万葉学者、墓をしまい母を送る

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (194ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065192399

作品紹介・あらすじ

【担当編集ノート】
上野誠さんといえば、令和の御代の万葉研究を大きくリードする人です。しかし、研究者としてではなく、個人としての上野さんは兄上亡きあとに故郷福岡の一族のお墓をしまい、老いた母上を奈良に呼び寄せて7年のあいだ介護し、見送った家長であり息子でありました。
上野さんの研究において重要かつ本質をなすのは、「宴」についてと「挽歌」についてのそれであると私は考えています。私生活と研究は別のものではありますが、それでも「私」のない研究はありえないと、編集者としての私は考えており、本書はその意味において企画されたものであります。
「はじめに」において上野さんは次のように語ります。
「これから私が語ろうとすることは、個人的体験記でもなければ、民俗誌でもない。評論でもないし、ましていわんや小説でもない。ひとりの古典学徒が体験した、死をめぐる儀礼や墓にたいする考察である。/いや、考察と呼ぶのもおこがましい。私の祖父が死んだ一九七三(昭和四十八)年夏から、母が死んだ二〇一六(平成二十八)年冬の四十三年間の、私自身の死と墓をめぐる体験を、心性の歴史として語ってみたいと思うのである。
(中略)/ 四十三年間という時が歴史になるのか。個人の経験や思いなどを、いったいどうやって検証するのか。それがいったいなにに役立つのかなどという批判は、すでに予想されるところではあるけれども、私はあえて、この方法を世に問いたい、と思う」
そして「あとがき」ではこう言います。「七年間母親を介護し、家じまいをした私は、家族とその歴史に思いを馳せた。そんなときに執筆を思い立ったのが、この本である。/己れが経験した家族の死の体験を、いまの自分の感覚で描いてみたい。己れを始発点とする民俗誌、家族小史のようなものを書いてみたい。それこそ、まぎれもなき実感できる歴史なのではないか。なにも、偉人の伝記をつなぐことだけが歴史でもなかろう、との思いが、ペンを走らせたのである」
いま、墓じまいや「終活」が多くの人の問題となっています。万葉の時代から現代まで、人は誰かを送り、「いずれはわれも」と感じてきました。軽妙な筆ながらその長い営みに思いを馳せた深いエッセイをお届けします。

感想・レビュー・書評

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  • 上野誠さんについては「万葉集から古代を読み解く」で手に取ったことがある。その語り口の優しさで悪い印象はなかった。その御母堂が身罷り、葬儀を司ったという。さぞかし、古代から現代にかけての貴重な知見を得たに違いないと思い紐解いた。

    実は上野誠が葬儀に関わったのは御母堂だけではなかった。1973年から、祖父、祖母、父、兄、母と見送っている。でもまあ一般家庭とほぼ同じペースかもしれない(私も考えればよく似ている)。著者と私は同じ歳。ただし、福岡の旧家と岡山の庶民とは格式が違う、ということもわかった。焼香の順番であんなにも頭を悩ますとは!しかも、墓は二階建て人が5ー6人立ったままで入れる大きさだ(1930年建立)。まるで巨大古墳の石室の如し。上野家の格式の高さ、如何ばかりか。

    さて、数々の葬式に出た著者は、最初の祖父の葬式(13歳)が1番格式高く、後の万葉学者として大いに「学び」を持った。
    ・死者に対して愛情と畏怖ふたつ持つのは何故なのか?
    ‥‥突き詰めれば、このひとつについて興味深いことを語っている(詳しくは本書を読んで欲しい)。これを深めたのは著者の「古事記」「日本書紀」の知識だろう。万事、業者に任せる現代では、なかなか体験できないこと(湯灌、衣服の焼却、茶碗割り)を解説する本書は、古代学・民俗学知識の開陳かのようだが、本人の体験に基づくこれらは、そうではなくて優れてエッセイ文学である。

    ところが、格式あった巨大墓は、たった62年で墓終いをして霊園墓に移る(1992年)。ここで私は墓にも流行り廃りがあることを改めて思い知らされた。霊園墓は企画墓であり、案内図を見なければたどり着けない。墓のサラリーマン化。それは即ち戦後昭和の日本そのものだろう。だとすれば、令和の時代に、墓の姿はまた大きく違ってゆくだろう。何が変わって、何が変わらないのか。そういうことにも、私は想いを馳せた。

    古代学・民俗学・墓学(?)も入っているが、やはりこれはエッセイであり、一介の学者の家族史なのである。だとすると、当然介護学(?)も入ってくる。本人は「自慢話」というが、私も多かれ少なかれ体験した「あるある話」である。

    人によっては「お母さんの貯金が1000万円もあったのだから、施設の3ヶ月移転7年間の闘いなんて楽な話だろう。俺はもっと苦労している」「葬儀の外注化・簡素化は嘆かわしい」というかもしれない。もちろんもっと苦労している方は山ほどいる。未だにきちんとした葬儀をしている地方もあるだろう。しかし、著者の書きたかったのはそんなことではない。

    学者らしく「私と葬儀の関わり方」一覧表を作っていて、5人の葬儀の移り変わりを見せている。葬儀だけでいえば、私は喪主を3回していて、彼は一回だ。家族葬は、私は遂に選択できなかった。あんなに格式あった彼の家族の葬儀は、兄上の時は一挙に都会風の家族葬になっている。これは良くも悪くも「社会のあり様の変化」のお陰である。と、著者は言う。ホントに良くも悪くも。

    ひとつ気になったのは、危篤状態にも関わらず3ヶ月ルールで御母堂は転院させられている。私の父の時はなかった。著者はこれが普通だと思っている。私の場合が特別なのか?

