文学とは何か (角川ソフィア文庫)

著者 :
  • KADOKAWA/角川学芸出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044094683

作品紹介・あらすじ

文学とは何か――この抽象的な問いに、私たちはどのような解を見つけうるのか。後年、戦後民主主義を代表する知識人となる若き加藤周一が、その鋭敏なる西欧的視野を駆使した日本文化論。解説・池澤夏樹。

感想・レビュー・書評

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  • この本には「思い出」も「想い」もあるが、それを今は展開出来ない。今回は特にこの文庫本のために書き下ろされた池澤夏樹の解説について、私の感想を書きたい。

    旧版「文学とは何か」は1950年に角川新書として刊行された。少し読みやすくして1971年に新版を角川選書として出している。今回はおそらく新版はそのままに解説だけを付け足してソフィア文庫の中に組み入れたようだ(2014年7月初版)。何故か加藤の著作集に入っていないこの文学入門が、安く簡単に読めるのはたいへん喜ばしいことだと思う。

    さて、池澤夏樹の解説だ。何故それに注目するのか?朝日の「夕陽妄語」が、加藤周一の死を以って終わったあとに、それを引き継いだのは池澤夏樹の連載だった。池澤夏樹は加藤周一の後継者なのか?加藤周一ファンとしては半分納得し半分訝った。外国生活が長く、古今東西の教養を持ち、社会的発言もまともな彼は後継者に相応しかったかもしれない。しかし、2014年11月から始まった個人編集の日本文学全集に、友人の中村真一郎や父親の福永武彦はあるのに、この巻に相応しく、個人的にも親しいはずの加藤周一が2人の巻に入っていなかったのに、先ずは私は「おや?」と思った。もっとも、それだけならば私は「加藤は評論家だから」と思ったかもしれない。「吉田健一」に一冊を充てた時に解説を書いて、池澤夏樹は「(自分の文学観は)主に評論家の吉田健一と丸谷才一に依っている」とあった。びっくりした。何故、よりによってあの究極のノンポリの、社会意識がゼロの吉田健一が入るのか。私はこの一冊を読み通すことが出来なかったので、その内実は未だわからない。ただ、池澤夏樹はこの解説においてこう書いている。

    (文学とは何か、という問に答える本として)池澤夏樹は他に3冊の本を挙げる。

    石川淳が『文学大概』を書いたのは43歳。
    吉田健一の『文学の楽しみ』は55歳。
    丸谷才一の『文学のレッスン』は85歳の時だが、『文学とは何か』を書いた時に加藤周一は31歳だった。若い分だけ覇気があり、無謀であり、勇猛だった。(197p)

    先ず最初に、先の御方よりもこの文学入門が劣るかのように書いているのである。先ず構成がよくないと手厳しい。文学とは何かを論じるに、「客観的な方法」から入っているのは、間違いだと断じる。

    しかし言うまでもなく文学はまずもって主観の装置だ。それは加藤だってよく判っている。普遍的な文学の定義を求めて客観に走ったが、そこから主観の方へ少しづつ戻る形で議論は進む。(198p)

    そこから、各論には感心する所があると言って、流石に「解説」なので褒めて終わるのであるが、「ホントは褒められた本じゃないんだよ」と言外に書いているようで、私はむっとしている。ちょうどこの頃は、池澤夏樹が文学全集を編んでいて、おそらく吉田健一や丸谷才一を集中して読んでいた最中だと思うので、余計このような書き方になっていたのだと思う。

    もちろん、「文学は主観の装置だ」という池澤夏樹の意見に異論はない。だからと言って、論理がグルリと回っているからと言って、老獪な評論家と並べて貶めるようなこの解説はどうかと思う。ホントに池澤夏樹は加藤から影響を受けていないのか?吉田健一を規範にした池澤夏樹は、吉田健一ならば決して書かなかったような社会批評を、解説の最後に付け足している。

