犬神博士 (角川文庫)

著者 :
  • KADOKAWA
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  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041366134

感想・レビュー・書評

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  • 久作の遺作にして未完の大作。博士の回想形式で始まるんですが、ほんの幼少期で終わってしまっているので、どうして博士が博士になったのか全く未知のまま。これ全部最後まで読みたかったなあ。解説が国文学者の松田修氏で、犬神博士と八犬伝の関連について述べてあったのが、なかなか興味深かったです。

  • この小説はかの“夜は短し歩けよ乙女”の作者森見登美彦さんのお勧めの文庫本6冊中の一冊です。
    夢野久作という作家の名前は知っていましたが、作品のジャンルを怪奇小説?例えば横溝正史風のおどろおどろしい内容だと誤解していました。
    得てして食わず嫌いの先入観が読書の幅を狭めるものです。
    という訳で森見さんの勧めとあらばと手に取った小説は決して怪奇小説ではなかったのでした。どちらかというと、大衆向きの冒険小説、人間離れしたヒーローが活躍する近代小説というべきものですか。
    そこに森見登美彦の小説の原型も見え隠れします。雰囲気が漂っていますね。
     
    時代は日清戦争の前夜という設定。ところは福岡。主人公は出生その物が怪しい“チイ”と呼ばれる大道芸人の7歳の美少年。しかし普段は女装しおかっぱ頭で猥褻な“アネサン待ち待ち”踊りを踊って客からおひねりを頂戴する役目。両親は彼の本当の親ではなく旅芸人の道すがら盗人を働いたりして、チイをどこからかさらって子どもをだしにして稼いでいるいうならばとんでもない親です。
    チイは見た目はきっと女の子そのものなんだろうと思います・・途中で彼を女の子と思いこんで貰い受けたいというアネサンもいたりしますから・・・。しかしこの小説では犬神博士のあだ名を持つ主人公が自分の子供時代のことを(=チイのお話)吾輩という一人称を使い語っているので、どうも人物が二人いるような感覚を覚えました。
    それにしても、奇想天外と言ってよい小説です。同時に胸がすくような思いや喝采する場面が多く登場します。何といってもどう見ても不幸な生い立ちと境遇という常識に囚われないチイの言動が周りの大人を圧倒します。そして数々の人間離れした能力でイカサマな賭博師をやっつけたり政治家にまで目をかけられたりするのです。
    お話は途中で終わっていますが、さてチイはこれからどこへ行くのでしょう・・

  • 夢Qにしては信じられないくらいポップ。

    おカッパ頭の少女のなりをした踊りの名手、大道芸人の美少年チイは、風俗壊乱踊りを踊ってワイセツ罪でつかまるが、超能力ぶりを発揮して当局者をケムにまく。つづいていかさま賭博を見破ったり、右翼玄洋社の壮士と炭坑労働者とのケンカを押さえるなど八面六臂の大活躍。大衆芸能を抑圧しようとする体制の支配に抵抗する民衆のエネルギーを、北九州を舞台に、緻密で躍動的な文体で描き出す、夢野文学傑作の一つ。 -作品紹介

    ポップやけど、世間や「大人」に対する違和感や憤りが見え隠れするので、「夢Qらしさ」はあると思う。
    未完なのが惜しい。いろいろ想像するのも楽しいが、やっぱり著者がこの後どう書くかが気になる。
    あとどうしても犬神博士=チイとは思えない。。

  • 昭和初期の民衆の活力がビシビシと伝わってくる。
    犬神博士と呼ばれる奇人の幼少期の物語。

    貧乏旅芸人に連れられて、福岡近辺にたどり着いたチイが、その街を揺るがす大事件に巻き込まれ、いつの間にかその中心として事件を治めようと大活躍。

    「ところが妙なもので、人間という動物は犬猫みたように虚無的な、極端に合理的な世界にはいきていられないらしい。そこに人情というやつが加味されてゆくので、物事がどこまでもトンチンカンになってゆくのであった。話がスッカリばかげてきて、筋道の見当がつかなくなって、善悪の道理がウラハラのチャンポンになって、七ツや八ツの子供には考え切れなくなってゆくのであった。」
    育ての親に騙され、裏切られてもなお、彼らを捨てることの出来ないチイ。

    男or女、大人or子供というように、つい物事をカテゴライズして小さく纏まってしまう世の中を嘲笑している。
    大人になるというのは、風習やしきたりにがんじがらめに縛られることなのか?

