貧乏大名“やりくり”物語 たった五千石! 名門・喜連川藩の奮闘 (講談社+α文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062816878

作品紹介・あらすじ

足利将軍家末裔にして、名目上は徳川将軍の臣下ではなく客分。しかし、家柄は高くても、石高は泣いても笑っても、たった五千石。大大名ですら経営苦にあえいだ江戸時代、喜連川藩の財政は火の車だった。それでも、領地を愛し、領民を慈しみ(増税はするけれど)、誇り高き代々の当主「御所様」は、あの手この手で金を稼ぎ、藩を明治まで長らえさせた。涙ぐましきその奮闘ぶりを見よ!

感想・レビュー・書評

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  •  仕事が繁忙期なこともあり、かねてより興味があった江戸時代の特殊な藩、喜連川藩について書かれた本書を手に取った。
     本書によると、徳川家光がそれまで曖昧だった大名の定義を一万石以上として以降、数千石の武将は旗本とされた。ところが、不思議なことにたった五千石の大名が存在した。奥州街道喜連川宿(現在の栃木県さくら市喜連川)の喜連川家である。しかも、喜連川家当主は徳川家康から御所号を与えられ、「御所さま」と呼ばれていた。御所号を許されたのは江戸時代の武家では喜連川家当主だけで、さらに将軍を示す「公方」の尊称が許され、十万石の家格が与えられ、江戸城に登れば微禄にもかかわらず高い家格の詰め席が与えられた。このように、喜連川家は五千石しかない貧乏藩でありながら、百万石の大大名が足許にも及ばない別格中の別格として遇されていた。
     また、石高の五千石というのも「無高」の五千石だった。無高とは幕府から「高」を賜っていないという意味だから、他の大名家のように徳川将軍家に臣下として従属するのではない、いわば幕府の客分であり、五千石でも徳川と対等な大名ということだった。客分である喜連川藩主は、幕府への忠誠の証として諸大名に課せられた参勤交代をはじめとする様々な役務が免除されていた。
     このような、定義から外れ、御所号を許された極小の藩が生まれたのは豊臣秀吉の「すけべ心」のためであり、徳川家康が特別待遇を与えたためだったが、秀吉と家康の両者に共通していたのは名家に対するコンプレックスだった。
     喜連川氏は、もともと姓が足利で、足利尊氏の四男・基氏を祖とする鎌倉公方系統の足利氏である。鎌倉公方の系統は古河公方、小弓公方に分裂して敵対したが、豊臣秀吉の時代にはいずれも力を失ったうえ、古河公方家は男系の跡取りがないため断絶の危機に瀕し、幼少の足利氏姫が擁立されていた。小田原征伐後、豊臣秀吉は城主が出奔して滅亡した塩谷氏の夫人島子を召し出した。島子は小弓公方の末裔で、絶世の美人だった。島子から古河公方家の状況を聞いた秀吉は、島子に喜連川の塩谷氏遺領を与えて側室とし、さらに氏姫と島子の弟・国朝にも所領を与えたうえで国朝を氏姫の婿とし、古河公方家を再興させた。国朝は喜連川に城主として入ったが若くして亡くなったため、弟・頼氏が氏姫と再婚したうえで後継となった。喜連川をはじめて名乗ったのは頼氏だった。氏姫は古河公方家と小弓公方家の過去の経緯にこだわり、古河鴻巣館に居続け、喜連川に入ることはなかった。
     徳川家康は、清和源氏を称した自らの家系を権威づける必要から、清和源氏の血統を権威あるものとして扱い、足利の血筋や所縁の者を優遇した。実際、家康は頼氏が拝謁後に退出しようとした時、座を立って見送るという異例の礼遇を行ったという。
     こうした経緯により生まれた喜連川藩は、せいぜい米が商品になる程度でこれといった産業がなく、宿場が大事な収入源だった。特に、喜連川では仙台藩の大名行列が大歓迎された。行列の人数が三千五百人にもなるうえ得意のお客さまであることから、宿場中が賑わって商人たちが歓迎したのはもちろん、家中の全員にお土産をくれたため家中全員で歓迎がされた。家臣たちは「仙台様の御泊り」を首を長くして待っていたという。
