暴力批判論 他十篇: ベンヤミンの仕事 1 (岩波文庫 赤 463-1 ベンヤミンの仕事 1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (308ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003246313

感想・レビュー・書評

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  • こちらが理解しておくべき前提条件があるからか、少し難しかった。
    「翻訳者の課題」は特に面白い。
    全体や普遍性、「一般的」と呼称されるものへの注意喚起。それゆえベンヤミンが提示する強固な理念性と希望的観測が多く含まれている。
    もっと学びます。

  •  毎日毎日、本当にうんざりするほど愚弄されているのに疲れてきて、なんでこんな思いをしなければならないのかと思う。なんの話かと言えば、もちろん大文字の政治の話である。ニュースを見ていても脱力感しか怒らないのは、そこでは僕ら人間の知性とか、尊厳とか、思惟とか、そのようなものが日々愚弄されて、蹂躙されているからである。
     ブルジョワ民主主義(すなわち選挙を軸とした代議制民主主義)がフィクションであるとして、そのフィクションを守る設定(正統性)すらもぶっ壊れている中で、頭をよぎるのは「抵抗権」(a.k.a. 革命権)のことである。この欺瞞に満ちたシステムを、更地にすることはできないのか。

     先日、なんとなくヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』を読んでいた。ベンヤミンは、同じく暴力について考えたジョルジュ・ソレルの議論を援用しつつ、暴力の性質を腑分けする。(言うまでもないが)ここでの「批判」とは、「じっくり掘り下げて考える」といった意味である。

     ベンヤミンによれば、特定の法を定め、またそれを維持する(国家による)統治の暴力は「神話的暴力」と呼ばれる。ある体制Aから体制Bに変わろうとも、それは統治を支える物語が神話Aから神話Bに取って代わるだけの話であって、暴力は消滅しない。ここで重要なのは、国家というもの自体がそもそも暴力機構であるという話である。僕らは「よりマシな政治」を求めるが、しかし「よりマシな暴力」というものが存在しうるのだろうか?

     それに対して、そうした神話的暴力すらも根絶する(すなわち、統治システムである国家すらも消滅させる)暴力のことを、「神的暴力」と呼ぶ。ベンヤミンは、この神的暴力について、必ずしも具体的な像を提示していないが、ソレルの唱える「プロレタリア・ゼネスト」のイメージと、おそらくオーバーラップしているのだろう。

     「神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である」(p59)

     まぁ、ぶっちゃけ何言ってるのかイマイチわからないところではあるのだが、なにか迫力があり、中二病的マインドをくすぐるものがあるのは確かである。神的暴力、どこかに売ってないのか。

     「あれかこれか」の政党選びに一喜一憂したり、法的な手続きの諸々に関与していると、なにか「現実的なもの」に携わっているような実感はあるかもしれない。が、それらを「フィクションである」と言い切る知性や尊厳というものもあるし、それがないと想像力が枯渇して追い詰められていく気もする。
     僕らは、このクソみたいな社会の雑事と政治に翻弄されながらも、思考の天窓を開いて、別の場所に抜け出していくことができるはずだし、そのような思惟が必要なときもあるのではないか。ベンヤミンの本を横目に、そんなことを考えたりしている。

  • 法の背景には暴力があり、暴力が法を措定・維持するというとりあえずの基礎はわかった。
    が、全然内容をつかみきれていないとおもうので、もう一度読まねばならないなぁ。

  • すべての法の根源・背後には暴力がある。そしてその暴力は「法の措定」や「法の維持」の手段として機能する。

    これら〈手段としての暴力〉とは別種の、「目的の正しさ」について決定をくだす暴力がある。〈神的暴力〉である。

    〈神的暴力〉は、法を措定し維持する〈神話的暴力=手段としての暴力〉に対峙する。

    〈神的暴力〉は、処罰への恐怖としてではなく、行為者個人を追及する〈戒律〉として存在する。〈戒律〉はカントの定言命法とは異なり、“個人や共同体は……非常の折りには、それを度外視する責任をも引き受けねばならぬ”(したがって正当防衛の殺人は必ずしも断罪されない)。

    ベンヤミンは、革命的暴力の基礎づけのために〈神話的暴力〉を批判し、かつ〈神的暴力〉なるものを称揚しているようである。が、現代においては、〈神話的暴力=手段としての暴力〉が排除された社会というのは、実際想像しがたい。

    しかしながら、法の根源・背後には暴力があるという厳然たる事実を明るみに引っ張り出したのがすごいところ。また、〈手段としての暴力〉とは異なった、〈神的暴力=戒律=正義〉が神およびわれわれ行為者自身に宿っているのだというメッセージは強く印象に残った。

    「他十篇」はまたいつか読む。

  • 全体的に難解ですが、言語の可能性としての翻訳論とか、本当に凄いし勇気づけられるものだと思うのです。

  • 20世紀のデストロイヤー、ベンヤミン。
    松本人志のコントに出てくるベンジャミンさんが
    好きだったというだけの理由で手に取り、読んでみたら、いつの間にか愛読書に。
    3回くらい読まないと書いてることが理解できなかった。でも野村氏の訳文がとにかくカッコいいので読ませる。「生命が、殺戮の酩酊を克服するのは、産みへ向かう陶酔のなかでだけなのだ」

著者プロフィール

1892-1940 ドイツの思想家・文学者。「ドイツ悲劇の根源」「パサージュ論」など

「2011年 『ベンヤミン・アンソロジー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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