- Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004311041
作品紹介・あらすじ
中国で、遣唐留学生「井真成」の墓誌が発見されたというニュースは、まだ耳に新しい。国家の使節として、また留学生・留学僧として海を渡った人々は何を担い、何を求め、何を得てきたのだろうか。遣隋使と遣唐使を統一的にとらえる視点から、七、八、九世紀の約三百年にわたる日本古代外交の実態と、その歴史的な意義を読み解いていく。
感想・レビュー・書評
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筆者は遣唐使の第一人者。
広く遣唐使についての最新の学説を取り入れています。
09年度東大前期の問題作成者は、間違いなくこの本を念頭に作っていると思います。 -
東野治之氏は同じ大学の先輩で、そのうわさは昔から国語国文学の小島憲之先生を通して聞いていた。氏の『遣唐使と正倉院』などという専門書まで買ったことがあるが、本棚をさがしてもないところを見ると、ろくに目も通さないうちに売ってしまったようだ。本書は、たまたま長崎、五島列島の旅に出るときに、買い置きの新書から選んだものだが、その五島列島が遣唐使の中継地、いや日本からの出発地であったとは偶然だった。東野氏は歴史学者で、本書には氏のこれまでの古代史研究、遣唐使研究のエッセンスと新説がふんだんに書かれているように思った。たとえば、遣唐使のとったダブルスタンダード。つまり、国内に対しては唐を蛮族とみ、朝貢の品を唐への賜りものと見なしていたという。それは日本が唐からあまりに遠くにあったためとれたもので、唐としても他の臣下のように毎年のように朝貢させる必要は感じていなかったようだ。その朝貢品というのも、金銀ガラス細工のような芸術品などではなく現物租税の一部であった。当時の日本には高級な芸術品をつくる力などまだなかったし、唐としても貨幣に代わるものの方がよかったようだ。「日本」という国号にしても、本来「倭」と呼ばれていたのを、唐が「日本」と改めさせたという。「日の出る処」と「日の没する処」では対等関係になるが、「日本」だけだとそれは辺境の国、東夷ということになる。
遣唐使がなぜあれほど遭難したかも実は政治的な背景があった。それは唐の元旦の祝賀に朝貢国の一つとして駆けつける必要があり、それに間に合わせるには夏から初秋という台風シーズンを選ばざるを得なかったからだという。その他はっと思わせる記述が各所に見られるが、最後の日本は開かれていたのではなく、大陸から離れていたがために、また自給自足の態勢にあったために、選択的に外国文化を受容できたという指摘も興味深い。海外との交渉は部分的に行われただけで、中央の要人は決してこれに加わっていない。明治初期の岩倉遣米欧使節団のメンバーが当時の政府の半分以上であったことと考え合わせれば納得がいく。
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フォトリーディング&高速リーディング。
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白紙に戻そう遣唐使。
遣唐使といえば、真っ先に思い浮かぶのはこのフレーズ。
受験の頻出年号としてインプットされていただけだが、遣唐使をそんなに軽く扱ってはいけないと反省。
海を渡るのは命がけ。渡った後も長安に行けるのも一握り。帰国できるのはもっと少ない。
一発当ててやろうという博打打ちのような思い切りがないとできない。
だからこそ今にも影響をもたらすような大仕事になったわけで。
遣唐使の時期が、特殊であったと考えるべきで、鎖国体質というのもうなづける。 -
おもしろい!
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中国との実り多い交流は遣隋使に始まるという。その第2回遣隋使において、聖徳太子が隋の煬帝に送ったという国書に書かれた
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや。」
というフレーズがあまりにも有名だ。煬帝は無礼だと激怒したというが、この「日出づる処」「日没する処」は仏典の「大智度論」に使われている表現を借用したもので「東」「西」の文飾に過ぎず、特に優劣の意味は込められてはいないのだそうだ。これは知らなかった。
筆者は最近中国で発見された「井真成」という遣唐留学生の墓誌から、彼らが国家の使節として何を唐に持ち込み、何を日本に伝えようとしたのか、歴史を読み解いていく。
中でも興味を引いたのは、唐文化を選択して受容したということである。仏教を積極的に受け入れたが、道教の全面的な受け入れは拒んだ。また、官僚機構に宦官を置かなかった。
地理的に離れているという環境が我が国独自の判断で唐の文化を選び取ることが可能だったという。9世紀第20次遣唐使は、大使の菅原道真の上奏により停止されるが、その頃までには唐文化はだいぶ吸収されていたそうだ。 -
NHK ドキュメンタリー番組 井真成役としてナビゲーターとして出演。井真成に関する著書