暴力批判論 他十篇: ベンヤミンの仕事 1 (岩波文庫 赤 463-1 ベンヤミンの仕事 1)
- 岩波書店 (1994年3月16日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (308ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003246313
作品紹介・あらすじ
20世紀の最もアクチュアルな思想家、抜群の感受性と批評精神をあわせもつ文学者、繊細なきらめきに満ちた散文の書き手…。いま最も注目をあつめるヴァルター・ベンヤミンの多岐にわたる仕事のなかから、「翻訳者の課題」「認識批判的序説」「一方通交路」「ベルリンの幼年時代」など、ベルリン時代の主要な諸篇を収めた。
感想・レビュー・書評
-
暴力批判論―他十篇
(和書)2012年12月22日 18:50
1994 岩波書店 ヴァルター・ベンヤミン, 野村 修
暴力の吟味ということと同時に暴力の否定としての平和のようなものを考えているのだろうと思います。しかしそういった平和はあり得ない。今まで実現されたことはないしこれからも実現されることはないものです。それが何かと言えば柄谷行人さんのいう統整的理念としてあり、目的としてしかあり得ないものだろうと思います。目的があるかのように事前の立場であろうということをベンヤミンさんも述べているのだろうと思います。
『世界史の構造』では、実現されていたことはないとありましたが、『哲学の起源』ではイオニアのイソノミア(無支配)が実現されていたという内容の本を柄谷さんは書いています。その後のソクラテスもイオニア派だと書かれてあります。英雄崇拝ではなく、人間にある一つの原子のような運動が社会科学としてありえる。そういった運動が暴力に対する根本的な対抗運動としてありえると。暴力の独占が国家だとしたらそれに対抗する運動自体が暴力に対する根本的な対抗運動でなくてはならない。そういったものは人間のなかにあり、そのあり方はどういうものかその一端をこの本は描こうとしている。
誰であっても可能でなければならないと僕は思うしベンヤミンだって思っているのだろうと思います。だから決して難しいものではない。見方が変わればこれほど明確なものはありえないと思います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
こちらが理解しておくべき前提条件があるからか、少し難しかった。
「翻訳者の課題」は特に面白い。
全体や普遍性、「一般的」と呼称されるものへの注意喚起。それゆえベンヤミンが提示する強固な理念性と希望的観測が多く含まれている。
もっと学びます。 -
2021年1月期展示本です。
最新の所在はOPACを確認してください。
TEA-OPACへのリンクはこちら↓
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/opac_details/?bibid=BB00103199 -
34410
-
毎日毎日、本当にうんざりするほど愚弄されているのに疲れてきて、なんでこんな思いをしなければならないのかと思う。なんの話かと言えば、もちろん大文字の政治の話である。ニュースを見ていても脱力感しか怒らないのは、そこでは僕ら人間の知性とか、尊厳とか、思惟とか、そのようなものが日々愚弄されて、蹂躙されているからである。
ブルジョワ民主主義(すなわち選挙を軸とした代議制民主主義)がフィクションであるとして、そのフィクションを守る設定(正統性)すらもぶっ壊れている中で、頭をよぎるのは「抵抗権」(a.k.a. 革命権)のことである。この欺瞞に満ちたシステムを、更地にすることはできないのか。
先日、なんとなくヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』を読んでいた。ベンヤミンは、同じく暴力について考えたジョルジュ・ソレルの議論を援用しつつ、暴力の性質を腑分けする。(言うまでもないが)ここでの「批判」とは、「じっくり掘り下げて考える」といった意味である。
ベンヤミンによれば、特定の法を定め、またそれを維持する(国家による)統治の暴力は「神話的暴力」と呼ばれる。ある体制Aから体制Bに変わろうとも、それは統治を支える物語が神話Aから神話Bに取って代わるだけの話であって、暴力は消滅しない。ここで重要なのは、国家というもの自体がそもそも暴力機構であるという話である。僕らは「よりマシな政治」を求めるが、しかし「よりマシな暴力」というものが存在しうるのだろうか?
