クレヨン王国109番めのドア PART2 (講談社青い鳥文庫 20-27)

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  • Amazon.co.jp ・本 (268ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061473799

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  • 小学生の規子は20代のデパートガールに、
    中学生の則子は母乳の出る30代に、
    東大生の野末は欲張りな金持ち老人に、
    佐久間先生は鰻取りの少年に、
    謎の赤ん坊は石倉の連れの女性か?、
    鬼塚警部補は原人になり毒の吹き矢を作って皆を混乱に、
    などなど、時バトの影響でそれぞれに変化。
    特に原人が問題だったが、銀バトが長々と触れたことで前世の生き物へ次々に姿を変え、サボテンになったところで銀バトが離れた。
    人間は鳥や虫や植物でもあったのだから、今もみんなのことを考えなきゃいけないはずなのに、人間は地球を我が物顔で汚す、と悟り。
    変化に伴い、その変化後の歳に身につけている知識や技術(車の運転)が個人差はあれど、あるのは面白かった。

    「そうね。このまま、明日の朝、デパートへ出勤するかもね。それも、わるくないかもしれない。どんなデパートか、のぞいてみたい。どんな仲間がそこにいるのか。」と言う規子に対し、亡くなった父の面影を感じる小人・リュージンが、
    「なにをねごとをいってるんだ。」
    「きみが、その制服を着てでかけることのできるデパートは、八年後でなければ完成しないんだぜ。きみが、たのしく小人の話をきかしてやろうと想像している職場の仲間たちは、ほとんどがランドセルをしょって小学校へ通っているんだぜ。休みのたびに、きみをドライブにさそったり、プレゼントをくれたり、賛美のことばできみをうっとりさせてくれる花婿候補たちは、まだ、中学校で英語の単語を必死になっておぼえているんだぜ。〜このままでいたら、きみは、おじいちゃんもお母さんまでも失ってしまうかもしれないんだぞ。そして、きみを知っている人も、きみが知っている人も、一人もいない世界に放り出されてしまうんだぞ。鏡を見てうっとりしている場合か。きみは、荒海に投げこまれた金魚じゃないか」p226という台詞がなかなか恐ろしいものだった。

  • おじいちゃんとあの家族が素敵。デデポポかわいかったし。最後にいろんな人が時バトさまのおかげで予想外のものになっていたことがわかるのが楽しかった。数字が入った題名っていいな。

  • 鉱石と花の名前、軽妙な歌がたくさん出てきて、また美しい花時計の話でした。
    p196
    「…略…花時計にしたてられた花々が、底のほうから光りはじめました。まるで地下のマグマがせり上がって、埋もれ火が見えるように、赤やむらさきや緑がぼうっとうき上がって見えました。」

    ああ、この本は時間を進ませたり戻したりする時バトさまと、花時計と、生まれ変わりと、時のイメージを幾度もくり返すんだなあ。
    あ、108、人間は108のネタ
    p53
    「108? ああ、大みそかの除夜の鐘。ゴーン、ゴーン、ゴーンと108つくだろ。お坊さんの数珠の玉数だって108個。」
    「人間のなやみというか感情の種類を108にまとめてあるのさ。それと一年が十二か月だろ。べつに二十四節気というわけ方がある。土用とか大寒とかいうやつ。それよりもっとこまかく七十二にわけるのもある。その合計が108。時間の数だけ人間の思いがあるということだろう。二つが一体で、108は人間世界をあらわしているのさ。」


    p70
    父が死に、祖父が行方不明になり、今も幸せだと思っているけれど、家族が多いほどしあわせだったと言う規子。リュージンが、そうじゃないという。

    「なにをいってるんだ、のりちゃんは。これから、自分で家族をつくればいいさ。いつまでも子どもじゃないんだよ。子どもでいられないし、子どものままでは幸せになんかなれやしないんだよ。若葉のときは若葉のようにのびなくちゃいけないし、花がさくときは花はきれいにさかなきゃいけないし、実になるときはりっぱな実をつくらなきゃならないし、そのときどきのしぜんに合わせるように努力しなくちゃ、幸せになれやしない。冬に朝顔がさいていたって、きれいじゃないだろ。」

    リュージン、お父さんなら、十二歳の娘が二十歳になったときに言ってあげたかった言葉だろう。
    切々と刺さります。

    p74
    「…略…(リュージンがお父さんの生まれ変わりなら、銀バトさまを押しつけて、前世に戻して確かめたいという規子に)ぼくはぼくだよ。いまあるものは、みんなとくべつのものなんだよ、のりちゃん。
     世の中には、いっぱいの命があって、くだらないものや、どうでもいいものがたくさんころがっているように見えるけど、みんなとくべつのものなんだよ。ふつうの人も、平凡なものも、そう見えるだけで、やっぱりとくべつのものなんだよ。だってみんな空気をおしのけて、現にそこにすわってるじゃないか。みんな自分のかわりになるものなんか、ありゃしないよ。そのものだけが、その場所をうめつづけていくんだ。」


