- Amazon.co.jp ・本 (738ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041015964
感想・レビュー・書評
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何時ものように物語が中々進まないし同じようなことを延々と書いてる。
でも退屈にもならずページを捲る手が止まらない。
特に終盤から急に物語が動き出して結末も何とも物悲しい。
全て京極作品の特徴で好きなものには(僕だが)中毒になる。
僕の生涯最高作品は『嗤う伊右衛門』だがそれに比べると些か物足りなさを感じるがそれでも読み応えは抜群。
とても700ページもあるのかと思うほど一気に読めてしまう作品。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
数えるから、足りなくなる――。暗く冷たい井戸の端で、「菊」は何を見たのか。それは、はなかくも美しい、もうひとつの「皿屋敷」。怪談となった江戸の「事件」を独自の解釈で語り直す!
不器用さゆえか奉公先を幾度も追われた末、旗本青山家に雇われた美しい娘、菊。何かが欠けているような焦燥感に追われ続ける青山家当主、播磨。冷たく暗い井戸の縁で、彼らは凄惨な事件に巻き込まれる。以来、菊の亡霊は夜な夜な井戸より涌き出でて、一枚二枚と皿を数える。皿は必ず―欠けている。足りぬから。欠けているから。永遠に満たされぬから。無間地獄にとらわれた菊の哀しき真実を静謐な筆致で語り直す -
京極さんお得意のバッドエンドだなあと思った。
久々に700ページ超えの本を読んだのでもっと時間がかかるかと思ったが数日で読み終わった。
真相は全て井戸の中に落ちてしまったのかな。
でも、それでいいのだろうな。
関わる人間が集まって、崩れ始めてからは早かった。
このシリーズの中では嗤う伊右衛門が一番好きです。 -
実は番町皿屋敷の本筋はよく知らないのだけれど。
さすが京極さん。
この方の再構築の巧さには舌を巻いてしまう。
菊は本当はこんなに純情な娘だったのかも知れないね。
ラストシーンもよかった! -
・ 私が知つてゐる皿屋敷は、落語の「お菊の皿」は論外として、黙阿弥の「新皿屋敷月雨暈」、通称魚屋宗五郎も殿様の手打ちはあるものの、例の皿数へがないといふもので、要するにまともなのは岡本綺堂「播州皿屋敷」だけと言つて良い。これには小説もあるが、私には歌舞伎で、今でもよく上演される綺堂の人気作と してある。この作品には手打ちも皿数へもあり、皿屋敷伝説の粋の詰まつた作品と言へる。ポイントは青山播磨の「潔白な男のまことを疑うた、女の罪は重いと 知れ。」(青空文庫本戯曲「播州皿屋敷」による。)、あるいは「もし偽りの恋であつたら、播磨もそちを殺しはせぬ。いつはりならぬ恋を疑はれ、重代の宝を 打割つてまで試されては、どうでも赦すことは相成らぬ。」(同前)といふ台詞にある。お菊への播磨の愛に対する疑念が生んだ悲劇である。お菊が播磨を信じてゐれば起きることのなかつた悲劇である。これは綺堂の皿屋敷解釈である。怪談ではなく悲恋物語であらう。これに対して京極夏彦「数えずの井戸」(角川文庫)は 例の如き京極の物語である。怪談、あるいは怪談もどきである。京極のいつもの登場人物も出てきたりで、見事な大作に仕上がつてゐる。
