数えずの井戸 (角川文庫)

著者 :
  • KADOKAWA/角川書店
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感想 : 32
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  • Amazon.co.jp ・本 (738ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041015964

感想・レビュー・書評

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  • 何時ものように物語が中々進まないし同じようなことを延々と書いてる。
    でも退屈にもならずページを捲る手が止まらない。
    特に終盤から急に物語が動き出して結末も何とも物悲しい。
    全て京極作品の特徴で好きなものには(僕だが)中毒になる。
    僕の生涯最高作品は『嗤う伊右衛門』だがそれに比べると些か物足りなさを感じるがそれでも読み応えは抜群。
    とても700ページもあるのかと思うほど一気に読めてしまう作品。

  • 数えるから、足りなくなる――。暗く冷たい井戸の端で、「菊」は何を見たのか。それは、はなかくも美しい、もうひとつの「皿屋敷」。怪談となった江戸の「事件」を独自の解釈で語り直す!

    不器用さゆえか奉公先を幾度も追われた末、旗本青山家に雇われた美しい娘、菊。何かが欠けているような焦燥感に追われ続ける青山家当主、播磨。冷たく暗い井戸の縁で、彼らは凄惨な事件に巻き込まれる。以来、菊の亡霊は夜な夜な井戸より涌き出でて、一枚二枚と皿を数える。皿は必ず―欠けている。足りぬから。欠けているから。永遠に満たされぬから。無間地獄にとらわれた菊の哀しき真実を静謐な筆致で語り直す

  • 京極さんお得意のバッドエンドだなあと思った。
    久々に700ページ超えの本を読んだのでもっと時間がかかるかと思ったが数日で読み終わった。


    真相は全て井戸の中に落ちてしまったのかな。
    でも、それでいいのだろうな。
    関わる人間が集まって、崩れ始めてからは早かった。

    このシリーズの中では嗤う伊右衛門が一番好きです。

  • 番町皿屋敷を知らないものは日本人にはいまい。女中の菊が、足りない皿を数える声が、夜な夜な井戸から聞こえるというものだ。
    しかしなぜ、を仔細に知る人はそう多くないのではないだろうか。
    皿が足りないくらいで殺されて、恨みを持つようになったのはなぜ?

    その問いかけに答えるよう、よく知られた結末に向かっての道筋を描くのが本作だ。
    「数える」ことに対する個々人の主張を主として章立ては進む。
    先を考えすぎてしまい、身動きができなくなってしまうから数えたくない器量よしの菊。
    数えても数えても足りない気がする、青山播磨。
    数え切れない米搗きの三平。
    誉を数える十太夫。
    際限ない欲深さの吉羅。
    満ち溢れる遠山主膳。

    そこに家宝の皿という要素が加わった瞬間に、全ての歯車は狂う。

    途中まで、これがどう収斂するのかまったく読めない展開でわくわくしてました。
    ページ数としてはいつものごとく分厚いのだけれど、出勤時間とかの合間合間に読んでも3日くらい。
    むしろあっけなく終わってしまった印象すらあります。

    仕掛けの部分に時間をかけて、畳むところは第三者の視点からの語りで終わらせているせいか、後味はややそっけないような。
    とかく引っ掻き回すのは主膳という人物なのだけれど、彼は播磨が自分と同じでないことが許せない。羨望とも少し違う、播磨の中にある自制心や箍を壊させて、自分と同じところまで落としてやろうという気持ちだけで、引っ掻き回す。
    最後の人死にはさながらシェイクスピアのハムレット、敵味方なく死ぬ。そのときの主膳と播磨はなぜか同じに見えた、と語る徳次郎。
    個人的には、箍の外れた播磨は主膳も慄くようなばけものであってほしかったのだけれど。(家来を斬り捨てていった、というあたりがその描写かもしれないけれど)

    吉羅を誰が斬ったのか、菊を誰が斬ったのかは本編では語られない。
    播磨恋しさに縁談を妨げようと皿を隠した腰元の仙が主膳に斬られて以降、何故菊が斬られ吉羅が斬られたのかの子細は不明である。