    つまらない偏見や風潮に囚われることなく、自分の心の声を信じて生きて生きたい!

  • 夢野さんのなかで一番勢いのある作品と勝手に思っている。
    読んでると止まらなくなる文章。
    夢野さんが最後まで書き上げれなかったのが残念。

  • 犬神博士が語る自らの半生。チイと呼ばれていた子ども時代。放浪する両親と共に旅をし女装をし女の子として育てられる。女郎の女将に引き取られそうになったり、賭けの対象とされたりと波乱の旅。自らを賭けた花札のいかさま。福岡で知事と企業の対立の首を突っ込んだチイの活躍。

     2011年5月3日読了

  • 解説にあった通り、探偵小説でも怪奇小説でもない。
    カテゴライズしようのない小説だと思う。

    テーマについては本編読んだだけでは正直…わかりませんでした。難しい!
    ただ、他の夢野作品よりもエグくない上、福岡訛りの文体がすごくサッパリしていて良い。標準語だったらこれはおもしろさ半減。

    物語中盤の「あの児は幻術(ドグラマグラ)使いぞ。逃げれ、逃げれッ。」におおっ!となりました(^o^)

    とっても読みやすいしストーリーもはっきりしてるので入門書としてはいいかも。

    未完なところが、むしろゾクゾクしました。

  • またひと味違った夢野ワールド。しかしチイというガキがどうにもいけ好かなかった…

  • 痛快に尽きる。
    時代背景が好みだった。
    大人は少し馬鹿げていて滑稽だ。
    夢野は外れがない。
    実に面白い。
    ラストが気になるが逆に未完成感がたまらない。

  •  君たちは…キミたちは…「犬神」と聞くと、即座に『犬神家の一族』を思い出すでしょう…!?
    けれども『犬神博士』と『犬神家の一族』とは、ナンの係わりもナイのですよ。さりながら『犬神博士』も『犬神家の一族』も「犬神信仰」をひとつのモティーフとしているということは、容易に首肯せらる事なのですよ……!

     上記の文にさほどの意味はない。何となく夢野久作っぽい文章を書いてみたくなっただけである。

     夢野久作の『犬神博士』は日清戦争前後の北九州を舞台とした小説である。「犬神」という少々おどろおどろしく宗教めいたタイトルに、(一体どんな物語なのだろう?)と興味をそそられたり、それこそ『犬神家の一族』のような探偵小説を期待する方もいらっしゃるかもしれないが、その「犬神」という言葉から得られる土着信仰的な印象は、この作品においては鳴りをひそめている。むしろ、炭鉱をかかえる北九州の地で躍動的に繰り広げられる騒動の数々は、汗臭く、エネルギッシュであり、土着信仰やカルト宗教のようなものが持つ、ヒソヒソとした感じがあまり見受けられないために、肩透かしをくらったような読後感を持つ人もいるのではないかと思われる。しかしそれでも、この物語をよくよく読んでみると、主人公である女姿をした美少年チイの中に、一種の神性が備わっているのであって、今回はそのことを少し書き留めておきたい。

     周囲から「犬神博士」と呼ばれている変わり者のルンペン・大神二瓶(おおがみにへい)が、新聞記者からの取材に応え、幼少期の自分を語り起こしていくという出だしで、この『犬神博士』は始まる。そして彼の幼少期こそが、おかっぱ頭に着古した振袖を着せられ、時に猥雑な踊りをも踊る大衆芸能の舞い手として、苛烈なドサ回りをさせられた美少年チイなのである。