それに対して、そうした神話的暴力すらも根絶する(すなわち、統治システムである国家すらも消滅させる)暴力のことを、「神的暴力」と呼ぶ。ベンヤミンは、この神的暴力について、必ずしも具体的な像を提示していないが、ソレルの唱える「プロレタリア・ゼネスト」のイメージと、おそらくオーバーラップしているのだろう。
「神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である」(p59)
まぁ、ぶっちゃけ何言ってるのかイマイチわからないところではあるのだが、なにか迫力があり、中二病的マインドをくすぐるものがあるのは確かである。神的暴力、どこかに売ってないのか。
「あれかこれか」の政党選びに一喜一憂したり、法的な手続きの諸々に関与していると、なにか「現実的なもの」に携わっているような実感はあるかもしれない。が、それらを「フィクションである」と言い切る知性や尊厳というものもあるし、それがないと想像力が枯渇して追い詰められていく気もする。
僕らは、このクソみたいな社会の雑事と政治に翻弄されながらも、思考の天窓を開いて、別の場所に抜け出していくことができるはずだし、そのような思惟が必要なときもあるのではないか。ベンヤミンの本を横目に、そんなことを考えたりしている。 -
法の背景には暴力があり、暴力が法を措定・維持するというとりあえずの基礎はわかった。
が、全然内容をつかみきれていないとおもうので、もう一度読まねばならないなぁ。 -
すべての法の根源・背後には暴力がある。そしてその暴力は「法の措定」や「法の維持」の手段として機能する。
これら〈手段としての暴力〉とは別種の、「目的の正しさ」について決定をくだす暴力がある。〈神的暴力〉である。
〈神的暴力〉は、法を措定し維持する〈神話的暴力=手段としての暴力〉に対峙する。
〈神的暴力〉は、処罰への恐怖としてではなく、行為者個人を追及する〈戒律〉として存在する。〈戒律〉はカントの定言命法とは異なり、“個人や共同体は……非常の折りには、それを度外視する責任をも引き受けねばならぬ”(したがって正当防衛の殺人は必ずしも断罪されない)。
ベンヤミンは、革命的暴力の基礎づけのために〈神話的暴力〉を批判し、かつ〈神的暴力〉なるものを称揚しているようである。が、現代においては、〈神話的暴力=手段としての暴力〉が排除された社会というのは、実際想像しがたい。
しかしながら、法の根源・背後には暴力があるという厳然たる事実を明るみに引っ張り出したのがすごいところ。また、〈手段としての暴力〉とは異なった、〈神的暴力=戒律=正義〉が神およびわれわれ行為者自身に宿っているのだというメッセージは強く印象に残った。
「他十篇」はまたいつか読む。 -
さらっと目を通した。法概念は難しい。
-
暴力批判の基礎となるべきは、目的の正当性でなく法の措定だ、と暴力に潜む権力性を鋭く分析した表題作をはじめとして、ベンヤミンのリアリズムが堪能できる。
-
ソレルの『暴力論』に応答するかたちで書かれた「暴力批判論」は、
暴力を2種に区別し、一方を断罪、他方を称揚しようとするために非常な困難に遭遇している。
一方とは権力による法の暴力(神話的暴力)、他方とは最終的には国家を揚棄する革命の暴力(神的暴力)である。
革命は、正義に適うためにあるが、
それはつねに法の外に正義があることを前提としている。
しかし、この論では端から〈正義〉については論じないとしている。
そのため、この革命の根拠はどのようなものか、ということには答えられない。
おそらく、正義は労働者の生き方、翻訳されているところの〈生活者のこころ〉に求められるだろうか。
しかし、このテクストは、人を行為主体へと呼びかけている。
これは目的の合目的性に如何を別にすれば、人間の生き方にかかわっている。
どういうことかというと人間の現前性の認識能力の問題をベンヤミンが苦悩した結果、
革命的暴力の結果の良し悪しは事後的にしか決定できないため、
今ここの私は〈責任〉を引き受けるかたちでしか、行為を実行しえない、としたのだ。
革命の暴力として評価する神的暴力は、断罪すべき神話的暴力としてしばしば現れざるをえないとしている。
革命のための暴力は、肯定されうる。
その評価は未来の歴史家の仕事である。
現在の人間は、あらゆる配慮ある判断の後に行為することしかできない。
その決定不可能性は、〈運命〉という言葉に表れる。
必然性として総括したところで、蓋然性というものが拭いがたく存在しているためだ。
その蓋然性を含めて行為は〈責任〉を媒介として私に取りまとめられる。
最後にベンヤミンのテクスト全般に言えることは、
彼のテクスト群はアイデアボックスであって、必ずしも適切に論証されたものではない、ということだ。
彼が天才型で大量のエッセーを書いたのは分かるが、そのことと書かれたテクストの是非とは区別されなけばならない。
何を思って、ベンヤミン信者が彼のテクストの周りに取りついているのか、
私にはいまいちつかめない。