哲学探究

  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (546ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062199445

作品紹介・あらすじ

『哲学探究』は、ウィトゲンシュタインの後期の主著として、哲学史上に燦然と輝く名著です。
すでに、邦訳も出ていますが、古すぎたり、哲学としての解釈に不足があったりして、歴史的な名著の割には、名訳に恵まれませんでした。
このほど、もっとも信頼のおけるテキストである最新第4版の版権を取ることができました。
翻訳は、現在の日本で、もっとも厳密かつ魅力的な研究を続けている鬼界彰夫氏が担当します。
鬼界氏は、『哲学探究』というテキストが、どのような構造になり、何をめざしているのか、日本語で明確にわかるよう、特に版権所有者の許可を得て、見出しや解説等を、十分に入れていきます。
この企画によって、ついに、決定版の『哲学探究』の訳が世に出ることになったのです。

感想・レビュー・書評

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  • まだまだ理解できているとは言えないけれど、
    訳者による目次付けによって、だいぶ読みやすいのではないかと思う。

    ウィトゲンシュタインは、『論考』の言語観を解体するために言語ゲームを導入したのだが、
    『論考』のような言語の論理の代わりに、言語ゲームを置きたかったのではないという点をこれまで誤解していたと思う。

    言語には、言葉に固定的な、イデア的な意味や常に変わらない論理があるのではなく、
    具体的な使用場面(言語ゲーム)によって、意味や言語の規則は変わることもある。
    そういった具体例(言語ゲーム)の集まりとして、言語を理解するという方法がとられている。

    実際にどうしているのか見よ、といった記述が繰り返しあるのが印象深かった。

    後半の様々な考察は、より晩年の考察にもつながっていくのかなと思うが、ウィトゲンシュタインの思考の流れを見るような感じで、何度も読みたくなるような感じがある。
    『哲学探求』はひとつの完成でもあるけれど、晩年の考察に向けたプロローグにもなっているように感じた。