     地元では宿場に関する「御所さま」の話がいくつか伝えられているという。一つは、参勤交代の大名が来る日には、御所さまは奥州街道の氏家宿から喜連川宿に入る連城橋まで迎えに出たという。もう一つは、参勤交代の行列が連城橋を通っていると、橋の下で釣りをしていた御所さまが頭上の行列に向って「やあ仙台侯」と声をかけたところ、仙台侯は驚いて、無礼を詫びるとともに金一封を差し出したという。一度、仙台藩が費用節約のために喜連川を迂回して参勤交代したときには、大事なお客に逃げられ、宿場は当てが外れたため、御所さまは参府の義務もないのに江戸に上り、仙台侯に嫌味を言ったという。著者はこれらのエピソードを実際にはありえないことだとしつつも、貧乏な小藩の御所さまが領民のために頑張ってくれているというイメージが伝えられたものだと述べている。
     御所さまと奉られていても、それに見合った石高を与えられていない喜連川では財源の確保に苦労した。財源確保の一つが入酒法度で、酒は他藩から入れてはいけないとされ、宿場の旅籠や茶屋で出す酒は藩内の蔵元「駿河屋」の酒を使うことが義務付けられていた。独占営業の駿河屋は奥州街道一の酒造家となった。もっとも、御所さまが財源確保に血眼になっていたのは自分が贅沢をしたいからではなく、領民の暮らしを良くしたいためだった。御所さまは、他の大名が行ったような借金の踏み倒しをせず、領民に過度の負担を強いることもなかった。喜連川藩が善政を敷いていた証拠に、その二百八十年の歴史を通じて大規模な騒動や一揆の記録はひとつもないという。
     御所さまは、名門の誇りゆえの家臣や領民を労る優しさで、それぞれの暮らしが成り立つように心を砕いた。例えば喜連川の荒川、内川は鮎釣りの名所だったが、家計の足しになるようにと下級藩士のみに鮎釣りの鑑札が与えられた。
     また、六代・茂氏の頃の喜連川は、「賊徒界に入らざること三十年」で女子供などは「賊徒の何者たるを知らざる」という平穏さだったという。これは領内の警備が行き届いていたためではなく、門閥や身分にこだわらず有能な人材が登用され、不満や鬱憤がなかったためだった。そして、茂氏は民の声に耳を傾け、貧しい者を励まし、農業にきめ細かく気を配ったので、飢える者が出ることはなかった。
     名君と呼ばれる十代・熙氏は、領内を視察して実情を把握するとともに、領民とのコミュニケーションを図るため、巡回して領民に優しい言葉をかけて労り、金や物を与えた。飢饉では、備蓄したものを配り、金蔵の金を分け与えることで、領民を一人も餓死させなかった。「人々が困窮することは全て我が罪である」と常々思っていた熙氏は、領民が貧しさに苦しむことがないように心を砕き、困ったときの相互扶助システムとして義倉を設置した。さらに、城下に水路を通す工事を成し遂げ、新田開発に活かすとともに市街で水の不便なところをなくした。旅人の負担を少なくするため、難所だった急な坂を削る改修工事が行われ、水戸藩の弘道館開設に先駆けた藩校の設置も行われた。
     幕末から明治にかけて、喜連川家は細川家、水戸徳川家、宮原家からそれぞれ養子を迎え、足利の血統は途絶えることとなった。戊辰戦争では、喜連川家はもともと勤王なうえ、十二代当主の縄氏が勤王の水戸藩出身だったため、喜連川藩はいち早く新政府側につき、会津征討に加わった。五千石の貧乏所帯では、フランス式の喜連川藩兵は一小隊ですべてだった。
     明治元年、縄氏は喜連川から足利への復姓を宣言した。そして、十三代・聡氏が版籍奉還を行うことで、長年頭を悩ませ続けてきた貧乏藩の経営から解放されることとなった。十四代・於菟丸は華族令の施行で子爵となり、以降の喜連川家は水戸家の血統でもって現在に至っている。
     著者は次のように述べて本書を締めくくる。
    「五千石ながら足利家を継ぐ御所さまとして約二百八十年の間、小藩の経営に当って来たことは誇りとすべきである。時には独り善がりで空回りし、頓珍漢なこともあり、時には痩せ我慢もし、領民に助けられたこともあったが、喜連川では、他の藩でしばしば見られたような大きな騒動や一揆がなかったのだ。
     それは、政治的な資質というよりも、使命感であり、自分のことはさて置いて、領民第一に考えて治世を行ったからである。歴代、それが自然にできたのは、『生まれ育ち』による『品性』なのかもしれない。」
     本書で書かれた喜連川藩の奮闘は、規模が小さく弱小とされる組織でも気概を持ち続け、知恵をしぼり、努力することをやめなければやっていくことができるのだと、勇気を与えるものだった。本書は学術書でないため、記述には多少その論拠が気になる箇所があるが、そんな歴史もあったのかと、固いことを言わずに気楽に読むには楽しい本だった。

