仮往生伝試文 (講談社文芸文庫)

著者 :
  • 講談社
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感想 : 9
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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062902786

作品紹介・あらすじ

現在もなお、最先端をひた走る古井文学の最高峰、初の文庫化。言葉とは、生とは、死とは何か。日本語の可能性を極限まで広げた傑作!

感想・レビュー・書評

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  • 自身の好みとして読みづらさに頓着は無いが、それでも読者への最低限の優しさは求めたいところ。
    古井由吉は大好きだが、たまに見られる彼のこの手の随想寄りの作品は、グルグル堂々巡りの想念がどこにも引っ掛からず、スルスル頭を通り過ぎてしまう。

  • たまには純文学をと思い、以前から気になっていた古井由吉作品のなかから本作をチョイス。……なのだが、本作は典型的な純文学というわけではなく、そもそも小説と呼んでよいのかどうかさえさだかではない。まず、タイトルの意味はなにか。「往生伝」とは、平安後期に記録されている聖人たちの極楽往生の様子のことである。いわばその現代版が本作にあたる。こう書いてもなんのことだかわかりにくいが、じっさい読んでみてもよくわからない。そして、構成もまたわかりづらく、本作は各章ごとにまず「往生伝」が登場したあと、それにかんする著者の論攷が入り、さらに随筆風の日記という特殊な形になっている。さきほど小説と呼んでよいかどうか迷うと書いたのは、この特殊な構成が原因である。なにせ、平安時代の僧の往生の話題が、イキナリ競馬場を散策しながらボンヤリと考えごとをする段に移行したりするのである。(余談だが、本作にはかなりの競馬場にかんする描写が登場し、著者の競馬好きのほどがうかがえる)いちおう読売文学賞は「小説賞」として受賞しているのだが、個人的にはこの随筆調の部分がもっとも印象深い。全体的に読みやすくはないのであるが、支離滅裂なことを書いているわけではないので、叮嚀に読んでみると、わりと頭にストンと入ってくることも多い。人間、誰しもが自分の「最期」について、1度は考えたことがあるのではないか。わたしもまだ26歳ではあり、そこまで真剣に考えたわけではないが、なにかのきっかけでそういったことに思いが至ったことはある。本作を読んでそういったことをもう1度考えてみれば、往生にかんして読んで往生を考え、それについて読むことでさらに往生について考えることになる。こういった積み重ねというものが、けっきょくのところ「往生」とはなにかということの本質を突いているような気もする。残念ながら100%理解できてはいないが、文学賞にふさわしい傑作であることはたしかだ。

  •  1989(平成元)年刊。52歳の頃の作品である。実はほとんどリアルタイムにハードカバーで購入し、私が遥か以前から親しんできた『眉雨』と同年に刊行されたようだ。しかし、『眉雨』とは結構がまるで異なる。
     はじめ連作短編の形かと思って読み始めたのだが、前の章に記述された内容を直接言及する箇所が出てきて、これは長編小説なのだと気づいた。とはいえ、もちろんこの頃の古井さんの作品だから、大がかりな物語らしいものは全く存在せず、最初の方はことに随筆のような姿をしている。
     この作品の特色は、僧などの「往生」を採録した国内の古い文書を参照して紹介するような書き方で、カギ括弧もなく地の文に古語が紛れ込んでいるような風合いがある種のテイストを発生させている。さらに、ときどき話者(完全に古井さん自身と見られる)の「日記」が挿入される。この日記の箇所は、地の文の文脈と離れていたり、明白に呼応していたりする。異種のテクスト間を往来するような文章ストリームである。
     「往生=死」をひたすら巡る内容で、古井さん自身があとがきに記すように、循環する主題はかなり「辛気くさい」。この辛気くささを受け入れられるかどうかによって、この作品についての好悪が分かれるだろう。ここで言及される「死」は主に病死・衰弱死であって華やかな殺人・自殺ではなく、音も無く入滅するような地味なものである。奇しくも執筆時の作者と私は同年齢なので、身体のめざましい老化を感じ、それに続くだろう自然死に思いを巡らすような心理を理解は出来るが、このひたひたと執拗に「往生」に思いを凝らす雰囲気はかなり鬱病的でもあり、読むのはなかなかしんどかった。文体は相変わらず前衛的な冴えを見せて見事なものだが、展開される心象風景の色は何やら閉塞感につきまとわれてしんどいのだった。
     この作品の興味深いのは、「古文」「日記」「現在的な記述(随筆的な地の文)」という3種のテクストを往来する構造が、最後の方の章ではしばしば消失し、そこではもはや、文脈のいかなる差異も、自分自身の「往生」へ向かう主体の統合性へと回収され尽くし、万事が一体となって静かな死へ向かうのだ、という境地に達したのだと窺われる点だ。
     そういう点を考慮しつつ本作を再度最初から吟味し直せば、この作品の先鋭的な構造をさらに解読しうるのかもしれない。が、何か重ったるいしんどさに圧倒されて、そこへ再び自身を投じようという勇気は、今は湧いてこない。

