釈尊のさとり (講談社学術文庫)

著者 :
  • 講談社
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感想 : 13
  • Amazon.co.jp ・本 (90ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061583443

作品紹介・あらすじ

仏教といえは、釈尊を知らない人はいない。だが、本当の釈尊の姿は、どれだけ知られているのだろうか。本書に於て著者は、仏教一すじの長年に亙る思索と研究の中から、釈尊の生涯とその思想においてその眼目をなすといわれる菩提樹下の大覚成就、すなわち、「さとり」こそ、まさしく直観であり、そのさとりは受動的なものであったという結論を導き出した。釈尊の生涯を見つめながら、その真実の姿を明らかにした仏教入門の白眉の書。

感想・レビュー・書評

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  • 自説経の解説は、非常にわかりやすい。
    初期仏典の知らない釈尊の話があった。

  • 「悟り」と言うと、「お前みたいな凡人が無理だろう」と言われるし、
    そもそも「私なんかがとてもムリ」と諦めるのが普通の反応です。

    でも、「悟り」は日々安らかに暮らす方法だったはずです。
    でなければ、自分が悟った後に、ブッダが説法しようと思うはずが有りません。
    せっかくみんなを幸福にしようと思ったブッダの思いが全く無視されている、
    とても残念な状況です。

    この本を読むと、「こんな難しい事は悟れない」と言い訳するためなのか、
    ブッダが悟った事に対する解釈だけが、死後ドンドン複雑になっていったのが分かります。

    いったい、ブッダが何を悟ったのか、僕たちも同じように「平穏に暮す方法は手に入れる事ができるのか」,興味は尽きません。

  • >生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり…。貪りの心があると苦が生ずる。渇愛滅すれば苦もまた滅する。渇愛を滅する方法は、正しい見方、身・口・意のいとなみを正しくすること、正しい生き方、正しい修行のいとなみ…。生老病死という、避けられないものがあることを認め、それを受け入れて苦と共に生きる。欲することは得られないことによって、得ることは失うことによって苦に転ずることを認め、貪らないように生きる。自分にこだわると自分の苦が大きくなってしまう。自分へのこだわりを捨てると自分の苦しみが相対的に小さくなる。

     釈尊が到達された覚りの境地に、考え方だけを手掛かりに挑むのは無理があると思いますが、考え方を知らなければ、直感も得られない?お釈迦さまの人物像は、美しく描かれているのでしょうが、本当に知れば知るほど魅力的な方ですよね。相手に寄り添うということは、自信があるから出来ること…。

  • ブッダの菩提樹でのさとりから初転法輪の場面に焦点を絞り、その時ブッダの心に起こっていたことを丁寧に描き出す。その描写の根拠となる仏典もきちんと示しており説得力がある。

  • なぜ語れない、なぜ説明できないかと申しますと、直観というものは、もともとそれは受動的のものであるからであります。

    自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり

    カントはまず、悟性が自発的であるのに対し、感性は受動的であることを語っております。悟性というのは思惟能力であって、感性はその悟性に思惟の素材を提供するものであります。その素材というのは、感性がみずからの形式にしたがって対象から受け取るものであります。したがって、「感性は成立しても悟性はなお働かない」

    この場合、感性というのは何であるかというと、それは直観のことであります。したがって、それは受動的に対象から素材を受け取る。それに対して悟性というのは思惟能力として、感性によって与えられた素材を、自己の形式<範疇>にしたがっ整理するのであります。だからして、直観は成立しても、なお、それを素材としての論理的な思惟は働かない、つまり、その理屈はまだわからないということが成立する

    まず直観が訪れる、ついでそれを整理いて、その論理的な構造が公式にまで組み立てられるのであります。さきにカントの用語をもって申すなれば
    まず感性によって直観が与えられ、それがやがて、悟性によって思惟がはらたき、それが公式的なものにまで確立せられるのであります

    だれか対手のある説法、それをありに「説他法」とでも申しますならば、これはいうなれば「自説経」なのであります。なんじわが胸に高まる感動がありまして、それがおのずから吹きに出てくる。

    苦の生起の因をなすさまざまの条件絶することによって、苦もまた滅することができる

    「依法不依人」、法によりて、人によらず。

    ただ1人として、その法をその胸中にいだいていたのでは、やがて彼が死ぬるとともに、その法もまた消えてゆくほかない。

    釈迦の最初から追求したものは、あくまでも、自己の課題の解決でありました。苦の問題の追求なのでありました。しかるに、ついに<さとり>をひらくことを得て、それを人々に説いた。それがおのずから衆生済度につながったのであります。

    すばらしい思想を内に抱いているものはその顔貌もまた清澄にして光輝に満ちているというのが、インド古来から常識とするところ

  • 悟るとは、直観すること。
    苦しみが生じる仕組みと、苦しみを滅するための方法を。

    菩提樹の下で悟りを開き、釈尊は、人に依らず、法に依ることを決めた。
    たった独りの悟りの道で、泥に浮かんだ、沢山の蓮の花を眺めながら。

    正しさとは何か、という問いに答えることは難しい。
    しかし、あるがまま、偏らず、平等に振る舞うことは、正しさにとっての重要な条件である。

    法は、たった独りの主観を離れ、説法を通じ、ようやく世界に確立され始めた。
    しかしその後の世界において、釈尊の直観したものが、遍く広まり、法はもはや万人にもたらされたと言えるだろうか。
    あるいは、その試みの尊さと難しさのために、この世に釈尊の教えが横たわっているのだろうか。

