共和党と民主党: 二大政党制のダイナミズム (講談社現代新書 1234)

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  • Amazon.co.jp ・本 (217ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061492349

作品紹介・あらすじ

超大国アメリカを動かす二つの巨大マシーン、「自由と競争」の共和党、「平等と公平」の民主党。世界で最もパワフルな二大政党制の実態に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • アメリカ合衆国の政党政治をその誕生からクリントン時代までを通して描いた歴史書。

    “ 太平洋のこちら側でアメリカを眺めている日本の私たちは、どうしてもアメリカの大統領の外交政策だけに目が行きがちであり、アメリカの国内政策のことはついつい忘れてしまう。しかしアメリカの大統領にとっては、外交問題はあくまでも二次的な問題にすぎない。彼らは、ドロドロとした国内の政治上のかけひきや闘争のなかから生まれてきた政治家なのであり、国内の政策を無視してはその存在があぶなくなる。大統領が政治生命をかけて全力投球するのは、やはり内政問題、つまり国内向けの政策なのである。”(本書23頁より引用)

    本書は単に共和党と民主党という二大政党の概略を知ることに止まらず、第3章を割いて「政党政治」ないし「近代的政党」の発明者をアメリカ合衆国の独立宣言起草者にして第3代大統領、トマス・ジェファソンに見ること(55-66頁)が本書最大の眼目だと私は感じた。著者は本書のプロローグでジェファソンを”正真正銘の「革命家」であった”(本書11頁より引用)と評している。「人は全て生まれながらにして平等であり、創造主(神)によって、生命、自由、幸福追求などの不可侵の権利を与えられていること」という一節が象徴的な(福沢諭吉の『学問のすすめ』の元ネタですね)、ジェファソンの独立宣言には、ジェファソン自身が黒人奴隷制を死ぬまで廃止し得なかったという限界から――ラテンアメリカの独立革命を指導したシモン・ボリーバルのように、奴隷制の廃止を主張しつつも奴隷主階級の抵抗にあって実効性を保てなかったということではなく、ジェファソンは自由主義の名の下に奴隷制を廃止しようという意志を生きている間に示さなかった――現在に至るまで多くの毀誉褒貶があり、私自身もジェファソンは革命家にしては既存の社会秩序に妥協しすぎた人間だという印象を拭えないが、しかしこのような形で、「政党政治」を一人の革命家の産物と見るのは私にとっては刺激的であった。恐らく政治史家は名誉革命(1688年)後のイギリスの議会でのトーリー(保守党)とホイッグ(自由党)の対立に政党政治を見出しそうだという印象があるが(私は不勉強なのであくまでも印象です)、たぶん近代的な、大衆を巻き込んだ政党ということだとアメリカ合衆国だろうなという何となくの印象が私にも存在する。


    とりわけ私が強い印象を受けた第3章をざっくり要約すると、アメリカ合衆国の独立当初はジョージ・ワシントンを筆頭とする紳士/ブルジョワ階級出身の政治家達にとって、衆愚政治に陥ることは脅威であり、そのため彼ら合衆国の支配階級は有徳の紳士が互選によって官職に選ばれる名望家政治を推進していた(51-57頁)。