    最後の方で著者は万葉学者らしく「挽歌の心理」と一章を設ける。さらに最後の方では、「死と墓をめぐる心性の歴史」についても考えを回らす。東アジアには、薄葬と厚葬思想が交互に現れるという。そういえば、古代の薄葬令から現代の上皇の決断まで、薄葬の伝統は確かにあり、巨大古墳から庶民的石墓の厚葬だけの歴史ではなかった。大伴旅人は薄葬主義の竹林の七賢に学んで「この世にし楽しくあらば」の歌を遺している。この歌については機会があれば、また書きたい。

  • 個人的な体験記かと思いきや、死者葬送や墓をめぐる変遷や考察…読み応えがあった。親の介護、老いに直面して、親子でもなかなか面と向かって話しにくいこと、でもやはり向き合わねばならないことを、著者は率直に示してくれていると思う。

  • よくぞ書いてくださいました。
    書かれている50年足らずの期間で経験された個人的な葬儀の変遷は、時代とオーバーラップしていると思います。

  • 個人の葬儀の体験を古典、近現代日本の葬送の歴史と関連させた稀有な書物。(体験記やエッセイと表すのも気が引けた…)

    家族を見送ることは、その人への「愛惜」(=限りない愛おしみ)と死体への「畏怖」(=限りない怖れ)であるという筆者の分析が言い得て妙。

  • 極めて個人的な家族の死と墓という事象を、万葉学者ならではの視点で、古代の死生観と絡めて読みとく。昔は死も弔いも日常の近いところにあった。だからこそ死者と生者の線引きを明確にする必要があったのだろう。今は死を遠ざけている。それがいいことなのかどうかわからないけれど。

  • 人の話、というより自分の話として、ものすごく考えさせられた本です。いや、考えさせられたというより悩んでしまったのかも。読んで一か月、感想が書けずに経ってしまいました。ほぼ同世代ですが、この本に書かれていることは、これからの問題として自分にもやってくるテーマです。自分よりちょっと先に、必ず向き合わなくてはならない問題に立ち向かった「友人」の話として読みました。そこで語られるのはノウハウではなくて、ココロの問題です。彼が万葉集の研究者であることが効いてきます。そう、死と墓とを巡る心性の研究なのです。研究対象は自分自身。万葉の時代から変わらぬ人を送ることに対する気持ちの普遍性と、明治以来、日本の家族がたどってきた人を弔う儀式の特殊性が、ないまぜになって心の中でぐるぐるしております。

  • 次男であったが、長男が60歳で癌で亡くなったために、課長の立場となり、博多から母を奈良へ呼び入退院を繰り返す「介護の旅」をすることに。
    万葉学者の人を送ると言う文化的背景にも広がり、今の葬式のあり方が、どんな時代にできたのか、その背景、経済的、文化的、習慣的を探る。

    昔から、長く土葬がオモであった日本では、今のように墓石を置いて累々たる一族の墓を作り始めたのは、石の加工、運搬が安定的、比較的安価にできるようになった現代になってから。

    昔は豪族や身分の高い人のものであったお墓文化が、一般に広がった。

    そこで、葬送の儀式に金がかかり、墓石の優劣まで競争が起こる時代もあった。

    本来人を送ると言うことは、、、。

    何かしら考えさせる一冊。

  • 著者の家族史として、葬儀、墓の変遷を書いている。著者と年齢的にも近いので、確かに昔の葬儀はこんなだったと思うこともある。「畳の上で死ぬ」が文字通り自宅での死を意味していた時代と、病院にいかないと死が確定しない現代。たった数十年で大きく変わってしまったことは、他にもある。Covid-19の流行により、大規模な葬儀をしにくくなったこともある。私の場合は、89歳の父から墓終いを提案されたこともあり、最近は葬儀や墓のことを考えることも多くなっている。(最初の問題は、誰が喪主になるかだと思う。)葬儀も簡単にと言われているが、私自身は、葬式は生きている人のためのものなので、ちゃんとお別れを言える環境を提供すべきと考えている。この本では、万葉集や斎藤茂吉の歌からも死というものを考えていて興味深い。(茂吉に関する考察では、中学時代に授業で習って覚えていた歌が二首とも紹介されていて、ちょっと嬉しかった。)

  • 墓問題、身につまされます。
    自分の代はまだしも、娘しかいない身は、墓じまいを考えます。

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著者プロフィール

奈良大学文学部教授。著書『万葉文化論』(ミネルヴァ書房・2019)、論文「讃酒歌十三首の示す死生観—『荘子』『列子』と分命論—」(『萬葉集研究』第36集・塙書房・2016)など。

「2019年 『万葉をヨム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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