  • 古井由吉は難解と言われる。確かに、この『仮往生伝試文』はとっつきやすい作品ではない。ヤマを備えたカタルシスを約束してくれるストーリーが存在せず、ただストイックに過去の往生が綴られ、現在を見渡した平明な中に深遠な思索が綴られるからである。私にとってこの作品はタルコフスキーの映画にも似た叙事詩として映る(映画オンチにもほどがあると一笑に付されそうだが)。しっとりとしたエロス、時に垣間見せるユーモラスな側面、そして豊穣な日本語それ自体が見せる陶然とさせるトリップ感。何度読んでもそれらの要素たちは「消費」できない

  • 芥川龍之介の芸術至上主義は
    究極的には自殺という形に向かうしかないものだった
    芸術のために人を焼くほどの傲慢さを持ち得ないならば
    自己完結するしかエゴのやり場はないからだ
    その芥川が、初期作品の執筆において多く参照したのが
    日本の古典文学である
    「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」などだ
    それらを近代的な切り口から解釈していくことで
    彼は、新しい人のあり方を探ったのだった

    時は流れて1980年代後半
    古井由吉もまた、日本の古典に新たな解釈を加えて
    ひとつの作品とした
    部分を見れば随筆だが、全体を見れば小説ともとれるもので
    奇妙な印象を残している
    芥川が主に世俗の話を扱ったのに対し
    古井は「往生伝」にこだわった
    すなわち仏教聖の死に様について、である
    自然死もやはり究極的には自己完結と呼ぶべきものだが
    ここではどちらかというと
    死にゆく者と、それをとりまく人々との関係性を問題として
    相対的に、自己完結の凡庸性を浮き彫りにしようとする
    孤独死が問題とされる現代の視点に立つならば
    残酷な観念と呼ぶべきかもしれない
    しかし死の後始末というものがやはり人間関係であるとすれば
    人の目を逃れて自己完結を遂げるのもなかなか難しいことだろう
    そういう意味で、全ての死は往生たりうるのではないか
    芥川の死を見てもそうだ
    人間の内面が一種の密室である以上
    自殺とは常に特権的な死の可能性を秘めていて
    人の関心を集める
    具体的な呪いを後に残さぬ限りにおいては
    個人的な自己完結もやはり、極楽往生になりうるわけだ

    往生とはつまり凡庸な死であり
    死は人の目についた時点で凡庸なものとなる
    おそらくそのような定義に到ったのであろう古井由吉は
    えらい仏教僧の死と、例えば競輪場に群れ集うおっさんたちの死を
    並列化していくのだった
    それは、人類みな平等の願いに
    ひとつの筋道をつける試みではあったかもしれない
    しかしどうだろう
    生きてるうちが花でもある
    競馬ファンとしても知られた古井だが
    勝ち馬と負け馬が平等たりうるなどと思っていたわけではあるまい
    そして負け馬にも負け馬の矜持ってもんがあるのだ

  • 苦行。一言で言うなら感想はそれに尽きます。読了にこんな時間がかかったのは久しぶり(読み始めたのは4月…)。何度も途中で投げ出そうと思ったけど、根っから貧乏性のこの俺ときたら(@長渕)、無駄に高い料金設定(文芸文庫の格調を高めるため?)に未練を感じてしまい、泣く泣く頑張り続けた次第。
    ”お金より自分の時間が大切”って意見は百も承知の上で、それでもこれを読んだら何かが起こることを信じて闘いました。挫けそうになったとき、内田樹著「読書論」を読んでみたり、ネット上に書かれた読者感想をつらつら眺めてみたり、何とか取っ掛かりを掴もうともがいたけど、結局無理でした。そもそも読むことにしたきっかけは、福田和也書評における最高得点。もうあまりあてにしません。
    ”なぜこんなにも楽しめないんだろう?”って、ずっと自問自答していたけど、一つの理由としては、これは小説じゃなくてエッセイだってこと。ジャンルとしてのエッセイが個人的苦手分野ってこともあり、それなりに大きな理由かも。あと、通底するテーマが見えづらく(理解力+注意力の問題もあり)、散漫な印象が強い点も辛い。
    ちなみに、これだけ酷評しながら☆3つにしているのは、頑張った自分に対するご褒美です。実際の内容に対してとなると☆は2つ。

  • 異常に難解なようでいて実は何もないのではと思いながらも数年読み続けて今に至る。読むたびに首を傾げ続けているので愛読書とは呼べまい…。
    引用されている古典には全て出典があり、日記も天気や旅行などが連載時期に一致するし、幼少のエピソードなどは古井の他作品にも見つかるものがある。これをフィクショナルな次元と現実の往還と呼ぶべきなのか、しかし古典の間接引用をどこからがフィクションと呼ぶべきなのかわからない。
    かといって佐々木中が書いているような言葉の問題なのかとも思えない。それは単なる形式の問題にしか思えないし、謎である。意味と形式がごっちゃになってすんなりとした理解を妨げてるのか。かといって理解出来んし読む価値なし、とも思えないところがまた謎である。
    過去にNHKで本作について古井自身が語った番組があるらしいのだがアーカイブを見るのにべらぼうな金額を要求されたので未見。見たところでどうなるとかいう話でもないんだろうが。
    福田和也のおかげで評価が高いんだよね、これ。福田はガチガチの論考でも書いてくれんかな。

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著者プロフィール

作家

「2017年 『現代作家アーカイヴ1』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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