    “ 一七八八年に発効した合衆国憲法では、たしかに大統領や合衆国議会についての規定が定められている。おなじみの三権分立の発想や、主権在民が世界の憲法としては初めてうたわれたのもこの憲法だが、問題はこのような規定が生まれる前のことである。
     じつはこの憲法が成立するまでの一二年の間に、アメリカでは有力者による一種のなれあいの政治ができあがっていたのである。アメリカという国家が生まれる前に、イギリスとの財政上の問題がこじれたため、対応策を協議するべく一三の植民地を代表して集まったのは、地元では見識と財産に恵まれていた地方の有力者たちであった。その有力者たちによる話し合いでことが運ばれるという、政治の体質ができあがっていたのである。
     地元の有力者が出てきたというのは、日本の地方政治でも同じような傾向があったと思うが、その社会的地位ゆえに政治に参加する必要があると漠然と考えられていたからである。政治能力や大衆の広い支持が彼らにとくに備わっていたわけではない。
     このような地方の名士が、ああだこうだとフィラデルフィアで討議をしているうちに、各地でイギリスに対する反乱の火の手があがってしまった。各地から急使が会議に派遣されて、次々と広がる戦闘状況を伝えた。このようなあとに引けなくなった状況のなかで、代表者会議(大陸会議)はズルズルと独立へと傾いていった。(←52頁53頁→)
     ゆっくりと独立に踏み切った件はともかくとして、いったん戦争が始まると、この代表者会議は最高意思決定機関として機能しなければならなかったし、フランスなどの友邦国との連絡や交渉、戦後の和平協定の締結や戦後処理などを担当しなければならなかった。地方の名士は、そのまま国家を代表することになってしまった。そしてこの集団が、新しい国家の顔として、戦争の英雄であったジョージ・ワシントンを大統領に選んだ。
     各地の見識と財産に恵まれた人物たちが、こぞって推してワシントンは大統領になったのであるから、このときの「大統領」という表現は、今日の大統領が意味するところのものと微妙に異なっていたはずである。そしてこの例でも明白なように、社会的地位のある人物たちが、おたがいに推薦しあって政権の座につく人物を選ぶという方法は、アメリカが始まった時に定着した。
     大統領だけではなく、そのほかの役職者も名士たちの互選で決まるようになったが、これは一種の指名制度であり、指名(nomination)はまことに当然のことであるという雰囲気が建国後まもなくのアメリカにできあがっていった。
     指名される人物は有産階級の出身であったが、まれにはみずから名のり出て指名を受ける者もいた。しかしそれはむしろ卑しいことであり、紳士的な行為ではないと見なされた。何となくみなに推されて役職につくのが望ましいことだとされたのである。日本社会の指(←53頁54頁→)導者や重役などの任命に似ていないこともない。おみこしはかつがれてこそ価値がでる。当然、地位を入手するための選挙運動などは考えられない状況であった。
     紳士たちはときおり集会をもって、次の役職者は誰にするかなどということを語りあったが、このような話し合いの集団のことをコーカス(caucus)と称した。この言葉は、辞書には政党の支部集会とか議員総会などと解説されているが、むしろ非公式の話し合い集団といったほどの意味であろう。今日でも同じ意見の議員たちが集まって話し合いを行う集団のことをコーカスといい、ガン・コントロールに反対のコーカスだとか、黒人の女性の権利を認めさせるためのコーカスなどというものがある。
     アメリカの政治が始まった時代に、地方の名士がコーカスと呼ばれる集団を作り、なれあいのなかで政治を行うということが普通になった時、アメリカの政治の形態は一般の民衆を置き去りにした、一種の貴族政治に近づいていたわけである。しかもこのような傾向は、合衆国憲法ができあがったのちも変わることがなかった。いわゆる談合政治の体質は、「一片の文書」では改まらなかったのである。
     ジョージ・ワシントンもそうだったが、大統領などの重要な役職につくのはバージニア州出身の名士が多かった。二代目の大統領のジョン・アダムズや、紳士たちのなかでも隠然たる勢力をふるっていたアレキサンダー・ハミルトンも、バージニア州の出身だった。そ(←54頁55頁→)れゆえ皮肉をこめて、当時のアメリカの政権のことを「バージニア王朝」などという。”(本書52-55頁より引用)

    思わず長い引用になってしまった。まるで日本の田舎の自民党政治を眺めているかのような気になってくるが、世界のどこでも、人間が集まって行う事というものは似通ってくるということなのかもしれない。

    現に、ジェファソンと政治的に対立していた保護貿易論者で、フェデラリストのリーダーだったアレクサンダー・ハミルトンは次のように手を打っていた。

    “ フェデラリストたちは、もともとアメリカの大衆が、強い政治的発言権を持つようになることを懸念していた。衆愚政治の懸念である。(中略)
     フェデラリストは、それゆえにさまざまな衆愚政治防止の仕組みを、アメリカの制度のなかに組み込んでいた。たとえば、大統領などは直接選挙制度を採用せずに、大統領の選出人を各州で選挙させておいて、その選出人が大統領を選ぶというややこしい制度を採用した。こうしておけば、大統領選出人には地方の名士が選ばれるであろうから、大統領は徒党を組んだ愚民の投票からは隔離されるであろうと考えた。”(本書61頁より引用)