    吉羅を斬ったのが播磨であることは恐らく確かだが、なぜそうなるだろうか。
    菊が皿を井戸に投げ入れたとして、吉羅は手打ちの罰を受けるべきだと叫ぶ。主膳が菊を斬り、播磨が吉羅を斬るだろうか。
    播磨が菊を斬っていたら、と思うとぞっとする。

    否、どちらが斬ったかはおそらく問題にはならないのだ。この時点ではすでに播磨と主膳は、同じものだったのだから。

    よく知られた怪談をアレンジする京極氏の作品の中では、「嗤う伊右衛門」が一番の出来だったように思う。
    よく出来た物語ではあるが、感情移入は難しい。

  • 実は番町皿屋敷の本筋はよく知らないのだけれど。

    さすが京極さん。
    この方の再構築の巧さには舌を巻いてしまう。

    菊は本当はこんなに純情な娘だったのかも知れないね。
    ラストシーンもよかった!

  • ・ 私が知つてゐる皿屋敷は、落語の「お菊の皿」は論外として、黙阿弥の「新皿屋敷月雨暈」、通称魚屋宗五郎も殿様の手打ちはあるものの、例の皿数へがないといふもので、要するにまともなのは岡本綺堂「播州皿屋敷」だけと言つて良い。これには小説もあるが、私には歌舞伎で、今でもよく上演される綺堂の人気作と してある。この作品には手打ちも皿数へもあり、皿屋敷伝説の粋の詰まつた作品と言へる。ポイントは青山播磨の「潔白な男のまことを疑うた、女の罪は重いと 知れ。」(青空文庫本戯曲「播州皿屋敷」による。)、あるいは「もし偽りの恋であつたら、播磨もそちを殺しはせぬ。いつはりならぬ恋を疑はれ、重代の宝を 打割つてまで試されては、どうでも赦すことは相成らぬ。」(同前)といふ台詞にある。お菊への播磨の愛に対する疑念が生んだ悲劇である。お菊が播磨を信じてゐれば起きることのなかつた悲劇である。これは綺堂の皿屋敷解釈である。怪談ではなく悲恋物語であらう。これに対して京極夏彦「数えずの井戸」(角川文庫)は 例の如き京極の物語である。怪談、あるいは怪談もどきである。京極のいつもの登場人物も出てきたりで、見事な大作に仕上がつてゐる。
    ・中心はいつもの青山播磨とお菊である。ただし、お菊は腰元ではない。播磨の屋敷にたどり着くには深いわけがあつた。そして、これが京極の皿屋敷の悲劇の原因であつた。柴田十太夫もこれに深く関はつてをり、その一方で、真弓やお仙は家宝の皿に深く関はつてゐた。ところが、ここに遠山主膳なる白鞘組の武士が登場する。播磨の同輩である。ただし、こちらは嫡男ではなく部屋住みである。これらが絡んで一大悲劇を生む。私にはその人物設定がいかにも京極らしいと思へる。他の作品にも出てきてゐさうである。「昔数え」はかう始まる、「幼い頃から、そうだった。(原文改行)播磨はいつも、何かが欠けているような焦燥感に追いかけられている。いつも背中が空寒い。(原文改行)揃っていない。足りない。十全でない。」(15頁)「数えずの娘」はかう始まる、「幼い頃から、そうだった。(原文改行)何をやらせても、遅い。見落としやらやり損じが多い。(原文改行)粗忽というのではない。」 (47頁)これはお菊である。「数えずの刀」の初めのあたりにはかうある、「親も兄も嫌いだ。(原文改行)と、 いうより、好きなものがない。何もかも嫌いだ。大嫌いである。(原文改行)自分のことも、 まあ嫌いだ。」(112~113頁)これは主膳である。こんな登場人物の皿屋敷である。無事ですむはずがない。しかもお菊は「特に数はいけない。(原文改行)数えても数えても、数えられない。」(52~53頁)といふ娘である。皿数へには適任ではないか。こんな登場人物に、いつもの登場人物が京極風に変身させられて絡む。すると綺堂とはまるで違ふ世界が現出する。もちろん所謂皿屋敷伝説とも違ふ世界である。ここに更に又市も絡む。といつても又市、ここではほんの端役だから、出番は少なく仕事もほとんどしない。京極の悲劇を語る締めの役である。さうか、これでは憑き物落としもできぬかと思ふ。あの3人の性格からすれば必然の結末なのである。あの小さな皿屋敷からこんな物語が出てくる。これが想像力といふもの、人物造形の妙である。お菊は腰元ではない。が、播磨に近づいてしまへるのである。そして、そこで起きるのは怪談ではない。悲恋物語でもない。運命の為せる業といふべきであらう。京極の物語にはそんなものがいつもある。これもその一つ、どこかで読んだやうなとも思ふ。しかし、新しい皿屋敷を楽しむことはできた。これを嘉しよう。

