- Amazon.co.jp ・本 (367ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000234573
作品紹介・あらすじ
本書は宗教教団が「救済」の名の下に引き起こした宗教事件について、事件に巻き込まれ騙された信者の側に立ち、事件現場あるいは法廷での取材を行って得られた知見を踏まえたルポ。詐欺や殺人といった単なる民事・刑事事件としてではなく、宗教行為に伴う宗教問題として捉え、宗教の内在的批判を通して宗教事件のカラクリに迫る。
感想・レビュー・書評
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宗教をおもなフィールドに取材活動をつづけるフォト・ジャーナリストが、1990年代以降の代表的な「宗教事件」(ここではカルト教団による犯罪を指す)を描いたルポルタージュ集。
ただし、第1章は1980年代後半のおもな宗教事件について考察する内容になっており、最終章(第6章)「宗教的理想と世俗」はルポというより論考だ。多少論文色も加味されたルポ集といったところ。
第2章「遺体と暮らす」は、「定説です」で知られる「ライフスペース」事件など、カルト教団のメンバーが遺体と暮らしつづけた特異な事件をまとめて扱っている(90年代には、その手の事件がなぜか頻発した)。
第3章「祈りの値段」は、「法の華三法行」事件など、救済を名目に信徒から高額な布施を取り、刑事事件となったケースを扱ったもの。
そして、第4章では統一教会問題を、第5章ではオウム真理教事件を、それぞれじっくり掘り下げている。そしていずれの章でも、著者は事件の裁判傍聴に足繁く通っているほか、関係者への綿密な取材を重ねている。
どの事件の裁判においても、検察側はきまって宗教性を否定することで一般の犯罪の枠内に無理やり収め、被告を裁こうとする(判決も、多くは検察のそうした姿勢に沿ったもの)。すなわち、“被告の犯罪は、宗教の装いをこらしてはいるものの、金銭欲・権力欲などの世俗的欲望を満たそうとしたものにすぎない”という論理が用いられるのだ。
なるほどたしかに、「法の華三法行」事件の福永法源あたりには金銭欲しか感じられない。だが、カルトによる宗教事件には、世俗の論理の枠組みにはとうてい収まりきらないものも多い。だからこそ、著者は検察とは異なるスタンスで宗教事件に迫っていく。
《オウムをはじめカルトは従来の社会常識、行政の対応、法の解釈や運用では手に負えない現象なのである。
(中略)
中川(智正)に話を戻そう。彼の神秘体験、神秘状態を偽りと無視してしまえば、従来の刑事裁判として形は整う。しかし、中川を含めたオウム真理教事件を、従来の枠組みが通用しない宗教現象、宗教犯罪と捉え直さねば事件の核心に迫ることはできないだろう。そしてこれは、裁判のみのことではない。》
著者のそうした姿勢は、「あんなものは宗教ではない」という論理でオウムなどを切り捨てて事足れりとした一部既成宗教の姿勢とは対照的だ。
真に人間を見つめるには人間のなす悪も見つめねばならないように、宗教について深く考察するには、宗教の微温的側面だけ見ているわけにはいかない。宗教の危険な側面、恐ろしさをも知ってこそ、その反面にある宗教の尊さも理解できるのだ。著者は、そのことをよくわきまえた人だと思う。
ただし、著者は「世俗」を「宗教」より一段低くとらえているわけではない。むしろ逆だ。
終章「宗教的理想と世俗」では、オウムに殺害された被害者たちが「世俗」の中で懸命に生きたその輝きを示すことで、世俗を超越した気になっていたオウム幹部たちの増上慢を、著者は鋭く衝いてみせる。
本書の圧巻は、オウム事件の意味を改めて問い直した第5章だ。
著者はこの章で、麻原彰晃でも上祐史浩でもなく、新実智光(地下鉄サリン事件等の一連の犯罪にすべてかかわった古参幹部)に的を絞ることで、事件に新たな光を投げかけている。
優しく善良な青年だった新実が、グル(導師)の命令のまま殺人を犯す「宗教確信殺人犯」に変貌するまでの心の軌跡をつぶさに追い、すごい迫力。あたかも、新実を主人公とした重厚な文学作品を読んだような読後感が味わえる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『宗教』を題材にした小説を読んでから、買ってみたが、とても興味深く読んだ。
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新興宗教の事件例をあげた本。
学校の先生から借りた本だが、にわかに信じられない真実が描かれている。
人間の信仰心はおそろしくも感じた本であった。