日本哲学の最前線 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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感想 : 19
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065242957

作品紹介・あらすじ

國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳……
哲学の最前線の旗手たちが「いま考えていること」がこれ一冊でわかる!

私たちを縛りつける不自由と向き合う、本当の自由のための哲学。

 * * *

[本書の内容]
第一章 「する」と「される」の外部へーー國分功一郎『中動態の世界』
第二章 二人称のコミュニケーションと無自由の極北ーー青山拓央『時間と自由意志』
第三章 非意味的切断の実践哲学ーー千葉雅也『勉強の哲学』
第四章 身体のローカル・ルールと生成的コミュニケーションーー伊藤亜紗『手の倫理』
第五章 常套句の思考停止に抗うことーー古田徹也『言葉の魂の哲学』
第六章 エゴイズムの乗り越えと愛する意志ーー苫野一徳『愛』

感想・レビュー・書評

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  • うおー。なんで、こんな分かりやすくまとめられるんだー!と、読み進める度、テンション上がってしまった。

    青山拓央は冒頭で紹介されている『心にとって時間とは何か』を読んだし、千葉雅也の『勉強の哲学』も読んではいるんだけど、自分のレビューがいかに稚拙で的を射てないかがよく分かる(笑)

    ってか、そんなこと書いてたんですね!めっちゃ面白いじゃないですか!とさえなるので、もし既読で挫折した人がいたら、半信半疑でこの本読んでみてください。

    第一章、國分功一郎の『中動態の世界』は、タイトルは知っていたけど、読みたくなった罠。
    この新書を貫くテーマが「自由のための不自由」なのだけど、言葉によって制限されている私たちがそこから抜け出すために、能動でも受動でもない中動態を取り入れてはどうかという内容。

    この、言葉について、関係から理解をすること、しっくりする言葉について試行錯誤することに繋がっていくのが、古田徹也『言葉の魂の哲学』。
    これも、私的には飲み込むのに時間かかった本だったんだけどなー(笑)
    古田さんは先日、行為論の本も読み終わった。

    意志なんてないでしょ、偶然性の上で私たちは行為してるでしょ、もテーマになっていて。
    青山拓央『時間と自由意志』、千葉雅也『勉強の哲学』へと進んでいく。

    そして伊藤亜紗『手の倫理』の面白さ、他者と息を合わせて何かを為すことの、不自由性と合一性を本当に上手く書いてくれていて嬉しい。
    まあ、私が喜ぶことではないんだけど。
    このラインナップに入っていることも嬉しい。

    ラストには苫野一徳『愛』を持ってきて、本当の愛とは何か、自己犠牲について考えていく。そこには意志があるではないか、と。

    いやあ、レビュー書きながらちゃんと掴めているか不安になってきた。だから、もう本読み出しちゃいなよと言いたい(笑)

  • 日本に独自な哲学が勃興してきていることを、十分な筆致でもって描き出している。もともと哲学界は関係者にしか分からない用語を使って、探究を進めてきたが、一般の人にも知の果実を届けようと、努力する哲学者も一方で存在し、私が知る限りでは、内田樹や鷲田清一はその部類に入るだろう。本書では、その後進を引き受けた、分別盛りの哲学者による知見を紹介している。紹介された哲学者はそれぞれ社会で苦しむ人々に視線を送り、思考革命を起こすことによって打開を図る方法を用いる。長々しい話をして面倒だと思う人はいるだろうが、理屈が好きな人には効用があるに違いない。ただ、哲学用語は依然として使用されているので、全く一般向けになるには至っていない。この本がすんなり読めたらその人は立派に哲学に入門している。従って、哲学的議論が白熱する本書はそういう意味では面白いが、慣れない人には難しいかもしれない。知の専門家たる哲学者と、一般の人々が手を携える日はもう少し待つことになるだろう。

  • 國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳。
    前者3名は知っていた。逆に言えば後者3名は知らなかった。

    それにしても、彼らを不自由論で統一しているのは意外だった。この本の著者の洞察力には感服する。

    章ごとに、この哲学者は、という呼び方をしているところに違和感を感じた。

    私事だが、学生のころ、消極的な積極性という名のもとに勝手に知らない教室に入って身を任せていたことがあった。ワクワクしたのを覚えている。別に教室の雰囲気を変えたかったわけではない。壊したかったのでもない。ただ新しい環境にいて内面を変えたかった。