  • いわゆる文芸批評的な手続きを踏まず、演繹的な自問自答、あるいは仮想の論敵との対話を通じて、横滑りするような形で議論が進められる。かなり特殊な著作で、原書では章立てもパラグラフもなく付番が付されただけの文章が延々と続くとのことだ。思考をそのまま記述しているような錯綜した文体なので、かなり前に戻ったり、執拗に議論するかと思えば突如飛躍的に展開したりと、かなり混乱する(特に6章の理解と体験など結論はない)。150節くらいまではついていけるが、理解のパラドックス、規則のパラドックスなどは、かなり込み入った議論で、とにかく読者が自分で思考することを促される。400節台あたりはポエムのような印象すらある。500節あたりから音楽の比喩などで再びわかりやすくなる。
    終始、具体的な思考実験と自問自答で考察するので、論述を追うというよりは、ウィトゲンシュタインの頭の中をそのままインストールさせられるような負荷を感じる。独特の論の進め方に慣れないうちは、何が何だかわからない。しかし、慣れてくると知的蛇行が心地よく感じられ、自分で考えることの思考回路が形成されるような感覚がある。論理学的哲学的な術語やジャーゴンをなるべく使わず、あくまで日常言語を使用することにこだわることで、的確に言語ゲームの有り様を捉えようとした。そのことが、この文体の特有さをもたらしている。『論考』で私や倫理や美と呼ばれた抽象的な主題は、内面、信じる、絵画音楽と日常の生活の形に合わせている。テーマが常にズレていき、たびたび疑問詞?で終わるのは、結論を考えさせる意図ではないだろうか。何か答えが書いてあると思って読むと、何が問題でなぜ繋がるのか全く訳がわからないということになりかねない。自分なりの答えを見出す読みが要請される。小学校の教師でもあったウィトゲンシュタインの教程ではなく経験を教える姿勢が貫かれている。"人間についての知識を学ぶことはできるのか?できる。(…)ただし、教程によってではなく、「経験」によって学ぶのだ。(…)我々が学ぶのは技法ではない。様々な適切な判断を学ぶのだ。規則もある、だがそれは体系だったものではない。経験ある人だけが、それを適切に使用できる。"
    この膨大な問いと探究の道筋を、より深く知りたいような気もするが、深入りすると抜け出せなくなるような危険もどこかに感じられる。それはおそらく、意味-論理の形而上学におけるメタ視点を、使用の関係における現実世界に引き摺り下ろすという、いわば天上の楽園における安住から目を覚まさせる行為、しかも永遠に続く答えのない現実への視点の転換の作業を強いられるからだろう。
    冒頭では、アウグスティヌスから『論理哲学論考』までの、対象と名の通俗的な意味の形而上学的言語観を批判的に吟味する。そこから言語を、様々に規則が変化するゲームにおける要素の使用に喩え、言語ゲームなる概念で、独自の言語観を提示する。言葉の意味とは、その使用である。ゲームという語の定義は、盤上ゲーム、球技、カードゲームなど共通なものを見出せないことから、体格や顔つきなど一部が少しずつ似ているが家族として統一されるアナロジーによる家族的類似性という概念で説明される。絶対的共通性の形而上学から、使用における類似性へ。意味ではなく使用を強調することは、単一性や全体性の危険を避ける多様性を強調することでもあり、ソシュール記号論の言語観(シニフィエ-シニフィアン)の乗り越えがなされているとも言える。ある特定の言語における持続的な使用が規則を決定する、という意味では、ヒュームの慣習にもつながる。
    自分にしかわからない私的言語を、痛みの感覚と言語の関係から擦り合わせる。たとえ違うことを痛みと呼んでいても、皆と同じように使っていれば正しく使っていることになり、私的言語は言語として成立しない。
    この私的、公的な関係から、理解と規則の関係、内面と言語ゲームの関係の考察により、通俗的な境界を解体する。すなわち、語りえぬ私の心的状態はあるが、言語の使用によってはじめて共通のものとして現れる、と同時に私だけのものではなくなるというパラドックスである。同様に意味、意図は言語として表明され、指し示すことでしか開示されない。対象と名ではなく、使用される状況の文脈において決まるのである。
    第二部では、感覚印象とくに視覚印象の像へと移行し、アスペクトの概念が多く取り扱われ(14章のうち7割がアスペクトに関する11章)、ウサギアヒルの騙し絵の二重性を中心に、ものの見方(アスペクト)によって意味が変わることを考察する。言語だけでなく音楽、絵画も含め概念の単一性を解体し、使用によって型にはめ込むように概念が(型の場所も)規定されることを示す。つまり、使用の文脈や状況によって、たまたまそのようにみなすことが他人と共有されているだけで、すべてに別のアスペクトが存在する、といえる。そしてアスペクトを理解した瞬間のひらめきやどのようにして見るのかは言語やふるまいの微妙なニュアンスとして表現されてはじめてわかる。スピノザの個体の様態の表現にも通ずる。解釈とは考える行為、見るとは状態。アスペクトは想像と関連しており、アスペクトと見ることと想像は、「このように見る」という意志に従属している。つまり、内面は表明されることによってのみ確認され、その表現の共有によって、内面も記述される。受け入れられるべきもの、与えられたものとは、生活の様々な形である。
    訳者によって、テーマごとの表題と、章ごとの目的が追加されており、本書を理解する上で非常に助けられる。これなしに全て付番だけだとすると、一見して何が議論されているのか論旨が追いにくいことは間違いない。
    『論理哲学論考』に引き続いて、カントの批判的吟味が実践されている。言語を通じて人間と世界を分析するという意味では、ハイデガーの問いを別のアプローチから行ったともいえる。本書では『論理哲学論考』を含めた意味と論理の形而上学批判、しかも反形而上学であるがゆえに必然的になる形而上学も避けるという意味で、のちのポストモダン思想にも通ずるところがある。ところどころに夢や無意識のフロイト精神分析的な言及や、『論考』の構造主義的なスタティックなシステム論を批判する箇所があり、うまく言い表せないが、『探究』の動的なパースペクティヴは、どことなくドゥルーズを感じさせる部分がある。
    言語の意味は、対象と名ではなく、使用される状況と文脈によって決まる。普遍性から使用へ。
    日常で思ったこと、考えたこと、気づいたことを書きつけて、誰かに伝わること(影響・役立つではない)は、人生そのものの善いあり方を現している。論述の「普遍性」よりも、実際に言葉・概念の「使用」を重視する本書は、普遍的な人間性ではなく、使用、つまり関係づけの運動としての人間の在り方が、ウィトゲンシュタインの生き様を通じて刻まれている。
    ・序
    別の主題へと切れ目なく進むのが重要。自分の探究は、一つの全体とすることはできなく、常に哲学的な考察にとどまる。思考の自然な性向に逆らって、一つの方向へと押し続けるとすぐに衰弱してしまう。長く錯綜した旅路の中で生まれた一群の風景スケッチを調整した本書は、一冊のアルバムにすぎない。生前に公刊することを断念したが、それも考え直した。講演原稿議論が誤解され、薄められたり切り取られたりしたからだ。『論理哲学論考』の古い思考と、この新しい思考を一緒に公にすべきだ、古い考えと対比し背景にすることで、正しい照明が当てられる。深刻な思い違いがあった。フランクラムジーの批判、さらに講師P.スラッファの批判が大きな助けとなった。他の人々が私の書物によって自分で考えずに済ませることを私は望まない。むしろ自身で思考するよう書物が励ますことを望む。
    ・1
    アウグスティヌス『告白』に始まる言語観から、『論理哲学論考』を最後尾とする大きな哲学の潮流とみなし、その批判的吟味により、言語ゲーム的言語観を提示する。それは哲学的考察の出発点にすぎない。
    アウグスティヌスは、大人が物の名を名指す身振りで子どもは言語を習得するとする。つまり、人間の言語の本質の語とは、対象の名であるとする。これは語の種類には無関心で、活動や性質を二の次、その他の品詞は自然にわかるものとしているように見えるが、「五、赤、リンゴ」というメモで買物ができてしまうことは、言語の意味ではなく、使用が本質であることを示す。
    →数詞、形容詞、名詞を全て名詞的に扱っている原初的な状態。『中動態の世界』
    言語の狭く限定された領域だ。ルールに制限がないゲームの定義に似ている。1音だけが対応する表音文字を文字の定義とするように、アウグスティヌスの言語の見方は単純すぎる。語の指し示しによる教え。言葉と物の間の連想上の結びつき。しかし、想像力が言葉の目的ではない。言語を教える過程では教わる者が対象の名を言うということが起きる。練習。子どもが母語を習得する際のゲーム、原初的な言語、石材の名を呼んで持ってこさせる過程、手本の語を繰り返す過程、言葉とその織り合わされている活動の総体を言語ゲームと呼ぶ。