  • 前半の小大名の話が面白い。
    規模が小さいほど非効率になるのは当然なので一万石とかの大名は大変だろうと思っていてが、よく250年も続いたものだ。
    喜連川藩は色々と免除してもらっていたのと名門を売りにしてなんとかやっていたのか。幕末の藩主煕氏はやる気のあるが空回りする大名の例。
    五千石となれば家臣領民とも身近だろうに何故こんなにも空回りをという印象。

  • 作者は喜連川藩の関係者か何か?そう疑いたくなるほど、めちゃくちゃ肩をもつ。賞賛する。
    たまたま足利の末裔で、家康の「お気に入りのお手付き」をもらったこともあって贔屓を受け、参勤交代や普請の免除をされてたからやっていけたってだけだろう。内容をよく読むと大したことはやってない。
    作者は煕氏がお気に入りのようだが、こういう八方美人を上司に持つと下は苦労するんだよなあとしか思えなかった。
    他にも足利支流の藩はあったようだが、この贔屓ぶりと増長ぶりをどう思っていたのかなあ。
    最後に断絶したのは単に運が尽きただけだろう。水戸藩に乗っ取られたという書かれ方は非常に腹立たしい。

  • 小説かと思ったら歴史読本だった。

  • 28年12月8日読了。
    足利尊氏の末裔、徳川幕府統治の世であっても、御所様と呼ばれ将軍の客分。そこいらの殿様とは違うぞと言いながらも、石高はたったの5000石。どんなに足掻いても キュウキュウの生活しかできない。涙ぐましい喜連川藩殿様のやりくり物語。幕末、名君といわれた10代藩主煕氏(ひろうじ)は、様々な施政で領民、家臣の生活を支えた。 名君らしいエピソードに隠れるように、笑える?マークな話が、面白かった。殿様はいたって 真面目に采配を振るってたんだろうけれどいかんせん、世間とはずれていた 。喜連川藩280年の奮闘物語。

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著者プロフィール

高知県生まれ。中央大学商学部卒。文献・史料を渉猟し、歴史に埋もれた人物・逸話を蒐集、歴史読み物から小説まで多くの著作を発表している。『実録江戸の悪党』(学研新書)、『徳川将軍家の真実』『家康の家臣団天下を取った戦国最強軍団』(学研M文庫)、『大名の家計簿』(角川SSC新書)、『謎だらけ日本の神様仏様』(新人物往来社文庫)

「2016年 『殿様の食卓 将軍の献立から饗応料理まで』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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