  • 皿屋敷にて
    ちょうど北斎浮世絵展で、皿屋敷の絵を見てきた所だった。
    少しユニークな顔の幽霊が印象的だ。
    さてそんな誰もが知っている江戸怪談の一つ、「番町皿屋敷」。
    お菊という腰元が青山家家宝である揃いの皿を割った咎でお手打ちとなる。
    その後、それを恨みに思って遺体を投げ込まれ態度から化けてでて、「一枚、二枚、.....」と皿を数えてはすすり泣いている。
    この怪談をもとに、京極夏彦が解釈し、著者なりの真相に迫った物語。

    殿様である青山播磨は何かが欠けていると感じている。
    そして菊も播磨と通じる何かを持っていた。
    菊はあたしは愚図で鈍間で莫迦ですから、と自らを卑下するがそれは清すぎる心を持ったが故。
    しかしそれが惨劇につながるのだから、清らかすぎると言うことは帰って汚れを招くのかもしれない。
    私自身はこの菊に終始イライラさせられた。
    なぜものを言わぬ、なぜ自らを貶める、なぜ!!!
    しかしそれは現代的な考えなのかもしれない。
    そして自分ができることが他人にできないこともある、あるいは自分ができないから苛立っていたのかもしれない。
    その意味では嫉妬の気持ちが自尊心と絡まり合って悲劇へと向かった、吉羅に私自身はよく似ている。
    それを強欲といってしまえばそれまでだが、充たされていることに気づけなかったという点ではかわいそうな女性である。

    物語は数え、数えずを繰り返しながら進んでいく。
    登場人物たちの心のうちが一章一章で丁寧に書かれている。
    そのため、半ばで少し疲れてしまうこともあったが、物語りの後半、いよいよ惨劇に向かっていくという時は井戸から湧き出る暗さに飲み込まれていく。

    すべてが終わったあとの静寂。
    本当は誰もが恨んでなどいなかった。
    足りぬものを探し続けただけ。
    しかし、そうではない。
    満ちてもいないし、欠けてもいない。
    物語りの最後で語られる言葉こそ真実だった。

    足りぬ足りぬと叫んでいる現代人。
    私たちこそ皿屋敷の住人なのかもしれない。

著者プロフィール

1963年、北海道生まれ。小説家、意匠家。94年、『姑獲鳥の夏』でデビュー。96年『魍魎の匣』で日本推理作家協会賞、97年『嗤う伊右衛門』で泉鏡花文学賞、2003年『覘き小平次』で山本周五郎賞、04年『後巷説百物語』で直木賞、11年『西巷説百物語』で柴田錬三郎賞、22年『遠巷説百物語』で吉川英治文学賞を受賞。著書に『死ねばいいのに』『数えずの井戸』『オジいサン』『ヒトごろし』『書楼弔堂 破暁』『遠野物語Remix』『虚実妖怪百物語 序/破/急』 ほか多数。

「2023年 『遠巷説百物語』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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