    誠実な批評家は自国の文学に対して厳しくなる。(略)この本が刊行されたとき、日本はまだ敗戦の空気の中にあった。それを終戦と言い換えて済ませるわけにはいかないと加藤は考えた。それが「日本近代文学の不幸」という部分に表れている。そして、戦争が敗北に終わってから69年後の今、この本が書かれてから64年後の今、加藤がこの本に盛ったと同じ批判を日本の社会に向けなければならない。「孤立しないためには、個人主義が個人的にではなく、社会的に徹底させられる必要がありましょう」というのはそういう意味である。(202p)

    池澤夏樹の(あえて言う)自分の父親にさえやっていない「加藤軽視」は、もしかしたら自己への「批評が厳しくなった」現れなのかもしれない。

    2018年5月読了

  • 20世紀最大の評論家、加藤周一氏の名前が受験国語で頻繁に登場したのは、少し前の時代のこと。『雑種文化』で、文学史の教科書にも名前が載る氏が31歳での執筆のこの書は、1971年に出版された。センター試験では、1991年度の追試験の評論の問題として、この本の最終章である「文学の概念についての仮説」から引用され、出題されている。先日、書店で眺めていた書棚にこの本の背表紙を偶然見つけ、入試問題として授業で何度も扱った一節を含む同書の全体に、あらためてふれてみた。そして、少なからず驚かされた。
    それは、氏の文章が、広汎な知識の引用と、鋭い論理展開に特徴づけられながら、実際には、ひどく読み易く平明だということだった。すぐれた評論は、人を寄せ付けないほど難解ではなく、むしろ読み手の脳を心地よく刺激する発見に満ちている。氏の文章がそうであるからこそ、氏は最優先に読むべき評論家とみなされてきたのだろう。
    「特殊と普遍」を論じた以下の一節だけでも、そのことを理解してもらえるはずだ。「ジャン・ジャック・ルソオは、彼自身の人生を告白したので、人生一般を論じたのではありません。しかし、彼の『告白』が、人間の感情に関する普遍的な真理を呈出しているという点で、一束の心理学的事実におとるとは考えられないでしょう。統計だけが普遍的な知識を獲得する唯一の方法ではない。特殊なものを、その特殊性に即して追求しながら、普遍的なものにまで高めること ―― それこそ文学の方法であり、文学に固有の方法です」。(K)

    「紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉」2015年3月号より。

  • 文字通りの内容。文学とは何かについて割と丁寧に書いている。そんなの大きな本ではないが読み通すには時間がかかった。丁寧で明快であるがゆえに読み通し難いという感じ。ひとつひとつがちょうどいい長さなのでふと読み返したりするのにちょうどいい感じ。

  • 日本を知りたい。そのための切り口として文学を選択して昨年末から日本文学者の作品を読み進めてきた。作品数が約15冊に差し掛かったころ、趣向を変え、文学とは何かという切り口で評論を読むことに。

    文学とは、筆者の思想や哲学を、登場人物をして文章で表現する芸術であり、ある一風景や光景を切り取り、それを筆者の思想や哲学まで昇華させる文章による芸術でもある。後者は本書を読んで学べた。両者は、落とし込むのと引き出すという点で正反対のアプローチだが、文章による芸術という点では変わらない。彫刻家、書道家、茶道家、芸術家は思想や哲学を何によって表現するかは違えど、表現するための存在という点では変わらない。恥ずかしながら文学者が一芸術家だとは今更ながら気付いた。

