中国絵画入門 (岩波新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004314905

感想・レビュー・書評

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  • 東博で故宮の展覧会が始まりました。是非目を通した方がよい本です。概説といえば概説ですが、絵画における「気」の盛衰について、哲学の方向から絵画を分析しているところがおもしろいです。
    「文人」についても、従来の説明方法ではなく、絵画のあり方から読み解くのがおもしろかったです。
    新書なので、図版が小さいことを著者も度々気にしていますが、やはり見にくいです。
    絵画そのものの解説より、「気」がどのように伝わるか、或いは伝えないか、それがとtもおもしろいです。

  • 宇佐美文理『中国絵画入門』岩波新書,2014年:中国絵画が何を書いてきたのかを論じた本である。絵は形を描くものだが、中国には万物を構成する「気」という考えがある。「気」には、物を生み出す造形力としての「気」、画家に内在する人格力としての「気」、墨や筆づかいにあらわれる「気」が、絵画論としては考えられる。この「形」と「気」について、その表現の変遷をまとめたのが本書であろう。はじめに著者の用語、「箱モデル」と「角砂糖モデル」について説明がある。「箱モデル」は外側と中身はちがうという発想である。「角砂糖モデル」は外側と中身が同じだという発想である。「箱モデル」は文人が画家の絵を貶すのに用いた論法で、「角砂糖モデル」は人格がそのまま画面にでていることを表す。本書の構成は朝代ごとの変遷で中国絵画史になっている。最初は後漢までの美術である。墳墓の副葬品の絵(昇仙図や画像石、画象磚)が分析されている。この時代、不老不死の象徴である「西王母」が描かれるが、「西王母」が特殊な存在であることを表すために肩から「気」が立ち上っている様子が描かれた。この「気」はまだ漫画的な表現だった。ちなみに月の兎や九尾狐なども後漢の図案であった。兎が杵でついているのは餅ではなく不老長寿の薬だそうだ。六朝時代になると「気韻」という概念が登場し、生命感のある線で気を表す手法が登場する。顧愷之「女史箴図」のたなびく帯のような気の表現もあった。このころから「気韻」は対象のものではなく、画家のもっているものという解釈があらわれ、「人格主義」の萌芽がみられる。作品の分類方法や当時流行っていた人物批評からきているそうである。唐代の絵画では西域の影響をうけた敦煌壁画がのこっているが、目の隈取りや手のひらの線など、立体感を表すために「見えないはずの線」が描かれるようになる。また、呉道玄が肥痩にとんだ表情のある線を描いて「筆意」が発生してくる。山水画の世界では、「皴法」(しゅんほう、皴は「シワ」)がでてくる。これは山の立体感や岩肌の質感をだすために細かい線を引くもので、披麻皴・牛毛皴・雨点皴・雲頭皴・斧劈皴、折帯皴・米点皴(のちの米芾・米友仁が用いた横長の点描)などさまざまな表現が考えられた。さらに唐代の末から「逸品」という言葉がでてくる。従来「神品」「妙品」「能品」の三ランクで評価されていたのが、「基準から外れるけれどいい絵」という意味で最後に「逸品」が加えられ、のちに「三品」の上に置かれるようになる。「逸品」とされた絵は線によらない表現をした絵で、ぼかし(破墨)や墨をぶちまける(潑墨)などの技法をつかっていた。こういう技法は、訓練された線をもつ画家の技法とはことなり、画家の個性(気)の産物で、「逸品」評価は文人画(儒教的教養人の余技としての絵)の基礎理論になっていく。宋代は「山水画」の時代で、宋初には北に荊浩・関同、南に董源・巨然という画家が現れ、北方は屹立した山を書き、南方はなだらかな山を描いた。董源は北宋末、米芾(べいふつ)によって「平淡天真」と評価され、職業画家が技術をひけらかしているのに対し、あるがままに描いていると評され、文人画の手本にされる。