- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087880694
作品紹介・あらすじ
陰キャ、根暗、映え、生きづらさ、「気づき」をもらった……あの言葉と言い方はなぜ生まれ、なぜ消えていったのか。「ことば」にまつわるモヤモヤの原因に迫る、ポリコレ時代の日本語論。古典や近代の日本女性の歩みなどに精通した著者が、言葉の変遷をたどり、日本人の意識、社会的背景を掘り下げるエッセイ。以下、章題。
・Jの盛衰・「活動」の功と罪・「卒業」からの卒業・ 「自分らしさ」に疲弊して・「『気づき』をもらいました」・ コロナとの「戦い」・「三」の魔力・「黒人の人」と「白人」と・「陰キャ」と「根暗」の違い・「はえ」たり「ばえ」たり・「OL」は進化するのか・「古っ」への戦慄・「本当」の噓っぽさ・「生きづらさ」のわかりづらさ・「個人的な意見」という免罪符・「ウケ」たくて。・「You」に胸キュン・「ハラスメント」という黒船・「言葉狩り」の獲物と狩人・「寂しさ」というフラジャイル・「ご迷惑」と「ご心配」・「ね」には「ね」を
感想・レビュー・書評
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初めて酒井順子さんの本を読んだのは8年前
これが36冊目になります。
でも昨年は2冊。
具合でも悪いのかなあと気になっていました。
でもそんなことはないようで、
今回もすごく面白かったです!マジで。本当に。
安心しました。
今日は地下鉄サリンから27年で、
NHKニュースでそのことについて放送していました。
事件の後に生まれた人たちの感想を聞くと、
自分たちとはずいぶん違うのですね。
似たような思いを、この本でも感じました。
生まれた年によって、感想が変わってくる本だと思います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ことばって、ほんと生き物ですよね。新しい事象が生まれると、それにともなって新しいことばが生まれる。手紙から電話、そしてデジタル技術による伝達方法へと移ってくると、それに伴ってことばも変化。使う年代の主役が変わるので、急速に変化。それまでの、会って相手のまなざしを見ながら、心を思いやることばなんて、不必要。
「活動・●活」「卒業・終了が卒業」「自分らしさ・でみな片付けて」「ばえ・映え、栄え」「個人的な意見」「YOU・おまえ、君」「言葉狩り・獲物と狩人」「ご迷惑とご心配・誰に?」・・いろいろありますな。
新旧、ことばの変化は、自分の世間度を測るものさしになりそうです。 -
意識的でも無意識のうちにでも、選びとる言葉によってその人の性格や心持ちがわかる。
どんな言葉がうまれ、あの言葉が消えていったかを、著者の個人的見解で書いているが、読んでいて違和感を覚えた。
きっと、自分は著者の言葉、文体に引っかかりを感じてしまうのだろう。 -
天才だ…
エッセイって、文体、雰囲気、取り上げる題材全てにおいてとても難しいというか自分には決して書けないものだと思うのだけど、その中でもこれは絶対に書けない。
言語学的知見、鋭い観察力、経験則からの考察、全てがうまく噛み合って、世の中を生きる皆に刺さるように構成されている文章…そして読みやすい。あっという間に読み終わった。読み終わったと同時に、もう一度読みたい。そして流行り廃りがあるものなのはわかっているけど、一部手元に残しておきたい一冊。
Jの盛衰
「活動」の功と罪
「卒業」からの卒業
「自分らしさ」に疲弊して
「『気づき』をもらいました」
コロナとの「戦い」
「三」の魔力
「黒人の人」と「白人」と
「陰キャ」と「根暗」の違い
「はえ」たり「ばえ」たり
「OL」は進化するのか
「古っ」への戦慄
「本当」の嘘っぽさ
「生きづらさ」のわかりづらさ
