- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061596276
作品紹介・あらすじ
「粋」とは何か?横縞より縦縞が、赤・黄色より茶・鼠色が「いき」なのはなぜか?著者はヨーロッパの哲学を下敷きに、歌舞伎、清元、浮世絵、文様等々の芸術各ジャンルを横断し、この美意識に潜む「異性への媚態」「江戸文化の意気地」「諦めと恬淡」を解読していく。生きた現実を哲学的に解明した名著に、豊富な注・解説を施して読む全注釈版。
感想・レビュー・書評
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京都大学教授で哲学者の九鬼周造による1930年刊行の論考、解説・注釈付きです。
日本人が何かに「いき」を感じる感覚、「いき」を自ら表現するふるまい、それをよしとする価値感、そんな「いき」がどういったメカニズムで成り立っているかを言葉にできる範囲のぶんだけ言い表しています。著者は「潜勢性」と表現していますが、現在で言えば暗黙知のようなことであり、「いき」を構成するそのものあるいはその現象は存在していても、言葉にならないものについては、諦めています。というか、「いき」には、概念的分析と意味体験とがあり、後者について言葉で表現を尽くすことはできないものだし、さらに通約不可能性(それぞれがそれぞれの論理を持っていて、お互いに通じはしないというようなこと)があるとしています(p150あたり)。こういったところは、序文では覇気に充ちていた著者のブレだといえばブレなのかもしれませんが、取り組んでみたら思いのほか難しい対象だったということがあったのかもしれません。
「いき」は媚態、意気地、諦めという三要素があるとしています。媚態については、「いき」の基盤をなすもので、これは欧米にもあるとしている。意気地と諦めという要素が入って、そこに日本文化としての「いき」が生まれる。武士道の理想主義と、仏教の非現実性があいまって作り上げた価値感覚だ、と著者は述べています。
さて、ちょっと横道に逸れます。「いき」の要素の三つ目としての「諦め」についてですが、運命に執着しないことからくる無関心としてのものと説明されています。なるほどそうか、もしかすると、日本人の無関心気質ってこういうところにあるのかもしれない、と思いました。
無関心のよくないところは、「わたしは誰にも関心を持たれていない」という強い孤独感を感じたときに、脳(心理面)が自動的に被害妄想を作り出すらしいことです(そういった論文があると、スティーブン・グロス『人生に聴診器をあてる』にある)。そういうわけで、無関心は人が病んでいく契機になるということだともいえるのではないか。だから、この見地から言えば、人は適度に承認欲求を満たされる必要があるんです。
承認欲求については、強すぎる人がいるから言われるのかもしれないですが、「承認欲求なんか持つな」と言われがちな風潮だったりしませんか。思いついたんですが、そう否定的に対処してしまうのは、無関心をよしとする「いき」の精神・気質にそわないものだからというのもあるんじゃないでしょうか。
「いき」は、
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命をも惜しまない町火消、寒中でも白足袋はだしの鳶の者、法被一枚の「男伊達」をとうとんだ(p41-42)
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ものだとあります。つまり、「いき」とは死のようなものを隣り合わせにしても意気地のある態度がひとつの要素としてある。だから「いき」のなかに、意気地とともにある諦めについても、無関心が精神面において「死」を隣り合わせにするものだとしても、それをよしとしてしまう精神性として成り立っているのではないか、と類推できると思ったのでした。
というか、承認欲求なんて「いき」じゃないからやめろ、というのが根本・本音なのでは? そんなわけで、日本人はつめたい、だとか言われて、実際そういう面がありもするけれど、その精神性を下支えしているのは、「いき」の精神性なんじゃないだろうか、という推測話でした。「いき」の精神性についてもまあわかりますし、実際そうやって生きているところがありますけれど、かたや無関心すぎるのには僕は反対だし「いき」を生粋にやりとげようとも思わない、っていういわゆるダブスタ的な考え方で揺れているほうが、マシな部分ってあったりしないでしょうか。
閑話休題。
