制に苦しむ教師たちの精神医学にかかわる。著書に、『虜囚の記憶』(みすず書房)、『子どもが見ている背中』(岩波書店)、『させられる教育』(同)、『戦争と罪責』(同)、『喪の途上にて』(同、講談社ノンフィクション賞)『コンピュータ新人類の研究』(文藝春秋、大宅壮一ノンフィクション賞)など多数。

「2009年 『教師は二度、教師になる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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