愛 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065170472

作品紹介・あらすじ

本書でわたしは、「愛」の本質を明らかにした。性愛、恋愛、友愛、親の子に対する愛……。愛にはさまざまな形があるが、これらはいずれも、本来まったく異なったイメージを与えるものである。にもかかわらず、なぜこれらは「愛」の名で呼ばれうるのか?
それは、そこに「愛」の、ある“理念性”の本質が通奏低音のように響いているからである。性愛も恋愛も友愛も親の子に対する愛も、その「愛」の通奏低音の上に、それぞれ独自の音色を響かせているのだ。本書の目的は、これら「愛」の名のもとに包摂されるありとあらゆる「愛」の本質を明らかにすることにある。
「愛」とは何か、そしてそれはいかに可能か? これが、本書でわたしが挑み、そして明らかにした問いである。

 

感想・レビュー・書評

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  • 2002年に『幸せについて本気出して考えてみた』という楽曲をポルノグラフィティがリリースしているが、本書はまさに’愛について本気出して考えてみた’と言うべき一冊。

    言葉のニュアンスの上では「愛」と「恋愛」は何となく違うものかな?ぐらいのボンヤリとした感覚はあっても、その違いを言葉で説明出来る日本人が果たしてどのくらいいるだろう。

    日常において氾濫する「愛」について、哲学の視点から鋭く整然と簡潔に考察が述べられている。

    実生活において’君の言っていることは愛ではなくて愛着、いやむしろ執着だよ’なんて指摘する場面はまず無いであろうが、知っているのといないのとでは例えば愛をテーマにした物語に触れた時、音楽や絵画に触れた時に作者の’真意により近い’受け止め方が出来るのではないだろうか。


    本書中で心に残ったフレーズは結構あるが第三章の

    「恋に落ちた時の胸の高鳴り、それは、わたしがこのわたし自身の憧れを知り、そしてその憧れを、この世界に見つけてしまった驚きであり喜びなのだ。」(p115)

    という一節はとみに好き。

    第五章、

    「わたしの存在がそのままにおいて承認されること。」(p204)、「親、保護者、教師などの一つの存在意義は、ここにこそある」(p205)

    という部分も大いに頷ける。


    自分が自分を愛せる為にも、はたまた他者を愛せる為にも、本書を通じて一度は’愛について本気出して考えてみる’のも如何だろうか。


    エーリッヒ・フロム『愛するということ』も書籍化されているならば読んでみたい。



    1刷
    2022.3.1

  • 少しずつしか読み進められなかった。私にとってタイミングが合っていなかったのだろう。愛(特に性愛)を他者の言葉でしたり顔で語る季節は遠くに過ぎ去ってしまい,今はもう愛を自分の枠組みの中で収めてしまっている。基本は自己の拡張であり,対象を自分の一部であるかのように大切にする行動を導くものが愛だろう。自分が自分を大切にできないなら愛することは難しい行為。自分を大切にするためには大切にしてもらう体験,つまり愛された経験が必要だろう。愛が普遍的なものであるならば,社会装置としての愛概念ではなく,生物学的な基盤があると思う。誰かを何かを愛しているか?誰かに愛されているか?どちらの問いにも確信を持って答えられないし,答えられる時がこれから訪れるという確信もない。しかし,自分にとっての愛は何かを考えることは,生き方に大きな影響を及ぼしそうだ。愛に基づく仕事,愛に基づく人間関係,愛に基づく趣味,・・・一種の孤高の職人をイメージさせる。

  • 僕はもっと生きないといけない!生きてみたい!と強く思った。このような愛があるのなら、生きて確かめたい。25歳の僕はまだ、そこまで愛を経験していない。

    「わたしとあなたの境界線は、いくらかおぼろげになる」ほどの極限的なエロティシズムとしての性愛。
    自分の命と引き換えにしても、我が子を守りたいという親の愛。
    「愛する妻がまだ生きているかどうか...それは、わたしの愛の、愛する妻への思いの妨げにはならなかった。」と言ったフランクルの極限状態での愛。

    このような愛を自分もいつか経験できると思う。彼岸的な理想ではない。自分の意思で育てていくべきものだ。もっと自分の人生を生きてみたい。

  • 愛とは何か?それはいかにして可能か、という問いはまさに今自分自身が考えるべき問いだ。

    読み終えたときに、その瞬間の自分なりの答えのようなものを求めて読み進めた。


    内容は、すごく哲学的でわかりにくい。
    だからこそ、そこに包含される意味合いは読み手によって変わり、同じ読み手であってもその読むタイミングによって変わるのではないかと感じた。
    正直、今はよくわからない部分が多かった。

    愛というテーマについて考えるには、とても良い本だと思うから折をみて読み返したい。

  • 愛とは何か?