    生きものの命の転変と、生きものに対するむごい仕打ちと、生きものへの「愛」ではなく「尊敬」が大事であるということと。これ、修道尼オルガ=スチーワの説法が2003の本だから、この1993に、もう原型が書かれていたんだなあ……
    原型というよりも、福永さんの基本の考え方だから、くり返し書かれるわけか。

    金バトさまにさわられて、一気に八年の年を取って、二十歳になった規子は、好きだった佐久間先生の別の面を見る。
    人間っていうのは、一面だけじゃなく、見る相手見せる相手によって違うんだということを、酷なくらいに語られる。自然を守る熱弁はすばらしいと思うけれど、一方で、こんなにも規子の思いや考え方を踏みにじっていたのか。
    見たい面しか見たがらないことも、気をつけないと。尊敬でも友情でも、冷めると、急に悪い面ばかり見えるよねえ

    p165
    規子は自分でもこうまで冷淡になれるものか、とおどろきながらいいました。
    「人は、そのすがたも、いうことも、くるくる変わるよ。変わるのが、生きるってことじゃないの。野末くんがいい見本よ。佐久間先生だって、また明日はちがった意見をはくようになるし、こっちだって変わっていくわ。もう、どんなことがおこっても、おどろかないから。」


    規子の父親の生まれ変わりじゃないかと思える緑の小人、リュージン。
    p226
    時は 一回きりしかくれない
    くりかえしのようでも
    じつは 一回きり
    たとえば 生きて一回きり
    たとえば 死んで一回きり
    一回は 小さすぎて
    目に見えないほど大きいよ


    幸田文『おとうと』で、碧郎の不良らしい遊びや怠惰に、父が
    「どう過ごしてもおまえの一日だが」
    というようなことを言うのだけれど、これがわかってくるって、年を重ねたってことなんだなあとわかる。
    若いときには、時間はいくらでもあるように思えて、それはまだ平均寿命に対して、生きた時間の割合が少ないから。
    ある程度の年になると、経験と、見てきた世界と、いつまでも遊んでいられないという学習と、残りの見えた時間とが、これを思わせるんだろうなあ。
    そして若い人に伝えようとするけれど、それを理解できない。
    そんな難しいことじゃなくても、時間の浪費的なネットサーフィンとか、わかっていながら、なかなかやめられない!



    シュウカイドウがよく出てくる。
    花海棠と違って、だいぶ地味だった記憶しかない。見なおしておこう。カイドウの眠りいまだ足らず、には花海棠だよねえ。


    p248
    「原人が目の前で、つぎつぎにいろんな生物に変化していくのを見てしまったのですから。原人は、前世をたどれば、けものにも魚にも植物にさえなっていたのでした。
     規子の前世のすがただって、おそらく原人の鬼塚刑事と大差はないでしょう。たぶん、その未来にしても。
     地上のすべての生命は、形を変えながら循環していたのです。かつては、どの人も、鳥でありけものであり野の花であり、また、死後もそうなっていくのではないでしょうか。物質がすがたを変えていくのを見なれているくせに、たましいがすがたを変えていくことに気がつかないのは、うかつでした。
     そう思うと、命あるものが、なぜ、ほかの命をうばって生きていくことに罪を感じないでいられるのか、そんなことが、なぜゆるされるのか、規子には、わかるような気がします。みずからが、かつては、その動物であり、これからあと、その動物になるからなのです。
     規子の胸に、安らかな公平感が、あたたかく脈うってながれこむようでした。
     ――人間のあいだは、ちゃんと人間やってればいいんだわ。お魚になったら、お魚やってればいいんだわ。そうして、現にみんな、そうやってるんだわ。――
     ふしぎにも、自分が人間以外のなににうまれかわるとしても、それがいやなことではありません。ヘビになるぞといわれても平気でいられるような心持ちです。
     ――だって、何回も、同じ人間をくりかえしているより、そのほうがおもしろい。ヘビでも魚でも鳥でも木でもヒトデでも、なんでも、いろんなものを体験したほうがすてきだわ。――死んだら、星になって、ただ天国からじっと見おろしているなんて、そんな生活よりも、あつい地面をかけまわるトカゲのほうがいい。およそ、どんな生物にも、それなりのしあわせも不しあわせもあるんだから。――
    「なんか、納得してしまった。」
    と、規子は小声でいいました。
     ――お父さんをさがしまわって、会いたいと思っていたけど、どうせ、どこかで出会っているんだ。――

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著者プロフィール

名古屋市生まれ。早稲田大学文学部国文科卒業後文筆活動に入る。1956年 オール読み物新人賞受賞。1963年 モービル児童文学賞受賞。1964年 『クレヨン王国の十二か月』で第5回講談社児童文学新人賞受賞。1968年から1988年まで、自然に親しむ心をもった児童を育てる目的で学習塾を開く。
2012年逝去。主な著書に『クレヨン王国』シリーズ47タイトル、『静かに冬の物語』(以上すべて講談社刊)などがある。2012年逝去。

「2016年 『クレヨン王国黒の銀行(新装版) クレヨン王国ベストコレクション』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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