    →対象と名のつながりではなく、使用。
    数詞を暗記して使い方を覚えるには、見て把握できる物の集まりを表すための数詞の使い方の指し示し。そこへ、これ、という語は物や場所と言葉のつながりという使い方の説明ではなく、使用においてあらわれる。「この語はこれを表す」というのが使い方。道具の種類で様々な働きが異なっているのと同様、語の働きも異なる。混乱は語が話し書き印刷で外見上一様に見えること。使われ方がはっきりしない、特に哲学で。色見本もまた言語の道具の一つ。品詞を分けるのは、道具やチェスの駒のように、分類の目的と我々の性向に依存する。ある言語を想像することはある生活の形を想像すること。「板!」という命令は、「私に板を持ってきてくれ」の省略文よりむしろ、後者が前者の延長形。
    報告、陳述、命令が見た目同じで違うように使われることもある。陳述が、考量と主張の実行と考えるのは誤り。言語ゲームは新しく生まれ、廃れ忘れられていく。動物は、考えないから話さないのではなく、単に話さない、言語という道具を使用しないだけ。
    ・2
    『論考』の言語観と形而上学の根底に関する徹底的な批判的考察。名、対象=単純なものという『論考』形而上学批判。
    対象に名を与えることが言語だと思われがちだが、現実ではこの上なく多様。叫び声は対象の名ではない。指し示しによる説明は、それ自身一つの言語ゲーム。実際には、名を訊ねる問いに対して名が与えられる。名を考え出す言語ゲームも存在し、特に人名は名指されるものに呼びかける特異な例。ナッツを「2」と呼ぶとき、このナッツ集まりとも、数の名とも解釈されうる。同様に、人名も色、民族、方角などと理解する可能性もあり、直示的定義は、どんな場合にも様々に解釈されうる。数、色、長さなど語がどんな場所に配置されているかは、他の言葉で説明せざるをえなく、さらにその理解はその人がどのように使用しているかによる。つまり、言語の中の役割がおおよそ明らかな場合、直示的定義は使用と意味を説明しうる。チェスのキングの駒を教えるのに、規則、あるいは盤上ゲームの類を知っている人にしか通用しない。つまり名で何かできる者にとってのみ、物の名を訊ねることが意味をもつ。アウグスティヌスの説明は、ある言語を知っている、もしくは考える(自分自身に話すことができる子どもが、他国に行って、たんにその国の言語を知らないだけかのように描写している。推測。色に注意を向けるということは、輪郭を捨象したり、以前見た色を思い出そうとしたりして行う。だが注意とはそれだけではない。チェスの一手は、盤上の移動や指手の思考や感情だけではなく、対局や問題を解く状況の中に存在している。形をなぞったりしても「円」の解釈が間違っている可能性がある。結局、前後に何が起きたかの状況による。
    名と名指される物の関係とは何なのか?
    →ソシュールシニフィエシニフィアン
    「これ」は何を名指すかについて、厳密でない近似的な意味で、本当の名だと言われていた。言語の論理の崇高化。むしろ、様々なものを名と呼んでいる。名の特徴は直示的定義に現れること。「これをこれと呼ぶ」とは言わない。名指し、命名を神秘的に捉える、語と対象の不思議な結びつけとする。この考えは、哲学者が「これ」と何度も繰り返すときに生まれる。哲学的問題は、言語が仕事を休んでいるときに生まれる。ノートゥンクという固有名をもつ剣が粉々になっていようが、「ノートゥンクの刃は鋭い」は意味のある文。つまり対象と名は関係ない。「意味」が、対応するものを表しているという考えは、意味の語法に反している。人が死んだらその人の名前の意味は失われる、ということはない。名の持ち主と意味は別。
    意味は大多数の場合において、ある語の意味とは言語におけるその使用である、と説明できる。ときに名の持ち主を指すことによって名の意味を説明する。「これ」は指すものなしには使えない。「これ」は、名が説明されるときだけに付加され、名と一緒に使われないので、名ではない。
    ソクラテス『テアイテトス』、原要素はそのものとしては対象がないので、説明はできず、名指すことしかできない、名があるだけ。
    ラッセルの個体、『論考』の対象も原要素。
    →『論考』要素命題、名の具体例の不可能性
    単純なものというとき、色や輪郭など合成の意味の様々な可能性が考えうる。視覚像は合成されているか、何がその構成要素か、という問いの答えは、合成をどのように理解しているかによる、となる。解答ではなく、問いを突き返すこと。教えるときに発する要素は、名指すことしかできない。名指すとは、記述のための準備。まだ言語ゲームが行われていない。フレーゲ、語は文の中においてのみ意味をもつ。
    存在するということが要素間の結合の存立なら、一つの要素を語ることには意味がない。1メートル原器が、「1メートルである」ということは無意味なのと同じ。要素を名指すことで、言語ゲームに役割を与え、記述の手段とする。存在していないと名を持つことはできない=言語ゲームで使えない。名は、言語ゲームにおける範型(パラダイム)との比較対照が行われるもの。
    記号と要素の対応表は、記憶と連想の役割に似ており、それを言語ゲームの規則の表現と呼ぶなら、言語ゲームの規則には様々な役割がある。習得の補助手段、ゲームの道具、他人の見よう見まね、自然法則。
    名が表すものが存在しなくとも、名・記述は破壊されない。xが存在するという文脈に現れえないものだけを名と呼ぶ。その文脈は言語使用について、語の使用についての文。「赤が存在するという表現は意味をもたない」という赤の本性に形而上学的言明。破壊不可能という無時間的でそれ自体で存在するかのような。しかしむしろ、「赤が存在する(しない)」を「赤という語には意味がある(ない)」と捉えたいだけ。意味があるなら、こうしたことを述べているのでなければならない、と言いたいだけ。赤という言葉の使用についてなのに、色を語っているように見えるという矛盾がある。
    名は要素のみを表す、という像を表現している。材料という構成部分から合成された実在についての像を作り上げる。箒のような分析されていない語、穂と柄のような分析された語、後者においても物事のある側面(アスペクト)が失われている。ある言語ゲームにおける、記号の分析、入れ替え、それは別の言語ゲーム。
    ・3
    言語、ゲームの比喩の考察、規則はどのようなものか、フレーゲ-『論考』の概念厳密定義への批判と、家族的類似性、様々な解釈が可能な規則の規定。
    現象-言語に共通なものがあるのではなく、様々に異なった形で類似している、その類似性によって言語と呼ぶ。すべてのゲームに共通の規則などない、あるのは類似性。ボール、チェス、トランプなど、複雑な網の目のように互いに重なり、交差している大小様々な類似性。体格、顔つき、目の色、歩き方、気性など家族の成員間に見られる類似性と似ていることから、家族的類似性と呼ぶ。ゲームは家族を形成している。数も互いに重なり合う。数の概念は、境界があるともないとも使えるので、たんに厳密化された論理和ではない。一歩は厳密な長さの尺度ではない。ピントのボヤけた写真を必要とすることもある。
    フレーゲ、概念は地区であり、はっきりと境界をもたない地区は地区と呼べない。
    しかし、だいたいこの辺に立ってくれ、というのは無意味にはならない。ゲームも様々な例を挙げ、それとの類似で説明する。共通のものではなく、利用。青、緑、木の葉の一般的普遍的見本はない。定義は、ぼやけた像に鮮明なものを描く作業に近い。しかし、ぼやけすぎているものは見込みのない作業。美学や倫理学。
    モーゼについての様々な記述のうち、モーゼではないものと入れ替わったとして、どれだけ違えばモーゼの定義が偽になるのか。Nという人物が死んだ場合、どれだけの記述が違えば、Nは死んでしまったという文が偽になるのか。名前は意味を固定せず使用している。
    ラムジー、論理学は規範学。哲学は語の使用を固定したゲームの規則に従った計算のように捉えるが、必ずしもそうといえない。言語とゲームのアナロジー、球技を最後までやり終えず、次のゲームに行き当たりばったりに変化するが、ずっとボールでゲームをしている、投げるたびに決まった規則に従う。そして、成り行きで規則を作り、変える。
    完全な規則のゲームとはなにか。規則は道標のように立っているが、解釈は一つではない。説明の働きは、誤解を取り除いたり予防すること。目的を果たしているなら道標に問題はない。厳密でないことは、使用不能ということではない。チョークの線には幅がある、懐中時計は理想的な正確さなのか。太陽の距離をメートル単位で言うこと、家具職人に机の幅を1/1000ミリ単位で述べなければいけないのか。正確さの単一の理想は存在しない。その決定は困難。