    自由は責任能力に与している、とすれば、精神異常者として、自由を捨てた方が、都合よく生きられるとも思うのだが、捨てる選択を自由の名のもとにしている。つまり、彼は自由意志を持っていた。しかし、そうではなくて、偶然にも、自由を捨ててしまう結果になったとしたら、逃げ道がありそうだ。しかし、何処に逃げるのか?刑務所からは逃げれても、何かが追ってきそうだ。嗚呼、余白がありすぎて書ききれない。フロムの自由からの逃走も気になる。逃走からの逃走。

  • 6人の気鋭の哲学者たちの最前線の活動を紹介した本といったところ。自由になるためには、不自由である状況を知り、それによって自由に至ることを各々が述べている(と、おそらく著者は解説している)。実践と学問の両方から紡ぎ合う哲学者たちの思想は、今を生きる私たちの事情とももちろん関連しており、そしてそれをこの本を通して著者が体現してくれている。私としては、問題が起こった時に、それを批判する立場を取る(他者化する)のではなく、それを自分ごととして認めることでどうすれば良いかを考えるという点で今日において非常に重要なこと述べているように感じた。

    • corpusさん
      まず他者はいませんからね。公転しない惑星のように。
      まず他者はいませんからね。公転しない惑星のように。
      2021/09/20
  • 山口尚(1978年~)は、京大総合人間学部卒、京大大学院人間・環境学研究科博士課程修了の哲学者。大阪工業大学講師、京大講師。
    本書は、日本哲学(「J哲学」)の6人の旗手、國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳のそれぞれの思想を紹介することより、「J哲学」の最前線でどのような思索が展開しているのかを論じるものである。
    私は、いわゆる哲学、現代思想については、特段の専門的な知識は持たず、これまでノンフィクション系の本の一部として、千葉雅也の『勉強の哲学』、『動きすぎてはいけない』を含む複数の著書(千葉は出身高校が同じなので少々注目している)、伊藤亜紗の『目の見えない人は世界をどう見ているのか』や、佐々木敦『ニッポンの思想』、岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』などの幾つかの本を読んできた程度であるが、「日本哲学の最前線」というワードには大いに興味をそそられ、手に取った。
    通読してみると、著者が、単に最新のJ哲学の代表格6人の思想を紹介するだけではなく、それらの通底する視点をどのように読み取り、なぜこの6人を取り上げたのかがわかるのだが、その背景・意図は概ね以下である。
    ◆「J哲学」とは、J-POPのアナロジーとして鬼界彰夫が使い始めた概念であり、J-POPと同様に、日本的なものを哲学(J-POPなら音楽)に取り入れようという志向を持つわけではなく、輸入された西洋哲学と土着の(従前の)日本哲学の区別を超えて、普遍的な哲学に(たまたま)日本語で取り組むものである。また、日本の哲学の言説は、大きく「海外の哲学者の思想を紹介するもの」と「アーティストとして自分の表現を彫琢するもの」に分けられるが、J哲学は(当然ながら)後者に属する。
    ◆J哲学は、大森荘蔵がその土台を形成したと言われ、2000年代までは、大森門下の大庭健、田島正樹、中島義道、野矢茂樹や、出自を異にする永井均、入不二基義、更に、鷲田清一、内田樹、小泉義之、檜垣立哉、森岡正博らが、それぞれ枝流のようにJ哲学を実践してきた。
    ◆2010年代に、J哲学は一つの大きな流れと見なしうる思潮に発展したが、それは、人間の「不自由」に目を向けるという視座であり、単純に「自由」を希求するのではなく、人間の避けがたい不自由を直視した上で可能な自由を模索するというものである。そして、本書で取り上げる6人は、2010年代に頭角を現し、それぞれ独創性を持ちつつも、「自由のための不自由論」という観点で有機的に結びついている。
    ◆上記の通り、J哲学が日本的なものを基盤としていない以上、「和」と「不自由」のあいだに前もってのつながりはないが、哲学の個別的活動は時代の特性に多かれ少なかれ縛られることも事実であり、2010年代のJ哲学の代表的な流れが「不自由論」として特徴づけられるものとなった背景には、現代日本の社会的・経済的閉塞感などがあるのかも知れない。
    J哲学において、2010年代を代表する6人が何を考え、そこに通底する思潮は何なのかをコンパクトにまとめた一冊である。
    (2021年7月了)

