キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (122ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003380819

感想・レビュー・書評

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  • プロテスタントにとっては基本的なことばかりだが、あらためて読むと自分が少し変えられた気がした。日々の祈りにおいても、目の前の事のみを祈るのではなく、変らぬ十字架の救いに感謝を捧げようと思わされた。とても影響力のある本だと思った。

  • ルターはとにかく、人は「律法の行い」によってではなく「信仰」によって義(ただしい)とされ救われるということを、それに関する様々な誤解を具体的なただしながら丁寧に説明していく。そしてまたその説明の中で、当時のカトリック教会がイエスの時代のユダヤ教徒たちと同じ過ちを犯していることを控えめながら指摘していく。
    本書は、宗教改革における歴史的役割を確認するためだけでなく、現代において「ローマの信徒への手紙」をただしく読むための手引きとしても有用であると感じた。

  • 「キリスト者の自由」(1520年)、「新約聖書への序言」(1522年)、「聖パウロのローマ人にあたえた手紙への序言」(1522年)、「詩編への序言」(1528年)を収める。「キリスト者の自由」は基本的にローマ・カトリックのいう「善行」に縛られない「自由」を提言したもので、「行い」で人は救済されないことをくり返し述べている。かといって、何でもやっていいということではなく、悪行も結局肉体の欲望に駆られた不自由な行いであり、したがって、「善行」に対する報酬ではなく、神の意志を実現することを喜びとして自由に善を行うことがクリスチャンの自由であることを述べている。プロテスタントによれば「万人祭司」であり、職業的な祭司は代理であり、「しもべ」である。だから、カトリックの「司祭」はプロテスタントでは「牧師」である。ここから、万人は自由であるとともに万人の僕であるというテーマがでてくる。ルターは「行い」も「信仰」がともなわねば意味がなく、心の底で神を信じていないのは、神への最大の侮辱ととらえる。また、律法(戒律)を守るなかにも、人間には律法を忌避する心がある。ルターは「身体が健康でも、たましいに益することはない」、「身体が病み疲れていても、たましいに損失はない」と指摘し、身体と魂の区別を指摘しているが、一般に「顔で笑って心で泣く」ことはあり、デカルトに代表される「心身二元論」はいろいろ批判されるけれども、「心身二元論」はこういう「魂の苦悩」に基礎があるのかと思う。「新約聖書への序言」も、「ただ信仰のみ」と「恵みの神」について述べている。「ローマ書の序言」はルターが新訳中もっとも重要な文書する「ローマ書」への序言で比較的ながい。まず、パウロの用語を解説し、「律法」(人は根本的に善への嫌悪と悪への愛着をもつ、形だけ律法に従うので、律法を霊的なものとしてとらえる必要がある)・「罪」(不信仰が罪)・「恩恵」(神の愛)・「信仰」(人間の妄想ではなく、神の恩恵の確信)・「義」(何人も自ら信仰を与えることができず、不信仰を取り除くことはできない。だからキリストを信ずることのみが義である)・「肉」(心と体を合わせた全人間)・「霊」(信仰)などを解説している。以下、断章ごとに要約している。救済とは人類という奴隷を神が「地主」から買い取るようなものである。「キリスト者の自由」は弱い者を益するために用い、彼らが強くなるまでは譲歩すべきであることも言っている。「詩編への序」はルターが最も愛した「詩編」への序で、行いを示す福音書とはちがい、「詩編」は信仰の言葉を書いており、過去の預言者がどのように神を信じたのかという実例がみられ、「小さな聖書」であるとする。全体的に「善」の偽善への転化など分かる部分もあるが、なぜ、「ただ信仰のみ」がキリスト=神の信仰にならねばならないのかは謎である。行為については「知先行後」「知行合一」など、東洋でもテーマである。ただ、『大学』などでは行為の制御が問題になっているのではないかと思う。「万人祭司説」は「信仰義認」(ただ信仰のみ)、「聖書中心主義」とともにカトリックへの根本的な批判だろう。ルターが「言葉」に執着するのはギリシア以来の「ロゴス中心主義」と関わるのだろうが、人間を自然の一部とする「ピュシス」(自然)の観点が欠けているように思う。身体が苦しめば心も苦しいし、心身が相互に影響を及ぼすことはストレスや欝病などを考えれば、科学的にも言えると思う。心のともなわぬ「善行」も政治的・功利的な観点からは許されるのだろう。ただ、偽善を牽制する意味では問題を提起していると言える。無意識の抑圧もあるし、「心から信じなさい」と言われて、そうできるほど、人間は単純ではない。

  • キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
    キリスト者はすべてのものに奉仕する下僕であって、何人にも従属する。

  • この本が有名
    な、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しな
    い」と、「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」と
    いう二つのテーゼで始まることは有名である。外から内ではなく、内から外へ、とい
    うルターの信仰観が明らかにされている。エラスムスは人間本性において直接的に自
    由を見る傾向があるが、ルターは自由を「奴隷」や「罪」という反対概念との弁証法
    的な関係で捉えるのである。
    全般的に、このテーゼの展開に終始しており、ルターの他の多くの著作に見
    られるような、具体的な対象を持った批判や論駁などは見当たらない。しかしそれゆ
    えに、現代に至るまで多くの信仰者によって読み継がれてくるような、普遍性を持ち
    えたのであろう。福音主義キリスト者が常に立ち返るべき中心的事柄が凝縮されてい
    る書物である。

  • 「自由」と一言で言っても、仏教的自由とキリスト教的自由とは意味が異なる。
    「表現の自由」とか「自由主義経済」とかいう場合は、これは欧米からもたらされた概念なので、もちろんキリスト教的自由をさす。
    だから、キリスト教の発想を理解しなければ、ビジネスも政治も世界に取り残されることになる。日本では最近世界に通用するイノベーションが生まれないと言われるけれど、それはここに原因があるのではないかと思う。
    クリスマスに読む本としては最適だったと思う。

  •  
     ルター/石原 謙・訳《キリストの自由 19551220 岩波文庫》K351
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4003380819
     
     Luther, Martin 14831110 Germany 15460218 62 /15171031-11011 論題
     
    ── 工藤 喜作《宗教を動かしている古典名著 宗教原典考》
    https://twilog.org/awalibrary/search?word=%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC&ao=a
     
    (20201027)
     

  • 人自身による影響以上に、人に影響を与えうるのは、その人自身の思想である。

    イエスの生き方以上に、イエスの思想こそにより多くの示唆が含まれいる。

  • 当時、ルターが宗教改革の時に何を目指したのか何を言いたかったのかが凝縮されていて、前提と提案、その広がりと受容、いろんな意味で興味深く読むことが出来た。ここでいうルターの言っていることは信仰に求められる真髄のようにも思える。何かに向かって誠を尽くそうとする人の姿が垣間見れられた。また聖書を読む時にその理解の助けとしたい。

  • 自分がキリスト教徒ではないのと、翻訳が読みにくいのとであまり頭に入って来なかった。
    聖書を読んでいたらもう少し入り込めたかも知れない。
    ただ、ルターの宗教に対する真面目で熱い想いが伝わってきた。

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著者プロフィール

宗教改革者。

「2021年 『主はわたしの羊飼い』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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