「個人的意見」という免罪符
「ウケ」たくて。
「You」に胸キュン
「ハラスメント」という黒船
「言葉狩り」の獲物と狩人
「寂しさ」というフラジャイル
「ご迷惑」と「ご心配」
「ね」には「ね」を
「だよ」、「のよ」、「です」
p.130 「古っ」への戦慄
新しいものは、瑞々しい。しかし、新しいものがたっぷりと含んでいる水分は、腐臭を発しやすくいちど腐ると、なかなか乾くものではありません。流行が腐った後、完全に乾ききるまでに最低20年もかかる、と言う事でもあるのだと思います。我々はしばしば、時代遅れの事象、「古っ」と笑いますが、「古っ」と言われるのは、半腐れ、というか、生乾きというか、その手の状態にあるものでした。しかし、乾ききってしまえば、「古っ」とは言われずに、「レトロ」「懐かしい」「クラシック」などと、好意的に捉えられるようになる。少し前までは半腐れ状態で、「昭和って感じ〜(笑)」と揶揄の対象になりがちだった事物の、特に令和となって以降は、昭和が2世代前となったこともあって、すっかり乾き切ったようです。レコードがCDよりも売れているとか、フィルムカメラがいいとか、シティポップ最高だよねなどと若者たちが言うのを見れば、昭和もやっとフリーズドライ化されたと言う考えが湧く。さらに年月が経てば、昭和の文化はさらに賞賛されることでしょう。東大寺を見て、「古っ」と言う人はいないわけで、一定時間の古さを持つのは、文化財として大事にされていることになるのです。
新しさがちやほやされるへ→半腐れ状態が「古っ」と嗤われる(わらわれる)→古さが賞賛される…と言う流れは、ファッションであれこれまであれ、言葉遣いであれ、同様です。人間にしても、新しい人間、すなわち、若者や子供は、その新しさを持って賞賛されるのであり、高齢者もまた、その経験の積み重ねやら達観ぶりやらで尊敬される。…のに対して、若者でも、高齢者でもないハ半腐れ、と言うのに、語弊があるのなら、中古の人間は、なかなかそのあり方が難しいのでした。
…私が若かった頃も、祖母が「神神」やら「鴻巣」やら言った古い言葉を使うことに「する」と言わなかったし、祖母がいつも着物姿で入るのも、古い友田埼玉思わなかった。中古ではなく、太鼓の人になれば、かえって自由になることができるのではないか。
が、しかし。そのような期待の前にはては、君が立ち込めているような気がしてなりません。
私が若かった頃の高齢者が、まだ尊敬される資格を持っていたのです。祖父母世代は、戦争や、何なら、関東大震災もくぐり抜けてきた、苦労人。年をとっていけばいるほど、経験を積んでいると言うことで、確実においしい漬物をつけたり、風の吹き方で明日の天気を予測したりするといった知恵も、持っていました。
対して、私たちの今の生活は、経験値が積み上がらない仕組みになっています。長年ぬかみそをかき回し続けなくても、誰でも美味しく漬けられるぬか床を簡単に買うことができるし、ぬか床などなくても漬物そのものを買えばいい。おばあちゃんの知恵的なものは、ネット検索や100円ショップで代替可能となりました。
また、戦争も貧困も知らない我々は、むしろ歳下の世代よりも楽して生きてきたと言うことで、人生観も生ぬるい。着物は仕方も知らないので、渋いおばあちゃんになることもできません。IT化も、未来の高齢者にとっては味方にならないでしょう。IT技術は積み上げるものではなく、更新されるもの。更新ペースについていくことができない高齢者は今にも増してお荷物扱いされることが確実です。IT化は、若さや新しさが偉いと言う時代の流れを、さらに強めるのです。
我々が高齢者となる頃には、長年積み上げて熟成された知恵を持つ年寄りは、その存在自体が珍しくなりましょう。一部の職人や伝統芸能の世界でのみ、経験値の高い高齢者が尊敬され、積み上げようのない経験しかしてこなかった高齢者の大群が出現することになりそうです。