     チイは何歳頃から、そういう生活をしているのか定かではないが、田舎の土地々々を巡っては踊りを披露し日銭を稼ぐという、最下層の暮らしをしている。巡業には、チイのほかにもう二人の人間がいて、チイはこの二人を両親と呼ぶ。だが、この二人の男女はチイの本当の親ではない。チイは実の親の元から、この二人によってかどわかされ、芸を仕込まれて育った少年なのである。仕込まれた踊りには、ごく一般的な内容のものもあるが、やはり民衆に喜ばれるのは、エロティックな文句や振り付けで、それゆえにチイは、男の子でありながら女の子の姿で生活し、女親に白粉(おしろい)や紅を塗りたくられては、観衆の前で尻振り踊りをせねばならないのであった。

     ところがこのチイ少年、極貧の生活の中でまがい物の両親に使役されながら、いじらしく生き抜いている健気(けなげ)な子供かと思いきや、なかなか一筋縄ではいかない曲者の顔を持っているのである。チイは、いかさま花札で女親が男親の小遣いを全部巻き上げてしまうのを苦々しく思い、女親が使ういんちき手段を見破ろうと研究するうち、自分でも花札の名手になったり、普段は卑猥な尻振り踊りを無理やり踊らされているものの、舞踊それ自体の才能は、博多中の芸妓を集めてもかなわないほどの芸術的昇華を見せたりと、どん底の暮らしをしている割に、やけに華々しいのだ。

     そして、チイの踊りが風俗壊乱の恐れありとのことで、彼と両親が福岡警察署に連行された頃から、彼の華々しさはさらに発揮されていく。

     警察に連行されたチイは、博多中券(はかたなかけん)の芸妓・トンボ姐さんにその舞の才能を見出され、警察に拘留されることを免れる。チイが男の子だという事実をまだ知らないトンボ姐さんは、自分の旦那衆である県会議員の大友親分に働きかけ、福岡警察の荒巻巡査部長に話をつけてチイを引き取り、舞妓として育てようとしたのである。チイはその達者な口のききかたや愛らしい表情、生(な)さぬ仲の両親への思いやりなどで、トンボ姐さんのみならず、大友親分や警察の人間まで味方につける。のみならず、めぐり巡って福岡県知事・筑波子爵にまでお目通りが叶い、癇癪持ちで有名な、その県知事までをも魅了するのである。

     警察関係者や大友親分、トンボ姐さんらも集う酒席で、風俗壊乱の踊りがどんなものか見てみたいと所望する県知事に対し、チイは堂々と反抗する。
    「あの踊り見たがるノンは田舎の二本棒ばっかりやがな」
    「サイヤ。巡査さんやたら、知事さんやたら、親分さんやたら、みんなフウゾクカイラン見たがる馬鹿たれや」
    「往来で踊ることならん言うといて、ナイショで自分たちだけ見たがる阿呆タレヤ」

     このチイの指摘に対し、県知事は、つと気付かされるものがあったわけだ。
    「……天の声じゃ……神様の声じゃ。この児は神様のおつかわしめじゃ。皆わかったか」
    「天の声じゃ。天の声じゃ。ええか。皆よく聞けよ。今この児が余に向って言うた言葉は、政治に裏表があってはならぬという神様のおさとしじゃ。余は福岡県下の役人に一人残らずこの児の言葉を記念させたいと思う。人民がしてならぬ不正な事で、役人だけがしてよいという事はただの一つもないことを骨の髄まで知らせておきたいと思う。この一言さえ徹底すれば日本帝国の前途は万々歳じゃ。……ええか……わかったか……」
    「……えーか……この児は余の先生じゃ。同時に万人の模範として仰ぐべき忠臣孝子の典型じゃ。マンロクな両親を持って死ぬほど可愛がられて、腹一つ学問をさせてもらっても、その学問を屁理屈に応用して、自分の得手勝手ばかり働く青年男女が多い中に、このような境遇の子供の中からかような純忠純誠の……」
     福岡県知事閣下は、チイをいたくお気に召した格好である。

     チイはその後、両親がこの酒席に乗じて県知事以下、お歴々の財布を盗んだために、その逃避行に引きずり回され、逃げた先の木賃宿の主人・仙右衛門が、いかさま博打を得手とする極悪の渡世人だったことから、博打に負けた両親によって身売りさせられそうになってしまう。そこを何とか切り抜けて、今度は医家の天沢老人に保護され、そこでも可愛がられ、大事にされて幾日か過ごすことになるのであった。だが、チイが県知事閣下のお気に入りになっていることや、仙右衛門のもとから逃走する際に、両親がその仙右衛門を殺害し、木賃宿に付け火をしたことが原因となって、県知事側と玄洋社側に分かれて対立している炭鉱所有権を巡る政治抗争に巻き込まれていく。

