ジェイムズ・ジョイスの謎を解く (岩波新書 新赤版 429)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004304296

作品紹介・あらすじ

20世紀最大の文学者の一人であるジョイスの代表作『ユリシーズ』。このとてつもなく巨大で重層的な作品に作者は無数の謎をしかけた。なかでもダブリンの安酒場で滔々と語る「俺」とは誰か、この作品中最大の謎に緻密な論証により世界で初めて決定的な解答を与え、さらなる謎を快刀乱麻に読み解いて、文学的スリルと興奮の世界へ誘う。

感想・レビュー・書評

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  • ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』第12挿話の語り手である「俺」が、犬であるという新説を提出している本です。

    著者の検証を読んでいると、なるほどそういう解釈もありえそうだという気分になってきますが、「筆者のこのような解釈に対して消極的な態度を示したり、はっきりした態度を保留したがる人」の逃げ口上を許さず、「もちろん、どっちにも取れる―ジョイスが巧妙に、意図的にそう書いたのだから。しかし、作者ジョイスがどっちだかわからなくて書いたということではない。正解は一つだ」と勇ましく語っています。

    ただ、それでもなお逃げ口上をかさねるとするならば、著者が自説を展開していく議論は、感嘆詞のGobを「どべッ」と訳しているところに象徴的に示されているように、英語の文章のうちにひそんでいるはずの「正解」を、日本語というまったく異なる言語のうちへと移し入れる試みと一体化して語られており、そのような著者の翻訳の試みのなかで、著者の解釈の妥当性や意外性が生き生きと示されているということができるのではないかと考えます。

  • 「ワトスン君、こうやってありえない仮説を取り除いていけば、最後に残ったものが、どんなに奇妙に見えても、それが真実なんだよ。」

    本書は、20世紀文学の稀有な大作『ユリシーズ』の解説書である。しかし、ただの解説書ではない。著者は、『ユリシーズ』第十二挿話の語り手である「俺」が、じつは犬ではないかという説を展開する。
    驚くには当たらない。わが国には夏目漱石のかの有名なる小説があるではないか。語り手が犬であって何の問題があろう。
    現在までのところ、私の知る限りでは、イギリス文学界隈で著者の仮説を最有力とする動きはないようである。しかし、語り手が犬であるという仮説を立てることによって、今まで解明できなかったパズルが解けていくのだという。
    ジョイスは読者に対してどんなトリックを仕掛けたのか。それはみなさんの目で確かめてほしい。

  • 逝去の知らせの後、街中の書店で見つけて購入。読み終わって奥付を見て、「1995年」という出版年に驚いている。二十年。作者の説は広く受け入れられているのだろうか?

  • 『ユリシーズ』には、謎が多いと書いた。これまでに多くの人が、それぞれの意見を様々な本に書いている。集英社版の三巻本には、詳細な脚注が付いていて、ページを越えてはみ出しているくらいだ。真面目な読者は、それらに全部つきあおうとして、途中で棒を折ってしまう。実は、自分がそうだった。注が多いということは、注を読まないと理解できない訳され方をしているということでもある。しかし、たかが小説にあの脚注の量は常識を超えている。『ユリシーズ』という小説、たしかに大作だが、本文だけなら、そんなに大長編というわけでもない。まずは、本文だけでも読んでみることをお薦めする。

    その点、柳瀬尚紀が訳している河出書房新社版は、注一切なしという思いっきりのいい編集方針で、キレのいい訳文とともにお薦めなのだが、翻訳書というのは、日本語の文章として読めなければならない、というのが訳者の方針だから、注を付けないとなると、ジョイスの言葉遊びを、逐一日本語に移しかえるという離れ業に挑戦しなければならない。そのせいもあって、全18挿話のうち、1から6挿話と12挿話だけが出されたところで止まっているのが惜しい。

    でも、なぜ7からから11挿話を飛ばして12挿話なのか。それには、訳がある。第12挿話〈キュクロープス〉は、無名の〈俺〉という話者が、ジョウ・ハインズと連れだって、バーニー・キアナンという酒場に現れ、酒の相手を待ち受けていた悪名高い「市民」と呼ばれる男と酒を飲んで噂話に興じるという話である。それのどこが問題なのか。実は、柳瀬氏、この挿話の話者〈俺〉は犬だという説を世界に向けて発信しているのだ。

