- Amazon.co.jp ・本 (333ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062056328
作品紹介・あらすじ
ノーベル平和賞を受賞した「宿命」の女の知られざる素顔と、ビルマ民主化運動の蹉跌を活写。
感想・レビュー・書評
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(2007.11.08読了)(2007.10.21購入)
アウン・サン・スーチーは、ビルマの民主化運動指導者として、1991年10月14日、ノーベル平和賞を受賞した。この本は、その年に出版されたものです。
当時、アウン・サン・スーチーは、ビルマの自宅に軟禁された状態でした。
それから16年たちましたが、相変わらず軟禁状態です。軍事政権に最も協力的な国は、日本とも言われています。
大東亜戦争で、イギリスを追い出し、日本軍の支配下に置いた償いということもあるのでしょうし、投資対象にし、経済的影響力を確保しておきたいということもあるのでしょう。
ただ、経済優先、人道的な観点は二の次というのはいかがなものでしょうか。
節度を持った対応ということを考えないといけないと思うのですが、先日(11月21日)の東アジアサミットでも中国のミャンマー擁護政策のためミャンマーに対する人権弾圧抑止の圧力をかけることはできなかったようだ。(優先課題とは見ていないということでしょう。)
この本は、1988年の民主化闘争から1990年の総選挙あたりを中心にアウン・サン・スーチーの様子を描いています。
1940年11月8日イギリスからの独立を勝ち取るために日本の支援を受けたアウン・サンら30名ほどが日本にやってきています。軍事訓練を受けたあと、1942年3月8日ビルマ独立義勇軍と日本軍がラングーンの占領に成功します。日本は、ビルマの独立をなかなか認めてくれないので、1945年3月27日ビルマ軍は、日本に対し武装蜂起します。
1945年6月19日にアウン・サン・スーチーは生まれています。
1947年7月19日アウン・サン将軍暗殺される。スーチーはまだ2歳です。
1948年1月4日ビルマはイギリスより独立。初代首相はウ・ヌー。
1962年3月2日ネ・ウィン将軍軍事クーデターで全権掌握。「ビルマ式社会主義」開始。ビルマ式というのは、マルクス主義ではないということです。土地や産業は国営になります。
1988年3月12日学生同士の口論が、大規模な反政府デモに発展。3月18日<流血の金曜日>。4月2日母親の看病のため、スーチー英国より帰国。
7月23日ネ・ウイン辞任を表明。一党制か多党制かを問う国民投票を実施し、多党制を望むとなったら総選挙を実施すると約束。7月26日セイン・ルイン議長に就任。
8月19日マウン・マウン議長就任。8月26日スーチー、ラングーンで大観衆を前に演説。
9月27日スーチー、アウン・ジー、ティン・ウー国民民主連盟を結成。
10月30日スーチー、地方遊説開始。
1989年7月20日軍政府、スーチー、ティン・ウーを自宅に軟禁。
1990年5月27日総選挙実施。国民民主連盟が485議席中392議席獲得。スーチーの立候補は認められていない。
総選挙で選ばれた議員たちで、新憲法を作成することになっていたが、軍政府は選挙結果に驚いて、議会は開かれない。
(2007年11月25日・記)
●スー・チーの略歴(20頁)
15歳でこの家をあとにしてから、スー・チーは世界のあちこちを転々とした。ニューデリーとオックスフォードでの学生生活、ニューヨークでの国連の仕事、ブータンでの新婚生活、ロンドンでの出産と子育て、そして京都での研究生活。<政治的人間>ではないので、スー・チーは研究者の道を歩もうと思っていた。子供が手から離れ始めたので、父の生涯とビルマ文学の研究に専念しようと考えていた。
●軍事クーデター(29頁)
1962年の軍事クーデターで全権を掌握した後、ネ・ウィンは野党をすべて潰し、言論、出版、結社の自由を制限した。単一政党による、軍事独裁を維持するため、秘密警察や軍情報部が国民に目を光らせ、監視するようになった。国民には通報の義務があり、通報を怠ったものも処罰される。
●新経済開放策(30頁)
1987年8月10日、ネ・ウィンは、新経済開放策を発表する。無理矢理政府に安く農産物を供出する制度を改めて、米などの11種類の農産物を自由に売買してかまわないと。
4日後、25,35,75チャット紙幣を廃止してしまう。ある日突然、流通する紙幣の6割以上もが紙屑と消える。
●阿片生産地(37頁)
ビルマの東北部は、悪名高い「黄金の三角地帯」の大半を所有し、世界の非合法阿片の約8割を生産する。
●ネ・ウィン辞任(45頁)
1988年7月23日、ネ・ウィンは、一党制か多党制かを問う国民投票を実施し、もし国民が多党制を望むなら、新しい議会を選ぶための総選挙を行うと約束した。
国民が引き続き単一政党性を選択しても自分は党議長を辞任する、と続けた。
●スー・チーの誕生(48頁)
アウン・サン・スー・チーは、1945年6月19日、建国の父、アウン・サン将軍の娘としてラングーンに生まれる。二人の男の子のあと、初めて生まれた女児だ。
●当たるように撃つ(111頁)
ネ・ウィンは、辞任の演説で、「今後騒乱が起きて、軍が発砲するときは、威嚇ではなく当たるように撃つ」と公言した。
●反英暴動(190頁)
1938年から39年にかけてビルマ全土に反英暴動が吹き荒れたが、植民地政府軍と官憲によって潰されてしまう。この運動の先頭に立っていた青年アウン・サンは、英国を打倒し、祖国を独立に導くためには、武力闘争しかないことを身をもって悟る。
●変わらないラングーン(237頁)
ラングーンの街には、目新しいビルが一つもない。察するに、この三十年間、いやむしろ独立してからこの方、街並みは変わっていないのではないだろうか。
●総選挙前(266頁)
スー・チーの率いる党、国民民主連盟は確かに人気があるが、それは都心部の学生を中心とする比較的裕福な若い人たちに限られている、と一般的に考えられていた。人口の8割を占める地方の農村部では、支持は弱いといわれていた。そして何よりも軍政は野党、特に国民民主連盟に過半数を取らすようなことはしないだろう、と見られていた。
●日本の援助(298頁)
1987年だけ見ても、日本政府はビルマに総額一億七千二百ドル、ビルマの国家予算のおよそ20パーセントを供与している。「ネ・ウィンの独裁政権を支えてきたのは、日本の援助だ」と非難されてもしようがないかもしれない。
●出国の条件(307頁)
ラングーンからの噂では、僧侶がスー・チーの自宅に送り込まれ、出国を促したという。スー・チーは、もし四つの条件が満たされるのであるなら、ビルマを去ってもいいと断言したという。すべての政治犯の釈放、政権の委譲、50分間のテレビとラジオ演説、そして自宅から飛行場まで歩いてゆくこと。
著者 三上 義一
1956年 東京生まれ
上智大学外国語学部、筑波大学大学院卒業
1984年 AFP通信社勤務
(2007年11月26日)
(「BOOK」データベースより)amazon
ノーベル平和賞を受賞した「宿命」の女の知られざる素顔と、ビルマ民主化運動の蹉跌を活写。詳細をみるコメント0件をすべて表示