     玄洋社というのは、明治時代に実在した国家主義・大アジア主義の政治結社である。一八八一年に創立され、一九四六年にGHQによって解散させられたこの団体は、端的に言えば右翼と呼べるものであるが、日清・日露戦争の裏面で暗躍したり、大陸への進出を図ったりと、汎アジア・汎世界的な視野を持っており、大音声(だいおんじょう)を発しながら街宣車を連ねて走り回るだけの現代の右翼とは一線を画している。夢野久作(本名:杉山泰道)の父・杉山茂丸は、この玄洋社の総帥・頭山満(とうやまみつる)と懇意であり、伊藤博文や松方正義、山県有朋らとも親交を結んだ政財界の黒幕であった。久作は、父が関わっていたこの玄洋社を小説に登場させているのである。

     時おりしも日清戦争直前、福岡県知事・筑波子爵が属する日本政府は、北九州の炭鉱を一手に所有することで戦争に必要な石炭を確保しようと躍起になっている。玄洋社側は、その日本政府はいくつかの財閥に牛耳られた政府であり、財閥の利権の為に炭鉱を奪われることがあってはならないと考えている。県知事側の官憲と玄洋社側の壮士たちは、炭鉱を巡っての攻防で極度の緊張関係にあったわけだ。チイは県知事に目をかけられていることで、玄洋社側の壮士たちにつけ狙われる立場となり、そしてとうとう、官憲対玄洋社の直接的な衝突が起こってしまう。

     けれども、チイは自分の身の危険などははなから念頭にないものの如く、この対立を仲裁しようと飄々と首を突っ込むのである。彼は玩具の短刀を持って、玄洋社の根城に乗り込もうとし、大喧嘩を始めた大人たちの血臭の中を疾走する。その子供っぽい闇雲な動きの中で、チイは玄洋社長・楢山到(ならやまいたる)と思いがけず遭遇する。(※楢山到は架空の人物)

     結論から言うと、県知事側と玄洋社側の全面戦争は、チイを伴った楢山到が青柳(あおやぎ)という料理屋で県知事と談判したことにより回避されたかに見えた。見えた、というのは、福岡県知事・筑波子爵と玄洋社長・楢山到の談判の最中、青柳に壮士たちがなだれ込んできた為にその家がいつしか出火し、チイはその火事を逃れる為に、またもや走り出すという場景で『犬神博士』の物語は唐突に終わっているからなのだ。終わっているというよりも、実質的には未完と言ったほうがふさわしいかもしれない。したがって、福岡県知事と玄洋社長の談判の後、炭鉱における権限に関して、具体的にどんな取り決めがなされ、福岡県下にどんな風潮が生じたのか、結びや後日談のようなものは一切書かれていないのである。

     けれども、この終わり方――対立する二者の緊張を調停し、その役目が終われば忽然と去っていくチイの姿に神的なものが宿っていると思うのである。このチイの神的な在り方については、今回取り上げた角川文庫版『犬神博士』の解説に、「犬神博士における神なるもの」という題で国文学者・文芸評論家の松田修氏が解かりやすく説明してくださっている。松田氏は、チイの少年であり女の姿も持つという両性具有(アンドロギュヌス)性や、底辺の芸能者として流浪し、艱難辛苦を経験せねばならない貴種流離性を指摘して、チイを危機的状況――「明治二十年代の暗黒と流動、ほとんど生理的な脅え」のただ中に現れたメシアとして規定している。