    『ユリシーズ』において、話者の視点は一般的には〈外在視点〉を用いていて、ブルーム、あるいはディーダラスの内的独白を「意識の流れ」の手法で描くとき以外、特定の人物の内側から外にいる人物を見て描く〈内在視点〉という方法を採らない。たまに二人以外の人物の内側から描く場合は、人物の名を明かしている。それなのに、この挿話に限っては、話者は〈俺〉というだけで、名を名乗らない。しかも、おかしいことに、ジョウも、「市民」も、俺に名前で呼びかけない。いや、名前だけではない。はじめから最後まで完全に〈俺〉の言葉は無視されているように読める。この男はいったい誰なんだろう、という疑問が読者の心に浮かぶようにわざと書かれているとしか思えないのだ。

    登場してくるところからして変だ。
    「ダブリン市警のトロイ爺公とアーバー坂の角んとこでちょいと立ち話をしていたら畜生ッ煙突掃除屋めが通りすがりに危うく俺の目ん玉へ道具を突っ込みそうにしやがった。振り向きざま一吠え浴びせてやろうとしたらなんとストウニー坂をひょこひょこやってくるのは、ジョウ・ハインズよ。
    ――おお、ジョウ、と俺が云う。元気かよう?見たかあの煙突掃除屋が俺の目ん玉をブラシで危うくえぐるとこだったぜ。
    ――煤とは縁起がいいやな、とジョウが云う。いま話してた老いぼれ睾丸は誰だ?」

    いくらなんでも、人通りのある往来で、通行人の目にブラシを当てそうになって煤までつけてそのままという法はない。しかも、ジョウは、同情するどころか「縁起がいい(アイルランドの言い伝えらしい)」と受けて、話を変えている。煙突掃除屋にも無視され、ジョウにも同情されない〈俺〉って何?という疑問が湧いてこないだろうか。

    最初から最後まで徹底してこの調子である。では、なぜ〈犬〉なのか。「一吠え浴びせてやろう」というところに注目するのは当然だろう。しかも、この酒場には、ギャリー・オウエンという名の犬がいて、〈俺〉に吠えかかる。その他、いくつもの証拠を挙げて、柳瀬尚紀は、〈俺〉=〈犬〉説を説くのだが、どうやら、この説は、まだまだ支持者が少ないらしい。評者は、かなり信憑性のある説だと思うのだが。

    というのも、『オデュッセイア』と云えば、犬がつき物。オデュッセウス(ユリシーズ)が、乞食の変装をして故郷のイタカに帰ってきたとき、誰も気づかぬなか老犬アルゴスだけが、主人と気づいて寄ってくる、余命幾ばくもない老犬のその姿を見てさすがのユリシーズの目にも涙が浮かんだというという有名な話をロジェ・グルニエが書いている(『ユリシーズの涙』)。そればかりでない。ジョイスは動物好きなのか、『ユリシーズ』全編にやたら動物が登場する。なかでも犬は出番が多い。犬と人の心の通い合いで有名な『オデュッセイア』の挿話をひっくり返して、人間がいっこうに犬語を解しない挿話を書くことは充分考えられるのではないだろうか。

    柳瀬氏の証拠探しはまだまだ続くが、後は実際に本を読んでもらいたい。実は、柳瀬氏〈俺〉の正体まで突きとめている。しかし、そこまではさすがに評者もついていけないのだが。『ユリシーズ』の一挿話について語るだけで一冊の本が書けてしまう。しかも、その中身がべらぼうに面白い。ここは是非、読んでもらうしかない。

  • 「ユリシーズ」の「俺」は実は犬だったという大胆な仮説を展開し、12章「キュクロープス」を再訳して愉快な解釈を繰り広げています。一見するとおやじギャグ塗れのおふざけのように思えるかもしれませんが、ジョイスの言葉や文体に関する志向とそれを翻訳するという試みの意味を考えると、とても優れたジョイス入門書といえるのではないでしょうか。

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著者プロフィール

1943年根室生まれ。翻訳家・英文学者。著書に『日本語は天才である』『ユリシーズ航海記』など。訳書に、ジョイス『ユリシーズ1-12』『フィネガンズ・ウェイク』、ダール『チョコレート工場の秘密』など。

「2020年 『リスからアリへの手紙』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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