    →形而上学批判
    ・4
    『論考』の論理観が根底から覆され、論理の崇高化とまでいう。『論考』と『探究』の対話ともいえる。理想に関する誤解を脱出する試み。哲学とは何かを明らかにする本書の心臓部。
    普遍的な意味、本質、根底、基礎が論理や論理学にふさわしいように思われた。新しい何かではなく、経験的なすでにあるものを理解すること。しかし、探究は、現象よりも可能性に向けられる。言明に心を呼び起こすこと。
    →フーコー言説
    文法的な考察。言葉の使用、アナロジーの誤解を取り除く分解、分析。しかし、それは言語形式の最終的分析、完全に分析された形が存在するかのように見える。表現が完璧に解明され課題も解決されるように見える、つまり表現を厳密化し誤解を取り除く。厳密さが目的になる。こうした本質への問いは、表面の下に、内に存在する、隠されていることを前提する。しかし、この探究における言語の本性、機能、構造は異なる。
    命題(文)を不思議なものと捉えてしまうのは、重要性と、何か比類のない特別なことを行なっているという誤解。論理の崇高化。事態は事実を越え、事実でないことを考えることができるとされるという錯覚。命題、言語、思考、世界、互いに等価に並ぶ。しかしそれらを使用する言語ゲームは存在しない。論理の世界のアプリオリな秩序、世界と思考の可能性の秩序、最高度に単純、すべての経験に先立つ、最も硬い、最も純粋な結晶の秩序。錯覚。我々の特別さ、深遠さ、本質とは、言語の比類なき本質の探究にあるという錯覚。言語の比類なき本質は、命題、語、推理、真理、経験など諸概念の秩序。超概念の超秩序。日常言語はそのままで問題なく、理想を目指していない。完全なゲームの規則はないのに、理想に目が眩み言葉の本当の使用を見ていない。本来、曖昧であるものをゲームと呼んでいる。「なければならない」に囚われている。命題の論理構造に厳密な規則が、悟性の中に隠れて存在するかのように思い込む。
    →カント悟性、かのように
    理想が思考の中にあり、その外に出られない、という思い込みの眼鏡を通して、ものを見ている。厳密でなければならないという思い込みによって、論理で扱う命題や語が、記号の表象なのか現実の表象なのかと思い悩む。日常の許に留まるべき。現実と要求の対立は激しくなる。純粋さの先入観は、全考察を転回させることによってのみ取り除ける。科学的考察、理論、仮説、いかなる説明も消え去らねばならない。記述だけが取って代わる。我々の悟性にかけられた魔法との闘い。
    →カント純粋理性批判(悟性の拡張)
    言語あるいは思考が比類なき何かであるという迷信。文法的錯覚に呼び起こされた、間違いではないが迷信。情熱は錯覚の問題へと向けられる。
    言語形式の誤解は、深遠さ、深い不安を生む。それは言語の重要性と同じ重みをもつ。
    →ハイデガー、存在論的不安、語源解釈
    『論考』4.5命題の一般形式は「事態は然々である」というものである。これは事物の本性を考える形式に沿って進んでいるにすぎない。
    知識、存在、対象、自己、文(命題)、名で事物の本質を捉えるとき、「生まれ故郷の言語で現実に使われるか?」を自問しなければならない。形而上学的使用から日常的使用へ連れ戻す。
    →ハイデガー、存在の故郷
    言葉は、意味を携えていない。哲学は、ナンセンスの発見と、悟性が言語の限界に突進するときにこしらえるコブを生み出す。コブによって発見の価値を知る。言語について語る場合、日常言語について語らねばならない。それにもかかわらず、完全な言語を求めるのであれば、表面にあることしか述べられない。言葉と意味は異なる。お金とそれで買える牛。言葉と意味は、金と効用の関係に似ている。
    →柄谷行人『マルクスその可能性の中心』、『内省と遡行』言語数貨幣。ソシュール言語と意味とマルクス貨幣と価値
    哲学という語の使用について語るには、高次の哲学が必要だということにはならない。正書法(正しい綴り)と同じ。
    →哲学という語の正しい使い方に、哲学はいらない。
    使用は全体を見渡せないので、関係を見るために中間項が必要になる。哲学は、言葉の使用を基礎づけられないので、言語の実際の使用に触れてはならず、記述することしかできない。哲学はすべてをあるがままにしておく。数学も。
    →ハイデガー放下ゲラッセンハイト
    哲学は、数学的・論理学的発見による矛盾の解決ではなく、我々を不安にしている数学の状態、全体を見渡せるようにすることが仕事。ゲームの規則は、想定と違った事態が進行し絡まっている。この絡まりこそ理解、見渡したいもの。数学では、意味し予見と違った事態が起こるが、哲学的問題となるのはこの矛盾の役割である。哲学は目の前に置くだけで、説明、導出はしない。哲学の仕事は、目的のために様々な記憶を運び集めること。事物の大切な側面アスペクトは、単純でありふれて目の前にあり人目につかず気づけない。
    言語ゲームは、考察における比較の対象としてあり、その類似性と相違を通じて言語に光をあてるもの。モデル、物差しを示す先入見を避けることで、哲学が陥りがちな独断主義的な主張の不当さ空虚さから逃れられる。
    言語の使用に関する何らかの秩序を生み出すことが求められる。唯一ではない、可能なうちの一つ。日常見逃される、様々な区別を強調。問題となる言語ゲームにおける混乱とは、使用に関する改良改善を目的とするものではなく、言語が働かず空転で生じるもの。体系の精密完全を欲するのではない。本当の発見は、哲学をやめさせる、平穏をもたらし、問いに鞭打たれることのなくなる発見。様々な例を通じ様々な困難が解かれる。哲学に単一の方法はなく、様々な治療法がある。
    ・5
    言葉と数列の理解について。理解の二つの側面、理解のパラドックス。
    「事態は然々である」が命題の一般形式となるのは、それが日本語やドイツ語の文と呼ばれるものだからだ。pから始まる論理命題は一般形式とは呼ばない。ただし、「事態は然々である」は、型としてのみ使用される文。文のように聞こえるということが、文の概念のひとつの特徴。文もゲームの定義と同じように様々な例で示すのであり、数の概念とは異なる。
    「事態が然々である」が文の一般形式という主張は、真偽いずれかになることができるという考えが根本にある。我々の言語において真理関数の計算を適用するものを文と呼ぶ、ということ。しかし、この文と真の一致、真偽が先立ってあるような考えでは、真偽が言えるのは文だけだということでしかない。文が何であるかは文構成規則によるし、文と呼ばれる記号の言語ゲームにおける使用による。語は文の一部、構成要素だが、ぴったり合っているわけではない。チェックがかけられるだけがキングの概念ではないように。
    使用においては一致することに意味はないが、言葉の意味の理解、一瞬で把握することは一致することではないか。言葉の意味を像として把握している。像が特定の使用を強いる、という思い込みの誤り。別のケースを全く考えていなかった。重要なのは、言葉を思い浮かべながら、使用は異なることがありうるということを認識すること。像と使用は衝突しうる。言葉の使用が明確に指定されるのは、ノーマルなケースのみ。現実でノーマルでなくなればなくなるほど、規則や意味が失われる。
    自然数の数列を伝えるとき、違う解釈になる可能性もある。012345を103254。「間違った」解釈として修正させることもできるが、このような違ったケースもありうるということだ。ものの見方を変えよ。説明の効果は、反応に依存する。適用が理解の基準。
    アルファベットの知識を心の状態だというとき、心的器官によって知識の表れを説明するが、これを傾性という。器官の構造と、器官の働きの基準が存在する。意識無意識は文法的区別を覆い隠す混乱。
    →フロイト批判
    痛みや悲しみなどの心的感情と違い、理解(わかるできる)は絶え間なくわかることも、おさまることもない。知る、できる、する能力がある、理解するは、密接に結びついている。理解を心的過程として考えてはいけない。理解したということは、式を口にすること、書くこと、頭に浮かぶことではない。続け方、システムの理解の権利を与えるのは、体験をする状況。
    →適用の再現、解決、使用における他者の同意。理解した、ということは理解を証明できないというパラドックス。
    ・6★
    理解と類似心的概念。それらの厳密規定の試みは誤り。読むという例。理解のパラドックスの原因と解決。