    この深い問いに哲学的アプローチで答えんとする本著。

    最終章とあとがきで収斂された一つの回答は、非常に説得力のあるものだ。

    思えば、小中学の頃、「自分は誰のことも嫌っていない。人を嫌うなどできない」と嘯いていた時期が私にもあった。それは苫野先生が唱え、後に否定した「人類愛」に通底するものが多少あったように感じられる。私のそれは、「誰からも嫌われたくない」という思いの反動だったに違いない。

    私も、子の親となり、苫野先生が本著で説く愛の本質に迫っているように思われ、そのことを本著が言語化してくれたことで幾分スッキリしたようにも思う。

    やや難しい点もあるが、その分読み応えもある。
    ぜひ。

  • 「ほんとう」の愛とは?
    それはいかにして可能か?
    友愛、性欲、性愛、恋、恋愛、キリスト教の無償の愛などとの違いは何か。
    それぞれの言葉の使い方や自らの体験を道具に、考え抜いていきます。
    著者20年の思索の結果が解き明かす、愛のすがたとは?
    深いところまで徹底的に考えていく哲学書ですが、難しすぎず、分かりやすく、丁寧に書かれています。
    お勧めです。

    確かに、わたしたちは、“真の愛”と呼びうるような「愛」に浸されている時、それが無 条件の「愛」であることを感じる。わたしは、この人が美しいからとか、才能があるからとか、わたしを愛してくれているからとかいった理由によって愛しているわけではない。わたしはこの人を、この人がこの人であるがゆえに愛しているのだ。それゆえ、もしこの人が美しさや才能やわたしへの愛を失ったとしても、わたしは変わらずこの人を愛し続けることができる。“真の愛”において、わたしはそう確信することができる。
    しかしこのことは、わたしたちは何の理由もなく誰かを愛することができるということを意味するわけではない。愛ははじめから終わりまで徹頭徹尾“無条件”であると考えるのは、柔な愛の理想にすぎない。
    だれかを愛するには、結局のところ理由が必要なのだ。この人が美しいからとか、同じ魂を共有しうる人だからとかいった理由で、わたしはだれかを愛し始める。
    しかしひとたびわたしがだれかを心から愛したなら、わたしは確かに、その理由や条件を置き去りにすることができるようになる。わたしはかくかくしかじかの理由でこの人を愛しているのではない。この人がこの人であるただそれだけゆえに、わたしはこの人を愛しているのだ。わたしはそのように確信することができる。
    なぜか?
    ー「意志」のゆえに。
    「無条件の愛」とは、だれかを愛するのに条件は必要ないという意味ではない。それは、ひとたびだれかを愛してはじめて、その愛に条件などないと意志しうるものなのだ。
    209-210ページ

  •  タイトルは,そのものズバリの「愛」。なかなか手に取ってみようという本ではありません。それでも,読んで見ようと思ったのは,あの苫野一徳先生の著書だからです。
     苫野さんの本は,『ほんとうの道徳』など,先に読んでいました。諸々の哲学者の話がでてくるのですが,それがとても上手に引用されていて,わたしのような哲学シロウトにもわかりやすく解説してくれるんです。それで,哲学への壁も少し低くなった感じがしていました。『ほんとうの道徳』は本当に読みやすく,分かりやすかったので,同僚にも紹介しました(うちの学校は,今年,道徳教育の研究発表校なので,ここは,道徳の基礎基本として読んでおいてほしいと思ったのでした)。
     さて,本書の感想です。
     先に紹介したように,本書の中にも様々な哲学者やちょっと違った分野の本からの引用があるので,パラパラめくっただけではちょっととっつきにくく思います。
     がしかし,そこは苫野さん。ご自身の体験を入れたりして,「ほんとうの愛」について哲学してくれます。
     こういう文章に慣れていて,しかも理解力のある人にとっては,「また,この表現の繰り返しかよ」と思われるかもしれませんが,わたしにはちょうどいい繰り返しでした。そのくり返される言葉とは,たとえば次のようなセンテンスです。

     それがどのような「愛」であれ,それを「愛」と呼びうるならば,その根底には必ず「合一感情」と「分離的尊重」との弁証法がある。そしてそれは,より高次の愛になればなるほど,「存在意味の合一」と「絶対分離的尊重」の弁証法へと高まっていくー。(77p)

     様々な「愛」を解きほぐしていくときに,この二つの言葉が随所に登場してきます。その他にも,同じ哲学者の引用文が何度が登場してくるので,「なるほど,この文章はこういうことをいいたいのだ」と分かってくるのです。おそらく,カントやキルケゴールやニーチェ,ハイデッカー,ヘーゲル等の本を読むよりも,本書を読んだ方が,「だれがどんな風に愛を語っているのか」がよく分かると思います。
     それにしても,哲学書が読みにくいのは原書がそうだからなのか,それとも訳書がそうだからなのか。ま,わたしにとっては『源氏物語』も読みにくいので,興味関心の置かれている場所なんだろうけれどもね。

