- Amazon.co.jp ・本 (170ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062185981
作品紹介・あらすじ
東日本大震災の日、「私」が新婚の頃に夫・吉村昭と行商の旅をした三陸海岸を、大津波が襲った。三陸の中でも岩手県の田野畑村は夫婦にとって特別な場所。夫婦で同人雑誌に小説を書きながらの生活は厳しかったが、執筆に専念するため勤めを辞めた夫は、2泊3日かけて「陸の孤島」と呼ばれていた田野畑へ向かう。鵜の巣断崖の絶景に出会った夫は小説の着想を得て、昭和41年に太宰治賞を受賞、作家の道が開けた。取材以外の旅はしなかった夫は、家族を連れて唯一、田野畑だけには旅行するようになる。
もし夫が生きていたら、津波に襲われた愛する三陸の姿を見て、どんなに悲しんだだろう。三陸は故郷ではない。住んだこともない。でもあの日、津波が襲ったのは、私にとってかけがえのない場所だ――。
震災の翌年、夫の分まで津波の爪痕を目に焼き付け、大切な人々に会うため、息子と孫と共に田野畑を巡った妻の愛の軌跡。
感想・レビュー・書評
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吉村昭と津村さんが、ずっと以前に石巻に滞在していた時の話も出てきました。
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著者の津村節子氏は作家吉村昭氏の妻である。そうは言っても、妻の節子氏の方が売れるのは先だったようだ。
吉村昭氏が「三陸海岸大津波」を書いており、東日本大震災後重版されているという。吉村はこの本で大津波の再来を予言しており、それが見事に的中しているからだ。本人は既に亡くなっているので、妻の節子にインタビューや連載の依頼が来るという。そこで思い立って著したのが本書である。
吉村は「三陸海岸大津波」を著すために、三陸を108回も訪れているという。節子はそれの半分は同行したそうだ。だから吉村が三陸でどんな取材をしたのか、よく知っていた。しかも彼らが訪れたのは三陸のうちでも田野畑村ばかりである。若い村長がいて、観光地化させずに村を住みよくしようとする姿勢が気に入ったのだろう。以来ずっと田野畑村オンリーだという。
私の住む八戸も大きな津波が来襲し大きな被害を受けたが、岩手沿岸の被害があまりに大きかったので、八戸はニュースにもならなかった。それほど大きく被災したのだろう。
吉村がどんな気持ちで田野畑村を取材したのか、震災後に節子が吉村の足跡を辿る。家族を連れて田野畑村を訪れるくだりは臨場感にあふれ、胸を打つものがあった。 -
田野畑村を訪れるようになった経緯や、そこで出会った人たちのお話が書かれていて、なるほどと感じさせた。
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東日本大震災の時、著者は、著者の夫であり作家の吉村昭(1927 - 2006年)コーナーが開設された長崎の史料館にいた。長崎は、吉村の代表作『戦艦武蔵』が生まれた場所であった。長崎新聞の号外に、これまで見たこともない惨状が広がっているのを見た著者は、さっきまで眺めていた長崎のおだやかな海とのあまりの相違に言葉を失う。
岩手県下閉伊郡に、太平洋に面した田野畑村がある。俗世間での仕事に追われ「”小説を書く頭”ではなくなっていた」吉村がこの地で『星への旅』を書き、作家として息を吹き返したことから、吉村はその後何度も田野畑村を旅することになる。
「陸が隆起して、川は目も眩むような深い谷になり、その谷を下って上らねば行きつけない」、それが田野畑村だ。「何がかれを引きつけたのか、私にはわからない」と書く著者はしかし、被災した田野畑村を訪れ、これまでの田野畑村との関わりを振り返ることで、その答えの一片一片を、行間に刻み込んでいるように見える。 -
著者と夫である昭氏が縁もゆかりもない岩手県の田野畑へ足繁く通うようになった経緯や、それが発端となり深い交流が始まった方々との思い出話などがいっぱい詰まった内容になっています。
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ブログに掲載しました。
http://boketen.seesaa.net/
田野畑村と吉村昭・津村節子夫妻の、半世紀にわたる交流
1962年(昭和37年)に初めて岩手県田野畑村を訪れた吉村昭は、断崖絶壁の連なる風景に触発され「星への旅」を書いた。
作品は太宰治賞を受賞し、吉村昭が作家として生きていくスタートとなった。
生活のために働くことに忙殺され、小説をかけなくなっていた吉村が、再び創作への意欲を喚起される場面は、「私の文学漂流」で描かれている。 -
三陸の田野畑村は夫君・吉村昭の「星への旅」のモデル地でもあり、夫婦にとって縁ある地域。東日本震災後の再訪記録でもある。