・中心はいつもの青山播磨とお菊である。ただし、お菊は腰元ではない。播磨の屋敷にたどり着くには深いわけがあつた。そして、これが京極の皿屋敷の悲劇の原因であつた。柴田十太夫もこれに深く関はつてをり、その一方で、真弓やお仙は家宝の皿に深く関はつてゐた。ところが、ここに遠山主膳なる白鞘組の武士が登場する。播磨の同輩である。ただし、こちらは嫡男ではなく部屋住みである。これらが絡んで一大悲劇を生む。私にはその人物設定がいかにも京極らしいと思へる。他の作品にも出てきてゐさうである。「昔数え」はかう始まる、「幼い頃から、そうだった。(原文改行)播磨はいつも、何かが欠けているような焦燥感に追いかけられている。いつも背中が空寒い。(原文改行)揃っていない。足りない。十全でない。」(15頁)「数えずの娘」はかう始まる、「幼い頃から、そうだった。(原文改行)何をやらせても、遅い。見落としやらやり損じが多い。(原文改行)粗忽というのではない。」 (47頁)これはお菊である。「数えずの刀」の初めのあたりにはかうある、「親も兄も嫌いだ。(原文改行)と、 いうより、好きなものがない。何もかも嫌いだ。大嫌いである。(原文改行)自分のことも、 まあ嫌いだ。」(112~113頁)これは主膳である。こんな登場人物の皿屋敷である。無事ですむはずがない。しかもお菊は「特に数はいけない。(原文改行)数えても数えても、数えられない。」(52~53頁)といふ娘である。皿数へには適任ではないか。こんな登場人物に、いつもの登場人物が京極風に変身させられて絡む。すると綺堂とはまるで違ふ世界が現出する。もちろん所謂皿屋敷伝説とも違ふ世界である。ここに更に又市も絡む。といつても又市、ここではほんの端役だから、出番は少なく仕事もほとんどしない。京極の悲劇を語る締めの役である。さうか、これでは憑き物落としもできぬかと思ふ。あの3人の性格からすれば必然の結末なのである。あの小さな皿屋敷からこんな物語が出てくる。これが想像力といふもの、人物造形の妙である。お菊は腰元ではない。が、播磨に近づいてしまへるのである。そして、そこで起きるのは怪談ではない。悲恋物語でもない。運命の為せる業といふべきであらう。京極の物語にはそんなものがいつもある。これもその一つ、どこかで読んだやうなとも思ふ。しかし、新しい皿屋敷を楽しむことはできた。これを嘉しよう。 -
皿屋敷にて
ちょうど北斎浮世絵展で、皿屋敷の絵を見てきた所だった。
少しユニークな顔の幽霊が印象的だ。
さてそんな誰もが知っている江戸怪談の一つ、「番町皿屋敷」。
お菊という腰元が青山家家宝である揃いの皿を割った咎でお手打ちとなる。
その後、それを恨みに思って遺体を投げ込まれ態度から化けてでて、「一枚、二枚、.....」と皿を数えてはすすり泣いている。
この怪談をもとに、京極夏彦が解釈し、著者なりの真相に迫った物語。
殿様である青山播磨は何かが欠けていると感じている。
そして菊も播磨と通じる何かを持っていた。
菊はあたしは愚図で鈍間で莫迦ですから、と自らを卑下するがそれは清すぎる心を持ったが故。
しかしそれが惨劇につながるのだから、清らかすぎると言うことは帰って汚れを招くのかもしれない。
私自身はこの菊に終始イライラさせられた。
なぜものを言わぬ、なぜ自らを貶める、なぜ!!!
しかしそれは現代的な考えなのかもしれない。
そして自分ができることが他人にできないこともある、あるいは自分ができないから苛立っていたのかもしれない。
その意味では嫉妬の気持ちが自尊心と絡まり合って悲劇へと向かった、吉羅に私自身はよく似ている。
それを強欲といってしまえばそれまでだが、充たされていることに気づけなかったという点ではかわいそうな女性である。
物語は数え、数えずを繰り返しながら進んでいく。
登場人物たちの心のうちが一章一章で丁寧に書かれている。
そのため、半ばで少し疲れてしまうこともあったが、物語りの後半、いよいよ惨劇に向かっていくという時は井戸から湧き出る暗さに飲み込まれていく。
すべてが終わったあとの静寂。
本当は誰もが恨んでなどいなかった。
足りぬものを探し続けただけ。
しかし、そうではない。
満ちてもいないし、欠けてもいない。
物語りの最後で語られる言葉こそ真実だった。
足りぬ足りぬと叫んでいる現代人。
私たちこそ皿屋敷の住人なのかもしれない。