また、北宋は大観山水画のピークで、郭煕において、「平遠」(水平に遠い)「高遠」(見あげる感じ)「深遠」(重なり合っている感じ)という一種の空気遠近法がでてくる(三遠)。風雨なども表現されるようになり、大気そのものの表現もあらわれる。また「胸中の竹」にみられるような「墨竹」、小景画、「戯」の概念などもでてきて多様な展開をみせる。蘇軾の「書鄢陵王主簿所画折枝」という詩は絵画論をのべたものとして重要で、「画を論ずるに形の似るを以てするは、見、児童に隣す」とし、「天工」と「清新」こそ重要だとする。また、絵ができれば詩もできるという「詩画一如」の考えもでている。「写生」という言葉もつかわれている。南宋は院体画(朝廷画家の絵)が中心で、北宋の大観から小品へ中心がうつり、小さな画面に大きな空間を描く画家が現れる。これは明代の浙派に受けつがれ、日本の雪舟もこの流れを学んだ。南宋には「光」の画家、「天才」牧谿(もっけい)があらわれる。レンブラントの絵が照明と陰影を描いたものだとすれば、牧谿の山水画は大気そのものが光っているように描かれている。また、牧谿の人物画や動物の絵(鶴と猿)も、静中に動があり、その場に居合わせたような臨場感で、かつ静かな思索に誘うものである。このほかに崔白による兎の毛の描写など花鳥画にも魅力的な作品が多い。人物画では省略をきかせた「減筆体」もでてくる。風景画と地図のちがいについては、風景画があり得ない視点からかかれていても「人間の目でみた風景」を追究しているのに対し、地図にはその拘束がないそうである。元代には黄公望・倪瓉・呉鎮・王蒙の「元末四大家」があらわれる。とくに倪瓉は重要で、彼は自然の気を描くのではなく、山水画に精神の表現をもとめた。黄公望も洒脱をめざし、筆法がおおければ「画工の流れとなる」とした。彼らはもはや大気や風雨、光の表現などを目指さず、形のみによって内面世界を描いた。明代は院体画・浙派・呉派の三派がでてくる。院体画は色彩豊か、浙派は院体の流れにあるが、筆つかいが粗放、大気の表現にも発展があり、呂文英など風雨の表現に「清新」がある。呉派は文人画であり、枯れた感じで、大気の表現はなく、画中を旅する人物もかかれない。かれらは倪瓉のように内面世界をかいた。沈周や文徴明などの画家が呉派の代表とされる。沈周には贋作者がもってきた絵に自分の署名をいれてやったなどの逸話がある。明末には董其昌があらわれる。かれは職業画家の山水画を「北宗」とし、文人画を「南宗」にくくり、「南北宗派論」をたてた。この論は禅宗の歴史からの発想で、禅では漸悟の北宗より頓悟の南宗が有力になったことから、文人画の優位を言ったものである。日本の「南画」という言葉もここからきている。日本ではもはや南北は関係ないが、「南画」と言ったら文人画である。さらに、董其昌は自由に形を変形される「晩明変形主義」をうちだし、好きなように形を追究していった。また、明末から「倣」(ならう)という概念がでてきて、絵についても古典をまねながら、清新を模索するようになる。清代は西洋絵画の影響などもうけるが、「四王呉惲」を掉尾として文人山水画が終焉していった時代であった。「揚州八怪」など個性的な画家もでるが、蘇軾の絵画評価も批判され、そもそも「しろうと画」であった文人画は「倣」のなかで逼塞していった。しかし、高官である鄒一桂が「白海棠図」という緻密な花卉画を描いており、惲寿平「牡丹図」にみえる没骨(輪郭線なし)のグラデーションなど色彩の発見もなされている。全編、たいへん面白くためになったが、著者も言っているように、いかんせん図が小さい。説明されても何が描いてあるか分からない図版がいくつかあった。口絵はきれいでいいなと思った。山水画がまあ似たような感じで、たしかにスタイルの違いは感じるが、率直にいって感動を覚えることはなかった。牧谿だけはすばらしいと思う。

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