    「かの『正法眼蔵』の第三巻、「現成公案」のなかにおいて、道元禅師は、「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」と説いておられます。ただ「あっ、そうか」と触発せられるのが直観なのであります。それを、ああであろうか、こうであろうかと、自己の思考をもって模索するは迷いであります」(P.4)

  • さとりの内容とそのいきさつが、コンパクトにまとまっている。個人差はあるだろうけど一時間くらいで読める。原始仏教のことを知りたい人がいたら、ぜひオススメしたい。

  • これで仏教の要諦を理解した、と言ったなら処刑されるでしょう。でもその体系を尋ねる時、余計なことも多いのでは無いか。

    物凄い時間の思索を、かくも完結に語れる人になりたいです。仏教から離れて。

    仏陀の心情説明に、ニュートン、カント、ハイデッカー、ソクラテスが登場したよ。

    メモ---
    12縁起の順観と逆観
    無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死


    苦苦性、行苦性、壊苦性
    正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定

    如〈離妄想〉、中道〈離辺〉、正等〈不偏〉

    五蘊(色、受、想、行、識)全てが悪魔である。

    貪、渇愛

  • 20111101

  • カント、ニュートン、ハイデガーの名前が出てくるあたりが面白い。それに日本的霊性の鈴木大拙の名前も出てくるというあたりに一番ひかれたのかもしれない。著者は仏教の要点は、「直観」であり「受容」でありそこからの「思惟」であるとしているが、これはカントが言うところの「感性」と「悟性」に該当すると言う。感性によって直観し、直観を受容した後、悟性によって思惟をするという一連の流れである。これは、カント自身も、「感性は成立しても、悟性はなお働かない」と述べているらしく、これがすなわち著者の仏教解釈に近しいとしている。その他、ニュートンの万有引力の法則発見時のリンゴの逸話を直観とし、そこからの思惟による整理があってこそ法則が発見されたとするところを釈尊における法の発見となぞらえたり、釈尊が法を発見してもそれを自分しか理解していないという点で不安であったことをして、「実存」するだけでなく「共にあらねばならない」とするハイデガーの思想になぞらえてもいる。鈴木大拙の名前はさとりを得たときの釈尊の頭の中をクエスチョンマークでいっぱいだと述べた発言禄から、思惟を経なければ法は完成しないのだという意味合いを引き出している。そして触れられていないが、内向的直観は集合的無意識からもたらされるとするユングを含めれば著者の考えはより体系付けられ強靭となるだろう。

    本著は著者の講演の筆録であり、それゆえにかなりわかりやすく簡潔にまとめられている。反面で、仏教には独特な読み方の漢字が頻出するので、文章で読むほうが内容理解は深まるだろうと思われ、本著の意義が見出される。釈尊の有名な話はひたすらの苦行に対して、それは違う、と異を唱えたことである。そのせいで当初は非難されたものの、しかし極端な禁欲生活を営むのではなくて、「中道」こそが大事だと釈尊は解いている。中道というのは、ある種のバランスが大事で、快楽主義でも禁欲主義でもいけないとする考え方である。だが、この中道こそが曲者なのである。例えば、我々は日々生活するにあたって、快楽ばかりに耽らず、禁欲ばかりに耽らずほどほどに生きているように思われるが、しかしこれは中道か?と言えばそうではないのだ。だからこそ難しいのだ。我々の無意識的な日常埋没とはそういう意味で異なるのだろうと思われる。ちなみに仏教における「正しい」という概念を満たすには、「中道」であり「平等」であり「あるがまま」であることが求められ、これは老荘思想の一般的なイメージと近しいと言えるだろう。あるいは、老荘思想の影響を受けていると思しき孔子も該当するに違いない。結局のところ仏教から真理を得ることは困難だと思われる、なぜなら真理に陥った瞬間に思考停止してしまうからである。だが、釈尊はおそらく思考停止していない、そういう意味で彼は悟りを得ていない、というのが実情だろうと思われる。著者は釈尊をあれこれと擁護しているものの、悟りを得たはずなのに、不安になったり、さとりを得たはずなのに、その教えを広めるべきかどうかあれこれ悩んだ結果広めたり、といったことは悟りが万能ではなくてむしろ揺らぐものであることを示しているような気がするのだ。しかし、著者は自分という存在への理解が相当に深く、自分という存在をかなり冷静に見つめているということがこの筆録からはそこかしこで感じられるのだ。宗教であれ哲学であれ思想であれ、それらは真理なのではなくてそれらを基にして世界理解(外的世界理解)や自分理解(内的世界理解)を深めるという意味合いにおいて有用となりうるのだろうと感じる。

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