    「読む」は、理解することではなく、文字を音に変換する活動、口述筆記、手書き、楽譜演奏。たどたどしく単語を読む初心者は、読んでいると言える。書かれた記号に然々の仕方で反応するということ。したがって心的過程から独立している。手本から複製を導き出すとき、人は読んでいる、と定義すると、一度Aをnに書き換えたら次はo,pと変化する場合、「導き出す」の無秩序なやり方と境界はなくなる。「手本からの複製」というときの導出は、導出という外観がひとつの家族をなす様々な事例の一つ。「読む」もまた事例の家族に対して使っている。様々な状況に応じて、読むことについて様々な基準を用いる。
    発音する言葉は、特別な仕方でやってくる。思いつきと違った仕方で自然にやってくる。言葉を見るとその音が頭の中で聞こえる。文字を見て発音に慣れ、しばらくすると自動的に聞こえてくる。なじみのものとしく深く刻み込まれ、変更には居心地の悪さや深い感情を引き起こす。語の形と音は同程度になじみ深い。
    →ハイデガー呼び声
    文を読むことと記号を見ることの因果関係は、目の前の文字記号が理由になる。読むとき自分に対する文字の影響を感じる。感覚を通じて語の形と音を結びつけるメカニズムを知覚していると思い込んでいる。厳密に読むこと、導かれることを見てみると、特定の内的本質的と思われたものは消えてなくなる。テキストと表に導かれながら文字を書く人というと、誠実な注意深さを前提するが、注意深い給仕が床にティーカップを落とすように、現実は様々であり異なる。慎重さは、意志の排除の像でもあることから、内的体験なのかどうか、意図や意志の本質に関する問いにも関係する。でたらめの線に導かれながら描き写す体験を結びつきの体験、影響体験とは呼びたくない。意志はいかなる現象でもない。「だから」を体験した。影響されたから導かれるのではない。誰にも導かれていないのに、導かれたように感じるということが、導くという現象の形。
    数式の続きがわかったということは、状況によってそれが認められたり、間違っていたとなったりする。同様に、わかった、できる、知っているのそうでない状態との境界は、途中で続けられなくなったり、思い出したり曖昧。
    ・7
    ある言語表現の正しい使用法は、どのように決定されるか。瞬間的理解と、時間経過における使用の問題の別の形。5章の数列の教示における、規則の正しい適用法の決定。誤った考えから生まれるパラドックスは、誤りに気づいたときのみ消滅する。
    +nという数列は、1000を超えたときにも適用すると誰が決めたのか。命令が移行全てを行った。物理的個々の移行の前に、意味する行為だけが実在を先取りできるかのように。移行は代数式に決められていないのかという問いには、式をどう意味されたかが、どんな移行がなされるべきかを決める、といえる。その基準は、いつもの使い方、教えられる使い方。
    言語使用全体を、一挙に把握することができるかのように思われる。見本はない。哲学的最上級。
    作用の仕方を内在化したシンボルとしての機械。しかし機械の部品は、曲がったり折れたり溶けたりする。シンボルとしての像はそれらを捨象する。そう言うのは、運動の可能性として語る、哲学するときだ。運動の可能性は運動の影のようなものだが、具体的な運動の像ではない。本来、運動の可能性は具体的な運動の可能性でなければならない。経験的事実ではないことから、像の可能性が対象の可能性と緊密な関係とみなしてしまう。哲学は文明人の表現を誤解し、野蛮人、原始人のようになる。
    因果・経験ではなく、使用自身が不思議な仕方でそこにあるように見える。違った言語ゲーム、理解されない言語の使用が、不思議な過程の表現と解釈される。驚くような不思議なことは実際起こっていることの中には何ひとつない。将来が理解の中にあるはずなのに、存在していないというときだ。言葉の意味とは使用である。チェスは規則によってチェスというゲームになる。ルールブック、訓練、日々の実践において。
    ・8★
    規則に関する懐疑から規則のパラドックスが生まれ、新しい規則の見方を提示する。数列の無限の繰り返し適用を内包する規則が、大きな焦点となる。
    規則が行為を決めることや、すべてが解釈で規則に一致することが問題なのではなく、解釈と解釈されるものが宙に浮き、支えられないことが問題。
    →規則が固定でなく変化する。
    道標が、行動を規則に一致させるということは、訓練という説明では因果関係にすぎず、記号かに従うとは何かが重要。持続的使用、慣習があるときのみ存在する。
    →ヒューム、ルソー慣習
    規則に従うこと、伝達、命令、対局、これらは慣習(慣用、制度)である。文を理解することは言語を理解することであり、技法をマスターすること。
    誤解に基づく、規則のパラドックスとは、規則はどのような行動の仕方も規則に一致させられるので、行動の仕方を決定できないということ。そして解答は一致できるなら矛盾もできる、したがって一致も矛盾も存在しない。この誤解は、様々な解釈で消えていく。つまり解釈ではないような規則の見方であり、それは使用のそれぞれの場面で規則に従う、反すると呼ぶものの中に示されている。誤解が生むのは、規則に即したそれぞれの行動はひとつの解釈である、と言おうとする傾向。しかし、解釈は規則の表現を置き換えることのみをいう。私的に規則に従うことはできない。
    →規則が固定で行動がそれに従うのではなく、使用において様々に規則も変化する。そしてその判断には他者が必要。
    規則に従うことは、命令に従うことに似ている。訓練と反応。規則性は、反復操作の例と練習で伝える。「等々」はその操作を超えて示す。これは説明者の意図を、解釈者が推測している。そのとき訊ねることができ、答えることができる。解釈が様々で一つを選んだのではなく、状況によっては疑いはありえた、心理的な雰囲気。直観だけが疑いを取り除ける。誤って導くこともある。
    事物のそれ自身との同一性は、明らかに見える。すべてのものが、その周囲にちょうどぴったり合うように想像する。
    いかにして規則に従えるのか、行動していることの正しさを問う。我々は、たんに説明を求めて説明を要求することがある。
    数列の始めは、無限に続くレールの見える部分に思えるが、レールを想像することもできる。
    移行が全てなされている、ということは、選択の余地がないこと。規則に従うとき、私は選択しない。考えずに規則に従う。
    →カント定言命法
    この象徴的な命題は、因果的制約と論理的制約の違いを強調する。規則の使用法の神話的描写。
    規則は常に同じことを言い、その言うことを我々は行う。一致と規則は、従兄弟のような類縁関係にある。命題と真のように、規則と同じという言葉の使用は絡まり合っている。
    数列の一つの顔、代数的な、展開された部分。規則の述べることのみ耳を傾け行動し、それ以外の指示を仰がない。等々を加えるだけで無限に達する。いかに進むべきか伝えるということは、規則が最終審であるということの言い換え。〜ということはわかるだろ、というのは規則に強いられているものの特徴的表出。指示を待つインスピレーションとは異なる。線に従っているが誰も真似できない卓越した技術で線を描く者については、手本の線が伝えているように見えるが、規則に従っているとはいえないだろう。規則は前もって自明でなければならない。
    正しい、間違っている、は人間が語ることだ。言語において人間は一致している。意見ではなく、生活の形の一致。
    →人間の言語=生活形式
    言語による意思の疎通には、定義だけでなく判断の一致も必要。これは論理を廃棄することではなく、測定結果の恒常性によって規定される測定ようなもの。
    →因果関係ではなく、継続的使用によって決定される慣習としての規則。
    ・9
    意識の諸状態のひとつ、痛みをめぐる誤解の分析と哲学的問題の解消。内的体験としての痛みという、常識的哲学的文法的誤解。適切に扱うための手段として、私的言語、箱の中のカブト虫の概念。
    人間は自身に対し、励まし、命令、従い、叱責、罰し、問い、答えたりできる。行動には独り言が伴う。話者のみが知ることのできる、内的体験を記述する直接的で私的な言語、他人の理解できない言語を想像してみる。
    痛みの感覚をどう結びつけ、学ぶのか。ケガした子供が泣き喚き、大人が語りかけ叫び方、文を教え、新しい痛みの振る舞いを教える。痛みは私しか知らないし、他人は推測しかできないという意味で私的。意図は、本人しか知らない。この「知る」が意味するのは、不確実さを表すことは意味をもたない、ということ。
    →厳密に知ること、推測では不足するということ。
    感覚は私的である、に対して、人はペイシェンス(忍耐)を一人でやる、の比較。嘘は、学ばれなければならない一つの言語ゲーム。
    「その反対は想像できない」というとき、形上は経験的命題だが、本当は文法的命題であるものに対しての抵抗。全ての棒には長さがある、の反対、アプリオリな命題の否定。