九鬼周造は東京生まれの人だから、江戸文化の「いき」を日本の文化として位置付けたのだと思う。たとえば女性の化粧について、江戸では薄化粧を「いき」としたのに比して、上方では濃い化粧をよしとしていたとあります。そういったところに、本当ならば優劣はないのでしょうが、上方のそれを著者が評価するところはなかった。江戸の薄化粧は「いき」であり、「いき」は世界に負けない日本文化であるとしている。
本書では、「いき」を世界に類のない日本独自の文化(それも質の高い文化)と位置付け、日本人に自負心すら振りまくような態度もちらっとでてくる。「いき」は、日本独自のもので、他の追随をゆるさず、孤高のものだ、つまり、日本文化の優れていて尖ったところである。ゆえに、日本は世界の中でも劣ったものではないというプライドすら感じられるのです。他の国にない感覚を持っていて、さらにそれは優れていて文化的な高みにあるというか、日本人の感性の質の高さをあらわし、それは世界に対して「どうだ!」と胸をそらしてみせられるようなものだ、という自負心が感じられもしました。1930年くらいという時代なのか、ナショナリズムが感じられるところがごく一部にあるのです。きっとコンプレックスの作用もあるかな、と思いました。
というところですが、それにしても、注釈・解説なしには読めなかったです(解説があっても難読なのだけど)。巻末解説でわかったのですが、著者が自ら駆使する論理には、本記事のはじめに書いたように、ブレてしまっているようなところがあるし、それ以前に語句が難しく、素で読んだら無理といった感じです。もうね、「注釈した方 Good Job!!」なのでした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日本文化に根ざした「いき」を分析することを通じて
日本人の意識の有り様を明らかにするとともに、
言語化されていない体験的な概念を分析する
方法論に優れた作品。
超さっぱり言うと、
いき=媚態+意気地+諦めで、
異性にこがれつつも、意気地と諦めによって
緊張感を保った二元性にある。
いきなしぐさや芸術にも
二元性と節度という要素が含まれている。
意気地は武士道、
諦めは仏教的な世界観が根底にあって、
日本独自の民族性、歴史的背景を
色濃く反映しているのだそう。
「いき」の有り様もさることながら、
現実をありのままに把握することを目指した
“生きた哲学”と、
それを可能にする緻密な分析の方法がすごい。
感覚的に体験されているものを
概念的自覚に導くことは、
完全には不可能ということを認めつつも、
そこを目指して言語化しようとすることこそが
学問の意義だというのも、
哲学者や文学者のすがるよすがになるだろう。
正直超難しかったけど、ノート13ページ取りつつ
頑張って理解しようとした試みは、
個人的にはグッジョブだったと思うし、
全部は理解できなかったかもだけど、
得るものも大きかったぞ。
よく頑張りました! -
感覚的に分かっている「いき」を構造化すると、なるほどー、っとなる。
鮮やかな色よりも、渋茶系。横縞よりも縦縞。曲線よりも直線。
いきの構造を、六面体でした解説部分は特に面白かった。 -
父は司馬遼太郎などをよく読む普通のサラリーマンだったが、本棚に本書があったのを覚えている。「息」とか「活き」のことかと思ったと思う。
自分の本棚で、積読で仕舞ってあった本。
思ったより読みづらくはなかったが、よく判らないままの中途半端な読書になった。
判らないまま読み飛ばす処に注釈があり、例えば、実在論と唯名論について簡単に説明があったりで有難い。それでも、理解が追い付かないので、事前に勉強するか、もっと腰を落ち着けて読み込まないとダメなんだろうな。
「いき」を媚態、意気地、諦めの三つの表徴から捉えている。ぱっと見矛盾している表徴と思うが、まあまあ納得できたかな。
しかしながら、哲学概念もさりながら、引用される歌舞伎、都都逸に疎いので、風景が見えないのだ。「たまたま逢ふに切れよとは、仏心にあり乍ら、お前は鬼か、清心様」という十六夜清心が判らない。
「いき」の外延的構造において、他の類似意味と区別して図解している箇所は興味深かったが、「いき」の芸術表現で縦縞が「いき」で、その他の模様は「いき」でないとされているのは、まあまあ説得されるが、納得には至らない。
結論において、この論考が十分な成果に至らなっかった由があり、では何故「いき」を対象にしたのか、また何故、本書が名著とされたのかと、疑問が残って終わった。 -
佐藤優氏の作品で取り上げられていたのを見て、読んでみました。
佐藤氏のご意見(これから来るべき二極化の世界でいわゆる「負け組」が参照すべき生活態度として、本書における「いき」をあげられている)には、依然として全く賛成はできません。
しかし、この本の「いき」についての分析はなかなか面白かったです。
☆「いき」=「諦め」+「意気地」+「媚態」
ということです。