    さて、独立宣言を起草したトマス・ジェファソンはこうした「ヴァージニア王朝」の、紳士階級が人々を支配する建国直後のアメリカ合衆国のあり方に反対していた。結論を言えば、ジェファソンは貴族政治を打破するための組織として、民衆の参加する政党を作り出したのである。

    “ そこで一七九三年から九四年にかけて、ジェファソンは「民主協会(Democratic Societies)」と称する市民団体を作り、政治はいかにあるべきかという論議を始めた。この組織はその名前の示すように、今日の民主党の遠いルーツである(正式に「民主党」となったのは一八四〇年)。
     ジェファソンの民主協会はすぐに大きな評判となった。有産階級だけではなく、ごく普通の人間も民主協会の集会には顔を出すことができたから、そこではさまざまな意見が噴出した。なかでも、アメリカの政権の悪口については意見がたえることがなかった。工業化政策が批判されたり、君主制ににかよった政権のあり方にも多くの批判的意見が出された。またアメリカの独立革命の理念に刺激を受けて成就したフランス革命の物語は、ずいぶんと美化されて語られたりもした。
     このような不満を抱いて集まる人間の集会のことを、ほかに適当な言葉がなかったのであろう、ジェファソンはパーティー(party)と呼んだ。家族や宴会場で開くパーティーと同じ意味合いである。これがポリティカル・パーティー(政党)の始まりである。
     当時は、ヨーロッパや日本ではまだ封建主義体制が強力な時代である。アメリカでは、独立革命を起こして旧宗主国から離反したばかりであったが、紳士や淑女の間ではまだ穏(←56頁57頁→)健な社会の習慣が残っていた。政党政治などという考え方はまったくなかった時代であったから、人間たちが集まって、政府の現状に文句をつけるということ自体が考えられないことであった。”(本書56-57頁より引用)

    こうして生まれた「パーティー」への有産階級からの評価は散々なものだった。初代大統領のワシントンは「配慮に欠けた人たち」(本書57頁より引用)としか見なかったし、衆愚政治を嫌うハミルトンらフェデラリストにしても同様であった。しかし、ジェファソンは自らの創設した共和国家党(民主協会の後身)率いて、1800年の大統領選挙に当選し、第三代アメリカ合衆国大統領に就任したのである(57-63頁)。

    当時の常識では、これは投票箱を通じた革命であった。

    “ ジェファソンは、不満の声をとりまとめることによって変革を実行したが、それは破壊行為をともなわないクーデターであった。平和革命が実現したのである。すなわち政党組(←65頁66頁→)織をつくるということは、非暴力的な政権奪回の方法だったのである。”(本書65-66頁より引用)


    私はラテンアメリカ史を研究する中で、多く国家が共和制国家として独立しながら議会制民主主義(マルクス主義的に言えばブルジョワ民主主義)が定着せず、現在に至るまでクーデターという実力行使を行い得る軍部が大きな実力を有しているのに、アメリカ合衆国では建国以来一度も軍事クーデターが起きずに議会制民主主義が定着しているのは何故なのか、気になってならなかったのだが、ジェファソンによる「政党政治の発明」と、「投票箱を通じた革命」の制度化(もちろんこの二つを実現するためには合衆国のWASP層のようなナショナリズムで結ばれた「国民・民族・ネイション」が必要になるのだが)が大きな鍵だったのではないかと本書第3章を読んで思えた次第である。

    ただし、このようにして民衆から選ばれた指導者が、必ずしも道徳的に優れた行いを為すわけではない。本書で著者はこの問題を楽観的に捉えている。

    “……大衆が参加する政治には、時として「クレージー」な政治家も出現するが、それでも一握りの政治のプロや貴族階級の意思よりも、民衆の統合的な意思のなかに「神の声」を読み取ろうとする。そしてそのやり方がアメリカにその後定着していったということは、アメリカが真に開放的なデモクラシーの体制を保持し得たということである。”(本書63頁より引用)