    私の痛みを他者が感じるときの同一性とはなにか、双生児など私と彼の痛みは同じだと言うことは可能。「この」痛みと強調しても同一性の基準を定めることにはならない。同じ、を同一に置き換えるのは、哲学の典型的な逃げ。意味を正しいニュアンスですれば解決するものではない。それは、特定の表現の誘惑を厳密に描写する必要があるときのみ。その誘惑は原料。数学的事実の客観性実在性は、哲学が扱うべき治療すべきもの。
    私しか理解できない感覚は、他人が理解できる言語にはならないはず。感覚に独自の名前をつけることになる。繰り返し感じる感情にEと名をつけ日記につけるとしても、定義はできない。記号の意味を固定する、正しさを判定する基準がない、すなわち正しいということについて語れない。感覚は共通の言葉であって、私にしか理解できない言葉ではない。正当なものであることが示される必要がある。それが感覚ではなく「何か」を「持っている」としても、共通の言語の一部であり、哲学にありがちな不明瞭な音を発してはいけない。他人が理解しないが、私が理解しているように見える音声を私的言語と呼ぶ。痛みという言葉がわからず別のことを痛みと呼んでいる人がいたとしても、通常の兆候に合致していれば、皆と同じように使用するといえる。ある歯車を回しても、他の歯車が動かない場合は、その歯車は機械の一部ではない。人間とそれに似たものについてのみ、感覚、見る、聞く聞こえない、意識の有無を言える。無生物や人形に二次的に痛みを感じるが、死体や石や数や手そのものには感覚を見出さず、ハエには痛みを見出す。
    →痛みの振る舞いが共有できるかどうか
    同情とは他人が痛みを感じているという確信の形式である。
    →ルソー憐み
    言語ゲームから外れた感覚は疑いの対象になる。外れた感覚があるとすると、同一性の基準と同時に間違いの可能性も出てくる。感覚を表す「記述」は、特定の使用のための様々な道具である。一つの痛みを「痛み」としてなぜ一般化できるのか。カブト虫が入っていると言われて各人に渡された箱があったとして、その中身がそれぞれ違っても、変化しても、空だったとしても定義が個別にできるから構わないことになる。言語ゲームに属していない。対象と名だけでは、言語が成立しない。
    →『論考』批判。
    「私は〜を自分自身のケースだけから知る」は、そう全員が言うと私が想像しているだけ。何も述べてないとしても、一つの像であり、哲学における文法の像。
    痛みという言葉を用いる言語ゲームに、痛みの像は登場しない。痛みの想像は像でも置き換えでもない。語ることができないものは、存在していなくても務めを果たす。
    →私の痛みは、それがなくても痛みと認められれば痛みになる。
    痛みは存在しないというパラドックスは、言語が思考を伝えるという常に同じ目的のために使われているという観念から決別すると消滅する。
    内的な出来事(過程)という像は、「想起する」の正しい使用の観念を与えるわけではない。思い出したというだけ。人間の振る舞い以外すべてフィクションだという行動主義ではなく、文法のフィクションを指摘している。心的過程や行動主義については、それらが未決定のままにする本性に対する、「詳しく知る」というはっきりした観念によって、未解明の媒体における未理解の過程は否定しなければならなくなる。
    哲学の目的は、蝿に蝿取り壺からの出口を示すこと。
    赤を示すように、直線や曲線や木や石を示すように、痛みを示せる。こうしたことを示すと呼ぶ。哲学的問題として自分の痛みの感覚を観察するなら誤解。
    →感覚は示されたときに意味をもつ。私的な痛みは痛みとして示されない。
    ・10
    思考、考えるという概念の誤解と使用。
    話すより速く考えるとは通常言わないが、電光のように頭を駆け巡るあるいは問題が突然明らかになるという。前者は根拠があると確信する式計算などで、後者は確信の根拠はない。数列を続けられるという確信は、帰納に基づいている。
    言語そのものが思考の媒体。文に心的過程を伴わせると考えると呼ぶが、その随伴物は思考とは呼ばない。自分の考えを表す正しい表現を考えているとき、表現される以前に存在していた思考とはどんなものか。フランスのある政治家は、人間の思考と同じ順序で並んでいるのがフランス語だという。話す前から文は、心の中にすでに存在している。意図は状況の中に、人間の慣習と制度の中に埋め込まれている。チェスをする意図はチェスの技法があるから。文の形を作る意図はドイツ語を話せるから。
    言葉の働きは、その使用を見つめ学ばなければならない。時々起こることはいつも起こるかも、全ての人間が全てのゲームで間違った手を打つ。いずれも表現の論理の誤解、言葉使用の誤った描写の誘惑。命令に誰も従わないなら、命令という概念がないように、正しい・いつもなら、間違い・時々もない。使用が存在しないような場合を想定するとき、それらの言葉と像の裸の姿に気づく。痛みの感覚は存在するという主張。思考は、排中律を引き合いに、心像が浮かんでいるかいないかのどちらかとする。現実がこの像と一致しているのかが問題。
    →感覚は現実の像に現れない。
    文の検証の種類と可能性に関する問いは、「どういう意味でそう言うのか」という問いの特別な形で、答えは文法を明らかにするのに貢献する。文法の基準と兆候の間で変動があると、兆候だけになる。気圧の基準だけでなく、湿気と冷たさ、視覚印象で雨が降ることがわかる。重要なのは、感覚印象が我々を欺くのではなく、他の言語同様合意に基づく感覚印象の言語を理解しているということ。文に意味を与えるのは、意味するという我々の行為。意味するとは、心的領域に属し、私秘的なことでもある、我々の言語の夢。人形や幽霊でも、人間に似たものにのみ、「考える」といえる。考えるという言葉を一つの道具とみなす。自分自身に向かって話すということを、子供のときに教師に学び、自分に向かってそれを正しく示して説明できるような錯覚が起こる。
    ・11
    想像、心像、表象に対する誤解、想像の意味、心像と表象の哲学史を扱う。像の考察、とりわけ心的領域の特異性として、哲学的反省に先立つ強固な像が哲学的誤解の源泉であることを示す。
    想像するときに何かが起きている、そのときに音声を発するのは何かが起きていることを伝えるためだ。暗算は、想像の中で行う計算だが、現実の暗算だ。計算でないとはいえない。
    問うべきなのは、想像という言葉はどのように使用されるのか。想像の本質にも迫る問い。何かを指し示したり、過程を記述するだけでは解決しない。本質は文法の中に表現されている。
    →文法、無論構文法や内容ではなく、記述の形式のことだろう。論理形式(写像形式のうち命題を伴うもの)。
    事物の本性による必然性に相当する唯一のものは、言語の恣意的な規則。命題という形へと写し取ることのできる唯一のもの。
    →物に合わせて言語が変化する。
    どんな種類の対象かは文法によって述べられる。文法としての神学。記述を抽出している対象があるが示すことができないというふうに問題を表現しないで、あえて像の誘惑に譲歩し像の使用がどう見えるのか改めて述べる。
    →語りえぬものについて語るべきという『論考』への反省。
    黙読、声を出さずに自分に向かって読むことは、声を出すときと同じことが起きていることが確認できるかもしれないが、その違いは何か。黙読を教えるときに相手と何が対応し、何が異なるのか(2つの想像=心像の同一性の基準)。論理学者は同じものは同じとし、人の確信は心理学の問題とする。赤い、同じ、についてもいえる。「同じ」が別の認識だとしても使用において正しくなければならない。見たものから言葉への移行が私的な場合、規則は適用されない。赤と認識するのは、言葉を学んだから。『探究』は、現象ではなく、概念の分析であるから言葉使用の分析を行う。そのため唯名論に見えるかもしれないが、そうではない。唯名論の誤りは、全ての言葉を名としたため、使用ではなく紙上の指示だけを見た。想像で問題となるのは、想像した色を簡単に示したり、描いたり、現実に写し取れるということ。正しい想像、性質を問えるのか?問題の根本的な側面アスペクトは見過ごされやすい。
    想像すること(ある表現媒体で描写すること)は、それを理解するために重要なことではない。
    誰も所有していない私だけのものとは、視覚上の部屋。この対象を人がどのように捉え、見て、示そうとするのかを知っているということ。視覚上の部屋の所有者は、部屋の中にいないし、部屋には外部がない。そこで見出されたのは新しい話し方、比較の仕方、経験。それを新しい対象だと解釈している。「私はこれこれの表象を持っている」とは、他人のための記号にすぎない。事実を本当の姿で表現していないと言いたい誘惑。観念論と独我論の論争はこのように見える。表現形式を疑うか、擁護するか。痛みの新種の表現によって得るものは何もないが、独我論の主張も利得を求めてはいない。