  • 2010年代の日本哲学の最前線は不自由に目を向け「意志」概念を批判する潮流にあるとし、6人の哲学者とその理論を紹介している。各哲学者の理論の説明の前に、その根底にある考え方や背景などから説明に入るため、紹介されている理論も比較的頭に入ってきやすい。6人をただ紹介しているのではなく、それぞれの理論を結び付け、共通項を繋ぎながら日本哲学の潮流として落とし込んでいくことがこの本の価値だと感じた。
    ここで展開されている不自由論は「より自由になるための不自由論」であり、人は自己の意志に頼むことで却って不自由になると考えている。意図的にコントロールできないことに悩むことが自分を縛ることに繋がり、「意志」を諦めることで真の自由が開かれる。

  • この本の感想として、まずわたしは普段の生活で自らが変だな、と違和感を感じたことについて書いておこうと思います。

    ○会社のイベントで、あたかも任意であるかのように出欠確認がとられるのだが、実は拒否権はない(参加しなくては今後の査定に響いてしまうと思われる)
    ○研究職という「職業」に、「好きなことを仕事にできてよかったね」などと言葉をかけられるのだが、実際はたまたま研究者である。
    ○就職活動で思ってもいないようなことを言わされる(言わなくては不利益があるのではと思わされる)。


    特にそのような形で外的な要因によって決まったことがら(実は非常に多いことだと思われる)に対して、弱音を吐くとか、不満を述べると、「自分で選んだ道でしょ」と叱責されるための言質になっているのです。
    自由選択のボールがいったんこちらに渡される、そのことでわたしは不自由を感じてしまう。

    ※    ※    ※
    著者の山口氏はこの本を通して現代日本で活躍する6人の哲学者を紹介し(J-POPをもじってJ-哲学と称しています)、それぞれがバラバラに活動しているように見えて、実は根底に流れるテーマとして、「不自由論」を論じているのだ、と指摘します。そして、その文脈で、それぞれの哲学者を「読んで」いきます。

    内容は実際に読んでいただくとして、わたしの気になったところをピックアップしてみます。まず、国分と青山の議論から自分が決めた、意思した、と思うことでも実は環境からの影響を無視できない、という共通の議論が立ち上がります。何人たりとも自分を始点にはできないはずなのに、あたかも自分が決めたかのように〇〇します!と言う(言わせられているにもかかわらず。これは就職活動などでありそうです。)という構造を浮かび上がらせています。

    後半は、その自分を巻き込んでいくような環境を「ノリにのっとられている」あるいは「運を引き受けながら生きる」のような言葉でとらえます。わたし自身も実家に帰ると「家庭の中の長男というノリ」にはめ込まれてしまい、それは苦痛ですが、「引き受けながら生き」ざるを得ないという事態にはまっているので、このあたりはそういう体験を当てはめながら読むことができました。

    わたしたちの生きる処方箋になりうるのは、このレベルの「倫理」の幅を増やしておき、「ノリの読み替えの可能性」を拓いておくことかもしれませんね。

  • 2021年度第2回見計らい選定図書
    http://133.11.199.94/opac/opac_link/bibid/2003566266

  • 2021I088
    121.6/Ya
    配架場所 A5 新着図書

  • 東2法経図・6F開架:B1/2/2627/K

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著者プロフィール

山口 尚(やまぐち・しょう):1978年生まれ。京都大学総合人間学部卒業。同大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門は形而上学、心の哲学、宗教哲学、自由意志について。著書に『難しい本を読むためには』(ちくまプリマー新書)、『日本哲学の最前線』(講談社現代新書)、『人間の自由と物語の哲学』『幸福と人生の意味の哲学』(以上、トランスビュー)、『哲学トレーニングブック』(平凡社)、『クオリアの哲学と知識論証』(春秋社)など。

「2023年 『人が人を罰するということ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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