    だが、我々は全ての人間の平等を主張したジェファソンが、結局は黒人奴隷制に手を付けなかったことを知っている。また、アメリカ合衆国で最初の庶民出身の大統領であるアンドリュー・ジャクソンが、セミノール族に対するインディアン戦争でその名声を高め、合衆国の特権階級に対抗するという自らの政治スタイルを取る上で白人民衆の物質的利益(土地)のためにチェロキー族に対して強制移住を実施したことを知っている。「クレージー」な政治家、ということでは現在合衆国大統領である共和党のドナルド・トランプのような大統領だって出て来てしまうのだ(尤も、全く政治経験のないトランプが大統領になれるということは、やはりアメリカ合衆国が政権交代のある民主主義国であることの証左である。中国やキューバのような共産党一党制の国ならまずトランプは大統領になれない。ドナルド・トランプについて個人的な意見を述べると、2016年の時点で全く政治経験がないために自らの手を汚しておらず、沖縄からの米軍基地撤退を示唆していたトランプの方が、国務長官の立場でリビア爆撃を実施していたアメリカ帝国主義者そのものであるヒラリー・クリントンよりも好印象だった。トランプが大統領に就任した後、露骨にイスラエルよりの立場を取るのを見て、所詮は共和党の大統領なのだと幻滅したが。)。

    21世紀前半の世界は、中国型の資本主義での成功を目指す共産党一党制か、アメリカ合衆国型の二大政党制かのどちらが好ましいかを、当面は選択しなければならないだろう(残念ながらソ連はもう存在しない)。選挙で民主的に選ばれた大統領が必ずしも道徳的に優れた行いをしないということを念頭に置けば、中国型の一党制を「全体主義」と呼んで非難し続けるというイデオロギー的なあり方からは、多少は距離を取れるのではないか。本書の感想としてこの結論が相応しいかはさておき、私はそう考えている。

    【メモ】

    ・「シカゴという都市は、徹底的に民主党が支配する都市として知られている」(本書108頁より引用)


    “ 共産主義の危険を指摘することは、民主党は築きあげたニューディール体制の危険性を示唆することだったのである。それは「戦時体制の解除」を主張した発想と同じ脈絡のなかにあった。五〇年代のアメリカを吹き荒れた反共主義という強い勢力をもった嵐は、共和党がかもしだした反民主党キャンペーンであった。
    アメリカで共産主義が問題になりだしたとき、まず問題視され攻撃の的となったのは、国内の官僚や政治家だったことからもこのことがうかがわれる。共産主義の問題はすぐれて国内的な、内向きの問題として始まったのである。そうでなければ、アメリカに伝統的な孤立主義と反共主義が、類縁の関係にあったことと説明がつかない。孤立主義は、世界のゴタゴタにアメリカは一切かかわるべきではないとする、アメリカの中産階級を中心とする根強い考え方だからである。
     アメリカが自由主義世界の盟主として、世界的規模での共産主義の征伐に向かうなどという図式は、あまりにもアメリカの政治を単純化した考えである。少なくともアメリカの内(←161頁162頁→)政の動きから見れば、世界の問題というのは二義的で、外交技術上のことにすぎない。
     合衆国政府のなかに共産主義者たちが潜んでいるという噂は、すでにトルーマン政権の時代にささやかれ始めた。考えてみれば、ニューディールが一五年近くも継続していたのであるから、政府の役職者たちは多かれ少なかれ国家が経済の管理を行うという集産主義の信奉者であった。彼らをさして共産主義者だということは、比較的たやすいことであったろう。”(本書161-162頁より引用)

    ・1950年代のマッカーシズム期には、ラルフ・エマーソンやヘンリー・ソローといったアメリカ文学の古典が「反アメリカ的」だとされる風潮があった(165頁)。

    ・ニューイングランド地方のマサチューセッツ州は民主党が強かった関係で、「マサチューセッツ人民共和国」なるあだ名があった模様(183頁)。

    “ アメリカが大きくレーガンに傾いたというのは、たとえばマサチューセッツ州でも顕著であった。この州は伝統的に民主党の強いところで、「マサチューセッツ人民共和国」などといわれるが、一九八〇年の選挙では投票者の過半数が共和党を支持していた。その結果、マサチューセッツの大統領の選出人は久しぶりに共和党員となった。”(本書183頁より引用)

    ・本書刊行時点ではなお、マッカーシズム期に制定された共産党員が国家公務員になれないい規定が生き残っていた模様(207-208頁)。

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