     この考え方には私も肯(がえ)んずるところで、私はチイの両性具有性、もっといえばチイは自分が男の子であるか女の子であるかも明瞭には理解していなかったという作中の記述から、男でも女でもない太古の神、イザナギノミコトとイザナミノミコトの最初の子であるヒルコをイメージするのである。三歳になっても足が立たず、海に流し捨てられたとされる神―――。ヒルコは海を永遠に放浪する神なのである。ヒルコは蛭子である。そして蛭子をエビスとも呼ぶように、それは海洋の彼方からやってきて豊饒を与える神ともなっていくのだ。ヒルコは広大な海と長大な歴史を流浪するうちに、蛭子=エビス=恵比寿となっていき、果ては客人神(まろうどがみ)・寄神(よりがみ)として人間に恵みを与えるようになる。チイもまた親元から奪われ、陸地を放浪するヒルコのような存在なのだ。チイの働きかけによって、福岡の炭鉱を巡る抗争は一応の決着を見、市井の人々の(いつ、本格的なドンパチが始まるか)という不安は和らぎつつあったのだから。

     それから松田氏は、夢野久作が少年少女の中に神的な存在を描き出す場合、その庇護者として無頼異形の侠者を設定することが多いことにも着目している。これは簡単だ。要するに不思議な魅力を持つ小さな子供と侠者・大人が助け合うという構造は、スクナビコナノミコトとオオクニヌシノミコトが相助け合って国土を運営した構造と同じなのである。この場合、チイがスクナビコナノミコトであり、大友親分や楢山到がオオクニヌシノミコトに相当する。この構造もチイの中の神的なものを鮮明にするのに役立っているといえるだろう。そのほか、一寸法師や桃太郎がその典型となっているが、小さ子(ちいさご)信仰というものが日本には昔からあり、そのこととも関連が深いのかもしれない。一言付け加えておくならば、スクナビコナノミコトもまた、親元から離れて旅をせねばならなかった神である。スクナビコナノミコトはあまりにも小さな神なので、親神の指の間から落っこちて、どこに行ったか分からなくなってしまったというエピソードを持つ。本当の親の庇護から抜け落ちてしまったチイと、イメージが重なるところである。

     松田氏は指摘されていないが、私は最後に、チイがまたトリックスターであるということも述べておきたい。トリックスターというのは、臨機応変の知恵によって危機を脱したり、強大な権力を持った者や身分が上の者を出し抜いたりする存在のことである。吉四六(きっちょむ)さんや彦一(ひこいち)どん、馴染み深いところでは一休さんなども、このトリックスターに属すると考えて良いだろう。トリックスターは階級や身分の高下、腕力の強弱といったものをまるで問題にしない。例えば、権力者と民衆、強者と弱者、善と悪などの間にある断絶や緊張状態を、自由に行き来し、その膠着した状態を刺激しながら両者を取り持とうとするのである。はっきりと分離してしまった二元論の世界を、ゆるやかに渦巻く太極図のような状態に持っていくと言ったらいいだろうか。『犬神博士』におけるチイの役割もそのようなもので、それは作品のハイライト、福岡県知事と玄洋社長の談判の場で二者の間を取り持ち、福岡県知事「対」玄洋社長という対立図を、福岡県知事「と」玄洋社長という並立図に塗り替えているところに、チイの面目躍如たるものがあるのである。

     こう考えてくると『犬神博士』は、やはり『犬「神」博士』でなくてはならなかった。そこには、人間によって固定化された階級や身分、善悪、大人の世界の常識、当時の日本の世相といったものを笑い飛ばし、それに捉われている人々の頭をはたいて回るような、小さくて天真爛漫な客人神(まろうどがみ)がいる。チイが北九州の地にどんなものをもたらしたのかは書かれていない。しかし、彼がもたらしたものにまで言及する必要はないのかもしれない。チイは走る。自分でもそれと知らず、自分の役割を果たし終わってフッとかき消えてしまう神のように、チイは走って、走って、走って、我々読者の前から忽然と消え失せるのである。

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著者プロフィール

1889年福岡県に生まれ。1926年、雑誌『新青年』の懸賞小説に入選。九州を根拠に作品を発表する。「押絵の奇跡」が江戸川乱歩に激賞される。代表作「ドグラ・マグラ」「溢死体」「少女地獄」

「2018年 『あの極限の文学作品を美麗漫画で読む。―谷崎潤一郎『刺青』、夢野久作『溢死体』、太宰治『人間失格』』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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