そしてこの「諦め」は、花柳界では男女の関係が糸よりも細いということを実感していくうちに、次第に蓄積されていく、ほぼ仏教的な悟りにも近い「諦め」だということです。ですから、ある程度年齢を重ねないと、「粋」というものは実現不可能ということです。
「意気地」というのも、やっぱりそういう諦めからきたもので、一種のプライドなのだと思います。その「諦め」と、今まで経験してきた多数の惚れた腫れた関係の死屍累々たる山。そのフィルターを通り越した上に、奇跡的に愛情関係ができた場合、「心中立て」というものが成立する、というお話でした。
「媚」は、そういう世界の方々にはプロフェッショナルな「しつけ」的なものなのだと思います。九鬼氏がここで考察している以外にも化粧からしぐさまで、いろんなテクニックがあるのだということは仄聞しております。が、私はそういう世界に縁が薄いのでよくわかりませんし、実践しろと言われてもたぶんできません。
私のような野暮天がぐだぐだ説明するよりも、鏑木清方の名作『築地明石町』をご覧になるほうが手っ取りばやいでしょう(笑)。
https://www.momat.go.jp/ge/wp-content/uploads/sites/2/2015/01/f54cb875f2b85fa240d960111ded3e90.pdf
青磁色の袷を素肌に着て、裸足に下駄。髪型は夜会巻きということです。 -
装丁の子持ち縞が既に粋。本書は「いき」という日本人の美意識を哲学的に探究している。著者によると「いき」とは「諦め」「意気地」「媚態」が主な構成要素であるとしフランス語の「シック」や「エスプリ」などとも共通点が見られるらしい。個人的にはヨーロッパの階級社会と徳川時代の江戸っ子の美意識が似ているような気がしていたので、本書を読み納得する点も多かった。自由に制限がある中で生まれる思想に共通点が見られるというのも道理だ。究極の上っ面の美学、美意識「いき」。ピチカートファイブなど小西康陽の音楽にも似たものを感じる。
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粋である事の重要性もニュアンスも、関東、関西で異なる気がしており、日本人特有の感覚、思想を粋の中に探ろうとした当時の目の付け所はとても面白いと思うが、日常において粋なことが見当たらない現代においてこの本を読む意義は見出せなかった。
粋を感じたければ歌舞伎を見た方が良い。
とは言えこの本で得られた事もある。物事を、探求するには順序が大切だとする細かいこだわりや、哲学を文化、文芸と繋げる試みといった哲学者の情熱に触れることが出来た。
そして、注釈が懇切丁寧で、読み応えがある。こんなに楽しく注釈を読んだのは、初めてだ。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/19000 -
世界にはいろいろな言語があるが、ある言語で使われながら、他の言語にそのまま置き換えることが難しい言葉もある。「いき」という言葉もそんな言葉の一つである。
詳細は置いておいて、本の中で著者は「いき」を「垢抜けして、張りのある、色っぽさ」と定義している。ちなみに、「いき」の反対語は「野暮」。関連のある言葉として「派手」「上品」「渋味」などが挙げられており、これらと比較するとなんとなく分かりやすい。
上記のもとに、「いき」の表現が西洋のものと比較されながら紹介される部分が面白い。例えば、「デコルテ」と「衣紋抜き」の比較。デコルテは胸の上の部分から首筋までの事を指すが、洋服でこの部分を露出させるのは野暮である。一方、衣紋抜きは和服で後ろ襟を少し緩めて襟足を露出させる着方であるが、この衣服の整いをわざとすこし崩してほのかな媚態を示すところが「いき」なのである。うんぬん。つまりはチラリズムか(←ちがう)。
これは一つの例であるが、何かを表現するときに敢えて分かりにくいようにしておき、受取り側の感性や想像力を求めさせるというのは日本独特の文化慣習ではあるまいか。京都の料亭で「ぶぶ漬け」を食わされるのとかも同じであろう。こういう分りづらさは一見、現代では不要なもののように思われる。もちろん誰でも分かりやすいものの方が心地よいのだけれども、本当にそれだけで良いのだろうか。
TikTokしかり、最近はパッと見で分かりやすいことが面白がられがちだけど、わからないことを思考力と想像力で補えるのが人間とAIの違いなのだから、そういう感覚を磨くことが大事なのではないかなと思う。
「いき」からだいぶ話がずれてしまった。なお、原文自体は自分にはとても難解だったので、解説を頼りにゆっくりゆっくり読みました。僕は高校生のころに将来はダンディになりたいと思っていましたが、今はダンディよりも、「いき」な人になりたいです。