    私が痛いというのは、誰が痛いのか示すものではなく、呻きのようなものとして誰が痛いのかわかる。人物の同一性は実に様々な基準がある。私、ここ、これは、人物や場所や名を名指さないが、名を説明するという意味で名と関係をもつ。物理学はこれらの言葉を使わない。感覚は、物や足や体と異なり、自分の注意をそれに向けさせることによって指し示すのだと思い込む。
    意識と脳過程の深い溝、「これが脳過程によって生み出されているのか」という感覚は、日常的でなく意味をもたないという意味でパラドックスとなる。疑ったことのない目の前にあるために気づかれないままであることの確認としての、人間の自然誌に関する考察。知覚は、意識に気づいていることを伝えており、注意が向けられていることを示す。
    自分の周りの人間が意識をもたない自動機械と想像する。図形の極限あるいは変種。苦しみの意識とのたうち回る体の状態の報告が混ざるとパラドックスのように映るが、3本の支柱が建物の強度を高めているというときの3や強度も触れることができない。文を道具、意味を道具の使用法とみなすべき。
    何かを信じるというとき、像は前面に出るが、像の意味は背後に隠れる。像の使い方は容易に見渡せない。通常、像は探し求められ見出され使用が自ずとなされるが、ここにある心の像は押しつけがましくついてまわる。意味が一義的に決まっている像も、使用においては描いてるものに比べ不純。集合論。その表現方法は、無限数列全体や意識の中を覗く神に合わせて作られていて、いわば儀礼用の衣装。人間には、意味と目的を与えるはずの力が欠けている。彼に話しているとき、彼が何を考えているのか知りたいと思っている。心に関わることは、生き生きした像とその像に矛盾するような仕様をもっている。
    ・12
    『論考』「思考とは事実の論理像」という問題の考察。10章は1944年、12章は1933-34年の時差がある。思考の理由から、信念の根拠の問題。『確実性の問題』につながる。
    思考が対象そのものを扱い、現実を捉えたように思える。命令と実行の間を理解が埋めなければならない。記号に生命を与えるものは使用。
    文はどのように描写するのか?隠されたものは何もないが、一つ一つ間隔を空けて見たい。哲学という袋小路。困難が現象や現在の体験だからと思ってしまい、日常言語が粗雑なものと思ってしまう。アウグスティヌス。
    望みは何が満たすのか、命題や思考は何を真とするのか、まだ存在していないものが決定されている(〜ねばならぬの厳しさ)。計画は計画としては満たされていない何か。望み、期待、推測など。欲しいは望み、これで満たされるは満たされていないことの表出。生まれながらの性質と訓練教育によって、特定の状況で望みの表出を行う。望みは、何を望んでいるかわからなくても使われる。期待と実現は言語において接点をもつ。
    言語はそこにあろうがなかろうがそのものについて語る。否定文は、まず否定される文をある意味で真としなければならないかのような感覚。言語を使用することは、想像することではない。言葉は時とともに様々な像に転換する。
    期待を知覚するということは意味をもたない。矢印は、生きた者がそれを使用するときのみ何かを指す。意味するとは、意味されるものに向かって行くこと。意味するのは人自身であり、人自身が動き、突進する。
    命令は、文、実例、実行でなされる。これは、当たる当たらないによらず、予言すること。明白でないナンセンスから、明白なナンセンスへの移行。★
    なぜ人は考えるのか?計算によってボイラー事故は減った、考えることが有効だと実証されてから考える例。「なぜ」を控えてはじめて重要な事実に気づくこともあり、それは探究において一つの答えに通じる。
    現象の一様性に対する信念の本性は、予期される現象を恐れている場合に、最もはっきりと示される。やけどの信念と同種の恐怖によって、火の中に手は入れられない。ある考えの根拠として理由を考えることは、出来事の原因を考えることと同じ。恐れの対象と原因は区別されなければならない。
    →ハイデガー恐れ
    将来予測の根拠は、その根拠一般についてどんな概念をもっているのかという問いが答え。過去こそが将来の根拠。信念、確信。ここでの根拠は論理的な命題ではない。十分な根拠とは、そのように見える根拠。現実にありそうだと思わせる経験による正当化には終わりがあり、終わりがなければ正当化にならない。
    論理学の演繹的推論は、ある主張への移行、主張に応じた行動への移行。
    ・13
    意味と理解の哲学的誤解と問題。文、絵画や音楽の意味と理解。第二部中心テーマにもなる、意味体験、アスペクトの転換。
    言語なしでは、影響を他人に与えることはできず、道路や機械も作れない。話したり書いたりすることなしに、意思疎通できない。言語を考案することは、自然法則に基づき特定の目的のための装置を考案すること、ゲームを考案すること。雄鶏が雌鶏を呼ぶという表現は、言語を前提しているので、物理的作用と想像すれば、事態の見え方アスペクトが変わる。言語は、日常的言語であり、その他を類比や類似性に基づき言語と呼ぶ。文法は、ただ記号の使用を記述するのみで、説明はしない。文法の目的は言語自身の目的に他ならないというなら、文法の規則は恣意的といえる。「この言葉の組み合わせに意味がない」ということは、言語領域を限定することであるが、境界を決めるには様々な理由があり、何のための境界かはまだ述べられていない。意味がない、と無意味は異なる。流通から外されるということ。言語の目的は思考を表現することではない。雨が降っている、など。
    命令もその答えも、記号で十分。何を意味しているのかを知るのは、誰にとっても記号しかない。命令に従う前に理解しなければならないが、知ると行うの間にも飛躍がある。慣れていない言語は私に何も語らない。
    想像可能と信じていたものができないことがある。正7角形の作図。想像可能領域を改定することになる。テアイテトスにソクラテスがいう「何かを思い描く者は、現実を思い描かねばならないのでは?」。命令は、それに従って実行された(るべき)行為の像である。「文が事態の可能性を示すというのであれば、せいぜい絵画彫像映画がすることしかできない。事実そうでないことは提示できない、文法が何を許容するかによる恣意性に依存する。」それは、使用を考えていない。「論理的に可能」ということは、化学の論理的に結合可能な構造式と比較しても、現実に存在しない場合より劣っているわけではない。風俗画は、肖像画よりも実在の人物から遠いが、何かを語る。像は、それ固有の構造、形、色において、それ自身を私に語る。音楽の主題はそれ自身を私に語る。絵画や物語が、楽しませ心を奪うことを当然視せず、不思議なこととみなす。それによって、一つの事実を別の事実と同じように受け入れ、問題は消滅する。明白なナンセンスから、明白でないナンセンスへの移行(予言の節と逆)。
    →創作物、文を同じように見ることで、特別視することによる問いは消える。現実を写し取るだけが、形式の役割ではない。明白な論理が空転し、使用の曖昧さに移行する。逆に命令は推測と理解により具体的な明白さへ移行する。
    単独では意味のわからない文も、使用の文脈を考え出せる。言葉からよく知られた一群の小道があらゆる方向へと延びている。
    絵画や線描にも理解がある。物体ではなく色斑にしか見えない、器具の用途、配置など。
    言語の文の理解と、音楽の主題の理解は、類似している。強弱テンポパターン、同じリズム同じパターン。
    →ドゥルーズ変奏
    言葉の魂が存在しない言語では、勝手に考案した新しい語で置き換えても何の問題も生じない。文の理解には2種類あり、第一に様々な文と共通なものがあるがゆえに置き換え可能か、第二に音楽や詩のように置き換え不可能か。理解の様々な使い方が、理解の概念を作っている。第二の場合の表現の説明、理解を伝えることは、意味を説明することと同じ。区切られ強調された文は、文章絵画行動への移行の起点。言葉から小道があらゆる方向へと延びている。
    臆病な顔が、勇敢にも見える、顔そのもののある見え方アスペクト。表情の再解釈は、和音がある調、別の調に転調したと感じる場合と比較できる。
    →調の文脈によって和音の意味が変化する。
    再解釈。恐れは顔立ちの中に潜むが、外界に対して動じないので勇気を読み込めるとする解釈をぴったり合わせる。フランス語の述語の形容詞が主語と性が一致したことで、良い男だと解釈する。微笑みを好意悪意にみなすとき、時間的空間的状況の中に置かれているのを想像している。文脈によって解釈が変わらな