     というわけで(どういうわけだ!),本書は,『哲学入門「愛」編』という感覚で読めると思います。

     最期に,教師と教え子との関係について…わたしの心にストンと落ちた文章を紹介します。

    ”教え子”。これもまた,倣岸な言葉である。彼/彼女の成長は,何もこのわたしの教育のおかげだったわけではないだろうに。
     しかし,それでもなお,「教育愛」において,わたしは,彼/彼女はわたしの大事な”教え子”であるという思いを抱かずにはいられない。それは,理念的というよりは現実的な「歴史的関係性」の中で育まれた,少し先を行く者の,まだその道を歩み始めたばかりの者に対する情愛である。
     このような情愛,その「合一感情」は,言うまでもなく,教え子をこのわたしの思い通りの存在に形作りたいとする欲望とはまったく相容れないものである。古代ギリシアの少年愛について論じた際にも述べたように,そもそも教育とは「分離的尊重」なくしては成り立たない行為である。相手を自分の思いのままに形作るのであれば,それは教育ではなく調教である。教育者は,”教え子”への「教育愛」などと気楽に呼んでいるものが,じつは愛の皮を被った調教欲望でないかつねに省みる必要がある。(214p)

  • 苫野 一徳さんの『愛』を読む。

    ちょうど妻と暮らし始めて一年少しがたった。

    私たちの間にある愛が成熟しつつあることを感じている。

    著者が、大学時代「人類愛教」の教祖になったように、
    私も、「あらゆる存在と生命の全ては根源的には絶対的に肯定されていて、その根源に愛がある」という啓示を受けて、その肯定の感覚があまりにも喜びに満ちていたので、何百何千もの詩を書いて、
    それを本にしたりとかやってた。

    きっかけは、ドイツ語の単位が取れず留年が決定し、サークルの多忙な仕事に追い込まれ、SNSで四方八方からくる心ない言葉に打ちひしがれ、世の中の矛盾を突きつけられ、そして失恋という「人生全否定しかない」というような状況の時、
    ジョン・レノン・ミュージアムに行って、
    そこで、
    「心を開いて『イエス』と言ってごらん。」
    という言葉に出逢ったことが私にとっての一つの「回心」だった。

    心に傷を抱え孤独に悩み苦しんだジョンが発する、
    それでもなお心を解放させて祈るように歌った人生の肯定と愛は、
    この世の中の一切支えどころの見出せない私の存在の奥底に染み渡った。

    ジョン・レノンは、キリスト教や哲学よりも雄弁に私を勇気付けてくれた。

    しかし、私は決してジョンを崇拝せず、
    私にしかできない形、
    私にしかできない表現で、生命や愛を表現したかった。

    苫野先生と同じく、
    私もやはりあらゆる宗教や思想、芸術の根源には形は違えどこの「生命に対する絶対的肯定、絶対的愛」があるのだと、ある種の神秘的な恍惚、高揚感、悟りにも似た直観があった。

    そしてそれはもはや宗教を超えた宗教だった。
    あらゆる宗教的な形態に還元できない、生命、喜びそのものに浸り切り、
    私はその形態の根源にいた。

    クリスチャンでもなかった私は、思わず教会に行ってこの偉大なる生命の肯定に感謝を捧げていた。

    それこそ、私は、天上に引き揚げられたかのように、あらゆる事物の根源を悟ったと錯覚すらした。

    ところが、苫野先生はその後「劇鬱期」に突入し、
    「人類愛は世界の真理などではさらさらなく、私自身の孤独の苦悩を打ち消したい欲望によって作り上げられた幻影だったのだ」
    と人類愛の思想を捨て去る。

    カルトの教祖の多くが、人生のどん底において、時に霊的なビジョンも伴う「無限の生命との一体感」という体験をして教祖になるそうだが、これは心理学では「躁的防衛」というそうで、
    その躁的な興奮や高揚感がないと、弱り切った自我は自殺しかねないわけである。

    時折、孤独や苦悩を埋め、救ってくれるものとして「恋」が登場する。
    恋の幸せな感覚も、「自己ロマンの投影とそれへの陶酔」なのだ。
    そして、恋は互いに「完全に一つになる」ことを欲する。