  • 久しぶりの加藤週一、文芸評論。本命の大著「日本文学史序説」を開けるようになるのはいつのことやら。

  • 何も心弾む真夏に好んでこんなタイトルの本を読まなくてもいいようなもんですが、まあ、行きがかり上読むことになったわけです。
    洋の東西を問わず古代から中世、そして現代までの文学書を渉猟して、まあ、加藤先生はホントあきれるくらい博識です。
    その理路も時に複雑に入り組んで難解で、そもそも文学の素養のない私はついていくのがやっとでした(なら、なんで読むねん)。
    しかし、でも、私は次の行に最も心を惹かれました。
    「文学とは、一ぱいのマドレーヌの味にふくまれる無限の意味について語るものです。しかし、またわれわれの生涯を決定する重大な瞬間について、もっとも深い意味でのいかに生くべきかという問題について語るものです。その問題は、われわれの人格の問題であって、科学的知識の問題でも、習慣に支配された日常的経験の問題でもありません。しかし、われわれの人生を支えるものです」
    文学なんて実生活にまるで役に立たない無用の長物、なんて身も蓋もないことを言う方がいます。
    そんなことはありません。
    文学は、たしかに私たちの人生を支えるものです。
    この言葉に出合い、勇気づけられる思いがしました。
    「特殊なものを、その特殊性に即して追求しながら、普遍的なものにまで高めること―それこそ文学の方法であり、文学に固有の方法です」
    「人物の内的独白を通じて社会的歴史的問題を描くのが、小説に固有の方法ではないでしょうか」
    など、文学を志す人にはずしりと響く言葉が随所にあります。
    そうかと思えば、日本と西洋の「庭」の話が出てきて、両者の違いを次のように説明します。
    「西洋では、反自然的であることを目標として、自然にはみられない幾何学的構造(たとえば左右対称や円)を、自然にはけっしてない材料(たとえば磨かれた大理石や花壇)によってつくりますが、ここ(日本=引用者註)では、自然に従うことを目的として、自然の不規則な構造(たとえば簡単な方程式にあらわすことのできない池の形)を、人工の跡をとどめない材料(たとえば苔や、岩、あるいは極端な場合に、自然のままの山)によってつくっています」
    なるほど、納得しますよね。
    それ以外にも、文化と文明の話であるとか、散文と詩の話とか文学史とは何であるかとか、大変に勉強になりました。
    本書の旧版「文学とは何か」(角川新書)が成ったのは、1950年です。
    なんと、加藤先生がまだ、さ、ささ、31歳の時です。
    これを知って40歳の私は戦慄しました。
    池澤夏樹さんの文庫化(2014年7月25日初版発行)に当たっての「解説」も読みどころ満載です。
    最後の部分は読み飛ばすわけにはいきません。
    「この本が刊行された時、日本はまだ敗戦の空気の中にあった。それを終戦と言い換えて済ませるわけにはいかないと加藤は考えた。それが『日本近代文学の不幸』という部分に表れている。そして、戦争が敗北に終わってから六十九年後の今、この本が書かれてから六十四年後の今、加藤がこの本に盛ったと同じ批判を日本の社会に向けねばならない。『孤立しないためには、個人主義が個人的にではなく、社会的に徹底させられる必要がありましょう』というのはそういう意味である」

  • 買ってから気付いたのだが、先日角川ソフィア文庫から刊行された岡潔『春宵十話』『春風夏雨』に続くシリーズで、装丁が可愛い。

    最初は、随筆のような体裁から、ずどーんと文学論が来たので、なかなか重かった。
    しかし、文学とは何か、というあやふやな境界線を明確にしようと試みる、その姿勢にも方法にも脱帽である。これが31歳の時だなんて、絶対、追い付けない。

    一回性の生を語りながら、それが普遍的であること。

    分かっているけれど表現できないものを、分かりやすく説明されたときの感動ってこういうことを言うんだな、としみじみ頷いた。

    京都の庭の美しさのくだり(ちなみにブルーノ•タウトが引用されていたのは個人的に嬉しかった)、それから定家の人生における歌人としての推移のくだり。
    これは、何度も読み直して味わいたいくらいで、すっきりと言葉が収まってゆく。

    解説では、文学という主観的な方法を、客観的な方法を使って論じている、と書かれているが、「何か」を述べる上でこんなに整理された流れはないのではないか。

    比較する対象は時間や場所と忙しないながら、それが煩雑には思えなかった。
    「先人に学ぶ」シリーズ。自身の勉強になった。

  • 祝文庫化!

    KADOKAWA/角川学芸出版のPR
    http://www.kadokawa.co.jp/product/321311000294/

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著者プロフィール

評論家。「9条の会」呼びかけ人。

「2008年 『憲法9条 新鮮感覚』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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