  • 系・院推薦図書 総合教育院
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    【請求記号】 134.97||WI
    【OPACへのリンク】
    https://opac.lib.tut.ac.jp/opac/volume/468141

  • flier要約

    https://www.flierinc.com/summary/2917

    ====
    やっぱり知識が無いため理解できない…
    なので面白さを感じられない。

    同じ「言葉」を使っても相手が自分と同じモノを描いているかは分からない。
    ただ同じと思って日々「言葉」を使って会話している。

    ならばなぜあまり理解出来いない別の言語をもつ者通しでも会話が成り立つのか。

    同じと思えることで成り立つこともあれば、違うと理解しているからこと成り立つこともある。

    全然分からない…

  • やっぱり難しくてよくわからないので、論考も含めて老後の楽しみにとっておくことにいたしました。っていうか老後になったらボケてさらにわからないのかもしれないなあ。残念だなあ。

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著者プロフィール

1889-1951 
20世紀を代表する哲学者。
前期の主著『論理哲学論考』を刊行後、小学校の教師を経て、ケンブリッジ大学に復帰。1946年、後期の哲学とされる『哲学探究』第一部が完成。1949年に第二部完成。以後、1951年の死の二日前まで執筆を続けた。独自の思考と文体で、今日に至るまで、高い人気を誇る。

「2020年 『哲学探究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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