    そして、恋こそが生きる意味で、
    この恋さえ成就すれば、自分の人生は全く違ったものになる、と幻想を抱く。

    恋は、失われた自分の真実を取り戻すための旅だ。

    幸いなことに私の恋はまるで神がかったように成就した。

    その恋は、求めて得るものではなくて、
    「育てていくもの」に変わってきた。

    幸せの質は変化したように思う。

    成熟した愛は、
    他者を絶対的な他者とみなしながら、限りなく尊重する。
    絶対的な他者でありながら、絶対的に一つなのだ。

    「分離感情」と「同一感情」が弁証法的に一つになっている。

    教会で、
    愛は「撞着的特性」を持つと教わった。

    愛とはその人自身の存在を喜ぶこと。
    共にいること。
    別々の自由な存在であることが尊重されながら、一つであるということ。

    苫野先生の哲学者として語れる愛はここまでだが、
    信仰を持っている私にとって、もう一つの愛について。

    祈りと呼べるものかどうかはわからない。
    歩いている時、何か日常の作業をしている時に、ふと立ち止まって、
    波のように神の慈しみの眼差しを感じる。

    そして、「ああ、神さま」とふとつぶやく。

    心が陰鬱な時でも、少し心を開くと、私を超えた存在がそばにいてくれる。
    いや、私たちが祈り意識する前から、神はすでにそこに待っている。

    それが恍惚で全てを一気に変えてしまうものであるケースは多くはないし、
    なにかの講演会やセミナーのようにテンションが一気に上がるものでもないが、
    それはたしかに深いところで、静かになされる美しいことだ。

    キリスト教において、神の愛は哲学でなく、
    神が自分の子どものために自分の命までも惜しまない、
    それこそ、「はらわたがよじれるほどの」血潮滴る圧倒的に迫ってくる愛だ。

    特攻隊が愛する人たちと後の人の平和を祈りながら死んでいった高貴さ、
    青鬼が愛する友のために、自ら殴られ血を流し、それでも友を信頼して置き手紙をしていったこと、、、。

    人間としてもっとも素敵な生き方、生命の使い方は、キリストの生き方と死に方に見いだすことができる。
    そして、死が虚しさや終わりでなく、裏切ることのない希望であることも。
    そこに、私たちは、「神の愛」を見る。

  • ○真の愛とは
    →「存在意味の合一」(「この人と一緒になりたい」「支配したい」という情念であると同時に生命的なもの)と「絶対分離的尊重」(「この人の存在をずっと感じて生きていたい」「この人の行く末を共に見ていきたい」という文化的、社会的、人間的な理念)の弁証法
    →その先にある自己犠牲的献身

    ○「真の愛に条件はない」
    →「誰にでも条件なく湧き上がるもの(という意味での人類愛)」ではない
    →愛とは「意志するものである」
    →この人がこの人であるがゆえに「無条件で愛する」と「意志するもの」

    ○真の愛は可能か
    客観視、承認が必要

    性欲を切り離した「愛」というものの言語化
    「過度なルサンチマンからは愛が生まれない」


  • 愛 苫野一徳

    はじめに

    ■人類愛
    かつて,わたしは全人類を愛していた.「人類愛」.その愛をわたしはごく単純にそう呼んだ.当時のわたしには,すべての人類が,互いに溶け合い,結ばれ合った姿が,ありありと,手で触れられそうなほどの確かさを持って,見えていた.そのイメージは,わたしには「愛」と呼ぶほか言葉の見つからないものだった.(p6)

    ■崩壊
    しかし哲学とは,本来,まず何をおいても自らの確信を確かめ直す営みである.自身の信念や思想を問い直し,それが真に普遍性を持ちうるものであるか吟味する.(p11)

    ■バタイユと「連続性」
    ジョルジュ・バタイユの,「連続性のノスタルジー」.人間は,他者から隔絶した一個の個体として生きている.この世界にただ一人投げ出され,孤独に死んでいく不連続な存在.しかしそれだからこそ,わたしたちは「失われた連続性へのノスタルジー」を底に抱きながら生きている.つながり合うこと,1つになること.そのような欲望を,わたしたちは絶えず滾らせている.この欲望を最も高い次元で実現するもの.バタイユによれば,それが人間的エロティシズムであり,宗教である.「性活動において他者は,絶えず連続性の可能性を与え続けている」(『エロティシズム』170頁).宗教の本質は,「失われた内奥性(連続性―引用者)を再探求することにある」(『宗教の理論』74頁).人間的エロティシズムは,2人で1つに溶け合った私たちに,私たちの生が実は「連続性」の中にあるべきもので合ったことを告げ知らせる.同様に,宗教的恍惚は,わたしたちを聖なる「連続性」,別言すれば,全生命体の連続的な混沌へと誘う体験にほかならない.(p12)

    ■それは孤独の反動だった
    「連続性へのノスタルジー」とは,じつのところ,「われわれは不連続な存在である.したがってある連続性の世界がある」という,死や孤独の不安を打ち消す願望によって描き出された虚構的ロマンなのではないだろうか?(「Aがあるならば,その反対概念Bもまたあるにちがいない」という反動的ロマン!)(p16)
    このことは,わたしの「人類愛」にもそっくり当てはまる.
    世界は苦悩に満ちている.したがって,苦しみのない愛に満ちた世界がある.
    人々は互いに蔑み合っている.したがって,互いへの愛に満ちた世界がある.
    わたしは孤独である.したがって,人類が結ばれ合う愛に満ちた世界がある.
    ―わたしに「人類愛」の霊感を与えたもの,それは実はわたし自身の孤独の不安や苦悩だったのではないか?(p16)

    ■「愛」とは何か?
    「人類愛」とは,世界の真理などではさらさらなく,わたし自身の孤独の苦悩を打ち消したい欲望によって作り上げられた幻影だったのだ.(p17)

    第1章 「愛」の哲学序説

    ■愛されないわたし
    わたしの「人類愛」は,わたしの孤独,不安,苦悩によって生み出された反動的ロマンだった.すなわち,満たされなさの反動によって思い描かれた,理想の世界.(p20)
    この世界は矛盾に満ちている.いくつもの正義が,我こそが正義であると主張し,互いに争い合っている.そのことに,若きヘーゲルは心を痛めた.古くはキリスト教とイスラムの,またカトリックとプロテスタントの,血で血を洗う争いがあった.近代以降においても,資本主義と社会主義の戦いや,宗教原理主義の戦いなどを,私たちは目撃し続けている.これを調停できるのは,愛を置いてほかにない.二十代のヘーゲルはそう考えた.(p21)
    愛はたしかに,人々の間に通う「合一の感情」だ.しかしそれは2人や数人,せいぜい小集団の中で通い合うだけで,それ以上には広がらないのではないか.つまり,愛はもともと狭い範囲にしか通用しない.(p22)
    愛による世界調停は,あまりに非現実的な理想にすぎないのだ.
    わたしの苦悩,わたしの不安,社会の闘争,世界の矛盾….これらの問題を抱え込んだ若者は,時に,それらを一挙に解決しうる反動的ロマンの世界を夢に見る.ヘーゲルの「愛」しかり,わたしの「人類愛」しかり.「絶対の正義」や「絶対の真理」などと呼ばれるものもまた,そのひとつの類型である.(p23)
    素朴なロマン主義:人類は互いに愛しあえるはずである(p23)

    ■愛の騎士
    愛の理想理念化:素朴なロマン主義が個人の素朴な信条を踏み越えて激烈な当為となって自己や他者へと迫っていく類型である.(p24)
    しかし彼がやがて思い知ったのは,この愛は,じつはおのれの単なるエゴイズムであると言うことだった.より直截に言えば,彼はただ,おのれの性欲ゆえに恋人を求めていたに過ぎなかったのだ.男女の愛など,所詮はエゴイズムである.しかしこの世には,そのようなエゴイズムには決して回収されない愛があるはずだ.(p25)
    恋の挫折は,その反動から倉田に絶対愛の希求をもたらした.倉田は自身の思想を,愛の理想理念へと展開したのだ.(p26)
    倉田の愛の思想は,素朴なロマン主義を踏み越えて,自身にも他者にも絶対利他の当為を迫る,典型的な「徳の騎士」へと至ったのだ.(p27)

    ■ロマンに敗れたニヒリズム
    有島もまた,倉田同様,おのれの愛の中にエゴイズムを嗅ぎ取ることになる.「わたしは明らかに偽善者だ」.そう気づいた有島,しかし倉田のようにその反動から絶対の愛を希求するのではなく,むしろ愛とは,そもそもにおいて徹頭徹尾エゴイスティックなものであると考えるようになる.要するに有島は,ロマンに敗れたニヒリズムに陥ったのだ.(p27)

    ■これらは「愛」の幻影にすぎない
    わたしたちは,確かに生の満たされなさゆえに絶対の「愛」を希求することがある.しかしそのような希求によって描かれた「愛」など,ルサンチマンによって捏造された理想に過ぎない.それは「愛」ではなく,ただ愛の影にすぎないのだ.(p30)

    ■ルサンチマンが生み出す「愛」
    ニーチェは「非利己的」であることが「よい」ことであるとする今日の道徳思想を攻撃した.古代において,「よい」とは強者が思いのままに生きられることを意味していた.それに対して「悪い」とは,弱者が情けなくもおのれの欲望を叶えられないことを言った.しかしキリスト教が全てを変えた.そうニーチェはいう.虐げられた弱者の宗教であるキリスト教は,その強者に対するルサンチマンから,弱者こそが善であり,強者こそが悪であるという,顚倒した価値観を創り出したのだ.(p31)
    ニーチェにとって,キリスト教における「愛」とは,ルサンチマンを抱えた弱者によって贋造された,いわばご都合主義的な神の非利己的精神にほかならないのだ.(p32)

    ■愛は利己的な戦いである?
    愛とは,―その手段においては戦争であり,その根底においては両性間の死ぬほどの憎悪である.(p32)
    ニーチェは愛をいわば生理学化した.愛とはルサンチマン人間によって都合よく思いえがかれた非利己的なものではない.その本質は,両性間の戦いを通した子作りにある.子作りというのは,1つの象徴であり比喩でもある.子作りと言わないとするなら,ニーチェによればそれは「創造」である.(p33)
    愛は,ルサンチマン人間が惨めに求めるお恵みなどではなく,高貴で創造的な人間が自らの強さを持って他者に向かう精神なのだ.ニーチェはいう.「しっかり自分の尻で座り,勇敢に自分の足で立っていないと,愛することなどできないのに」(p33)
    有島が,ロマンに敗れたニヒリズムのゆえに,愛とは結局エゴイズムに過ぎないのだと主張したのに対して,ニーチェは,彼岸的な愛など端から眼中に入れることなく,愛とは徹頭徹尾利己的な戦いであると断じるのだ.(p34)
    高貴で創造的な精神の持ち主だけが,愛を知るのだ.自分を愛するものだけが人を愛せる.これはほとんど常識の範疇に属する.(p35)

    ■愛の「むずかしさ」
    ニーチェのように,その理想主義へのさらなる反動から,愛は非利己的なものではないと結論づけるのも早計である.(p36)
    それが夫婦愛であれ,友愛であれ,親の子に対する愛であれ,わたしたちはこのように,時に自分の愛をいわばその正しい理念の側から吟味しようとするのだ.
    「これこそが愛である」と,自らの感情をいささかの疑いもなく断定することが極めて難しい.愛着や性欲が確実にそれと知られるのに対して,一言で「愛」と呼ばれる情念は,ただありありと味わわれるだけのものではない.ある種の理念性がそこには本質的には備わっているのだ.(p38)

    ■愛の理念性
    愛の理念性.ここに愛という概念の1つの本質がある.そして,愛の本質洞察が困難であるもう1つの理由は,まさにこの愛の理念性にある.一般的な情念が,向こうからやって来るもの,あるいは内から湧き上がって来るものであるのに対して,愛は,一度私たちの理性を通して吟味されずにはいられない,いわば理念的情念なのだ.あるいはこうも言える.愛とは,情念であると同時に1つの理念でもある,と.(p39)
    カントが言ったように,わたしたちの理性は究極を推論せずにはいられない本性を持っている(『純粋理性批判』).(p40)
    「愛」もまた同様だ.「愛」の概念を私たちが獲得して以来,わたしたちの理性は,その究極の姿を推論せずにはいられなかった.そうしていつしか,現実にはありもしない究極的な「愛」のイメージを,さまざまな仕方で思い描くようになったのだ.(p40)
    しかし愛の本質を正しく捉えるためには―その現実の姿を描くためには―わたしたちの体験,その理念的情念の本質をこそ洞察しなければならない.そしてその普遍性を,広く問い合わせなければならない.そうでなければ,わたしたちはいつまで経っても,愛を浅薄な概念―非現実的な彼岸的理念か,さもなくば単なる性的欲望などに還元してしまうような―に押しとどめ続けることになるだろう.(p41)

    ■科学は愛の本質を解明できない
    我が子への愛を全身で感じ取っている時,わたしたちが知りたいのは,「あぁ,今オキシトシンが分泌されている」などということではなく,なぜわたしは,ほかならぬこの子をこれほどにも愛しているのかということだ.この感情は,いったい全体何なのか?つまりわたしたちが知りたいのは,化学物質がどうといった科学的な現象説明ではなく,この恋や愛の本質的な意味なのだ.(p44)

    ■愛の本質など解明できない?
    「愛」もまた,わたしたちがいつの頃からか,わたしたちのある情念を切り取り名付けた概念だ.それゆえ繰り返すが,その切り取り方には文化的・歴史的差異があるのは当然であって,絶対普遍の本質があるわけではない.しかしその上でなお,わたしたちは,それがラクダであれ,愛であれ,これらの言葉によって切り取られたもののイメージを,今広く共有している.これらの言葉を見聞きした時,わたしたちは多かれ少なかれ異なったイメージを思い浮かべるが,それでもなお,わたしたちはそこに必ず何らかの共通性を見出している.そうでなければ,わたしたちの言語コミュニケーションが成立しうるはずがない.つまり私たちは相互に言語コミュニケーションが成立しているという確信を抱きうる限り,その言葉の共通の意味の本質についてもまた,暗黙のうちに必ず直観しているはずなのだ.(p50)
    この暗黙の直観に潜む「愛」の本質を,自覚的な言葉へともたらすこと.それこそ,本書における哲学的本質洞察が目指すものにほかならない.(p50)

    ■「愛」はいかに可能か?
    その時,わたしたちはさらに,「愛」の可能性の条件をも明らかにすることができるであろう.哲学の本質,その最大の意義は「本質洞察に基づく原理の提示」にある.物事の本質を深く洞察することができれば,「それはいかに可能か?」の原理(根本的な考え方)もまた明らかにすることができる.「幸せとは何か?」が明らかにされれば,そこへ至るための道を一歩ずつ考えていくことができるように,「愛とは何か?」が解明されれば,「それはいかに可能か?」の原理もまた,わたしたちは明らかにすることができるはずなのだ.(p51)

    第2章 性愛

    ■愛の現象学
    生の満たされなさの反動から思いえがかれた愛の理想理念―隣人愛,神の愛,人類愛等―も,「愛」の本質というわけにはいかない.それは,究極を推論せずにはいられない人間の理性によって思い描かれた,より正確に言うなら捏造された,愛の彼岸的なイメージである.(p54)

    ■「好き」とは何か?
    わたしがこの曲やあの人が「好き」なのは,最も根本においては,その対象がこのわたしに何らかのエロス(快)を与えてくれるからである.従って,ごく単純な「好き」の本質は,一種のエゴイスティックな欲望にある.「好き」な対象を貪欲に利用するとまでは言えないにしても,その対象がわたしに何らかのエロスを味わせてくれるがゆえに,わたしはそのモノ(人)が「好き」なのだ.逆に言えば,その対象がもはやわたしにエロスを与えなくなった時,わたしはそれが「好き」ではなくなる.(p56)
    わたしたちは,「好き」なものを何度も繰り返し味わいたいと思う.いやむしろ,繰り返し味わざるを得ないところにこそ「好き」の本質がある.「反復可能性」あるいは「反復の不可避性」―「好き」の度合いが高いほど,前者から後者へと言葉の正確さが移行していく,―は,それを欠いては「好き」とは呼べない,「好き」の本質契機である.(p57)
    「好き」が「反復」を求めるのは,言うまでもなくそのモノ(人)がわたしに与えてくれるエロスのゆえである.「好き」な音楽がわたしに与えてくれる高揚感,「好き」な人がわたしに与えてくれる安心感.これらのエロスを,わたしは繰り返し「反復」して味わいたいと願うのだ.「好き」はこうして,ある種のエゴイスティックな欲望に根を持つ感情である.(p58)

    ■「愛着」とは何か?
    「愛着」は,この原初的な「好き」がいくらか発展したものである.確かに「愛着」もまた,単純な「好き」と同じように,「これはこのわたしのモノである」とする一種のエゴイスティックな欲望を根に持っている.しかし,たとえばもしわたしがその「愛着」対象をだれかに破壊されたとしたらどうだろう?その時わたしが感じるのは,このわたしが傷つけられたという怒りや悲しみであると同時に,あるいはそれ以上に,そのモノそれ自体への哀惜ではないだろうか?もしわたしが「好き」なお酒を断つよう強いられたとしても,そのお酒それ自体にわたしが哀惜を感じることはない.わたしはただ,これまで味われていたこのわたしのエロスが失われたことを嘆き憤るのみである.それに対して,わたしはわたしの「愛着」対象を,そのモノ(人)それ自体として慈しむのだ.「愛着」が対象それ自体への慈しみを含意する情念であるのに対して,「執念」は,どこまでも,このわたしの欲望への拘泥であるからだ.(p59)
    「愛着」は対象を慈しみ,「執着」はおのれの欲望に拘泥する.アルコール依存症の人は,お酒に「愛着」を持っているのではなく,お酒が満たしてくれる自身の欲望に「執着」している.お酒そのものを慈しんでいるのではなく,それが与えてくれる快楽や現実逃避の欲望に「執着」しているのだ.(p60)

    ■憎悪とは何か?
    恋人の裏切りを知ったわたしが彼女に憎悪を抱いたとするなら,それはわたしが彼女をそれほどにも愛していたからであるわけではない.わたしが彼女を憎悪するのは,彼女に投影していたこのわたしの自尊心への執着が蔑ろにされたからなのだ.(p61)
    しかし「愛」は違う.「愛」は,わたしたちのそのようなエゴイズムを,それへの執着を,すでに超え出た理念的情念なのである.より正確に言うならば,そのような理念的情念をこそ,わたしたちは「愛」の名で呼び慣わしているはずなのだ.愛は憎まない.憎しみを生み出すのは,わたしたちの執着心にほかならないのだ.(p62)

    ■エゴイズムを「超え出る」もの
    「好き」は確かにわたし達のエゴイスティックな欲望に根を持ちながらも,そのエゴイズムを乗り越えようとする契機が絶えず顔をのぞかせていると言うべきである.「愛着」はその最初の一歩なのである.(p63)
    「愛」もまた,おそらくは原初的な「好き」から生まれた,しかしその最も高度な発展系である.「愛」と呼ばれる感情は,エゴイズムがいくらか乗り越えられる契機を最も遠くまで発展させた情念なのだ.(p63)

    ■歴史的関係性
    わたしが愛着を感じるのはいったいなぜなのか?
    第1に,それは,このモノ(人)がわたしに安心や受容感を与えてくれるからである.
    第2に,愛着の対象は,必ずある歴史性を帯びている.わたしに繰り返し安心や受容感を与え続けてくれたモノ(人)に対して,わたしは愛着を抱くのだ.このわたしを受容し,肯定してくれる歴史性を帯びたもの.これが愛着対象の本質である.(p65)

    ■「友情」の三類型
    原初的な「愛着」の1つの発展形と言いうるであろう「友情」について考えてみよう.
    「友情」はさしあたり次の三つの類型に分けられるように思われる.すなわち,「愛着」としての友情,「愛着の共有」としての友情,そして「友愛」.「友情」が,わたしたちの内側でいくらか直接的に味われるものであるのに対して,「友愛」は,わたしたちの理性の吟味を経てはじめて認められる,何らかの理念性を帯びた概念なのだ.(p67)
    第1の「愛着」としての友情は,これまで述べてきた「愛着」感情が,身近なともに向けられた単純なものである.(p67)
    第2の「愛着の共有」としての友情は,いわば共同性へと開かれた愛着ゆえに抱かれる友情である.(p68)
    最後に,「友愛」.「友情」をことさらに「友愛」と言う時,わたしたちはそこに,単なる友への愛着を超えたものを見る.「友愛」は,ただこの胸に味われるだけのものではない.その情念が,理性の吟味を経て「この人はわたしと同じ魂を共有しているのだ」と確信されること.しかしその上でなお,エマソンが言うように,「その魂は,私が身をかがめることなく,私に身をかがめることもなく,同じ天空の下に」あると確信されること.ここには単なる情念ではない,ある理念性の確信が備わっているのだ.

    ■「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法
    理念性の本質を今次のように言ってみることにしよう.すなわち,「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法.
    「合一感情」と「分離的尊重」.この2つのキーワードは,原初的な「愛着」においてもうっすらと予感されていたものである.これはわたしの大切なもの.愛着感情には,すでにこのモノ(人)との「合一感情」が見出せる.しかし同時にまた,このモノ(人)を,わたしたちから「分離」されたモノそれ自体として大事にしたいという「尊重」の情がともなっている.先にわたしが,エゴイズムとその乗り越えの契機と呼んだものである.(p70)
    友愛の本質は,魂の合一としての「合一感情」と,にもかかわらず同時に味われている「分離的尊重」の弁証法にある.(p71)
    弁証法というのは,ここにおいては,「合一」と「分離」という一見相矛盾する2つの項が,何ら矛盾することなく統合的に味われているからだ.矛盾的・対立的観念のいわば高次の綜合を意味する概念として用いる.(p72)
    「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法.これは高度に理念的な本質である.そしてまさにこの理念性にこそ,わたしたちは,「友愛」に限らずあらゆる「愛」の根本本質を見出すことができるとは言えないだろうか.(p72)
    根本性質というのは,文字通り最も根本的,中核的な本質のことである.他方,先に「歴史的関係性」と呼んだものは,「愛」のいわば本質契機である.それは根本本質というほどではないが,しかしその契機を欠いては「愛」とは呼べない,本質的な特徴のことである.(p72)
    このように友愛,性愛,恋愛,家族愛等,それぞれの「愛」の諸相は,この「愛」の根本本質と本質契機を,つねにその通奏低音として響かせている.(p73)




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著者プロフィール

哲学者・教育学者。1980年生まれ。熊本大学大学院教育学研究科准教授。博士(教育学)。早稲田大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程修了。専攻は哲学・教育学。経済産業省「産業構造審議会」委員、熊本市教育委員のほか、全国の多くの自治体・学校等のアドバイザーを歴任。著書に『学問としての教育学』(日本評論社)、『「自由」はいかに可能か』(NHK出版)、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマ―新書)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『教育の力』(講談社現代新書)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)など多数。

「2022年 『子どもたちに民主主義を教えよう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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