p.236 「ね」には「ね」を
何も話したくない時も、思いっきり泣きたい時もあるだろうに、まだぜいぜいしているアスリートをカメラの前に立たせるその仕打ちは、残酷です。全力を出し切った直後に、「話す」と言う専門外のことをしなければならないのは、どれほどストレスであることか。
かといって、どんなに悔しくても、悲しくても、はたまた、嬉しくても、うっかりしたことを言えば、たちまち叩かれてしまうのが、今の世。「めんどくさいなぁ」「くだらない質問してんじゃねーよ」と言った気持ちは、おくびにも出してはなりません。そんな時に「そうですね」は、やはり便利な言葉なのでしょう。インタビューが嫌であっても、「そうですね」と言うことによって、インタビューの質問をまずは肯定してワンクッション置くことができる。アスリートにとって「そうですね」は、いつも一緒にいて精神を安定をさせてくれる、ライナスの安心毛布のような役割を果たすのかもしれません。
ほとんど意味を持たないので、なくてはならない、今は無用の用を果たしている、インタビュー時の「そうですね」。オリンピックにおいて「そうですね」のリンクを聞いているうちに、私は「これは和歌における枕詞のようなものかも」と思えてきました。「ひさかたの」とか、「あをによし」といった枕詞と言うものが、平安時代前後の和歌には使用されている、と、学生時代の古典の時間に習いました。「ひさかたの」であれば、光、空など、「あをによし」なら、奈良と、かける言葉が決まっており、とは言え、枕詞はニュアンスを醸し出すだけで、それ自体には意味がない、と聞いたときに、私は、「なぜ限られた文字しか使用できない中に、意味を持たない枕詞のなどを入れるのだろう」と思ったものでした。もっと意味のある他の言葉を入れて、さらに歌の密度を高めればいいのに、と。
しかし和歌を眺めていると、さほど意味の持たない言葉は、枕詞だけでなく、そこここにちりばめられているのでした。表現したいことが31文字と言う「型」よりも、小ぶりのサイズだと、なんとなくムードはあるけれど、意味は無い、エアパッキンのような言葉を挟んでカサ増しする必要があるのです。
…「そうですね」の「ね」と言う最後の文字にも、注目したいところです。「そうです」と「そうですね」では、大いに感じが違ってくるわけで、会話文において「ね」は重要な意味を持ちます。話の最後に「ね」をつけると、相手へ積極的に働きかけている感じが出るし、それも敵対的でなく、友好的な、できれば、こちらの意見に共感してもらいたいんだけどなぁ、といった空気も伝わる。
…相手に歩み寄る姿勢がそこに生まれます。「な」とか「ね」、地域によっては「の」など、主にな行の文字を会話の最後にくっつけると、「相手との距離を縮めよう」と言う意思が、立ち上がるのです。
「ね」は寂しがり屋なので、常に相手の反応も欲してもいます。「これ、おいしいね」と誰かが言った時に求められているのは、「うん」ではなく、「おいしい」でもなく、「おいしいよね」と言う返答。「ね」には「ね」を返してほしいと期待して、発言主は「ね」を使用しているのです。共感を大切にする生き物とされる女性は、特に「ね」を多用する傾向にあるのでした。
…我々は「ね」をやり取りすることによって、「私はあなたの敵ではない」と言うことを伝え合い、そこに安全地帯を形成しているのです。 -
いつもながら、鋭い視線。
楽しく読ませていただきました。
酒井さんの他の本も読みたいなー。 -
アスリート達が、インタビューを受けた時にまず言う言葉「そうですね〜」、これが以前から気になっていたので、これを読んで、そうだったのか〜と納得した。
今まで会話の最後に無意識に追加してた「・・知らんけど。」、全国的に広まってたのか・・知らんかった。 -
2023年15冊目。
いつの頃か、若者言葉の意味が全く分からなくなった。人生で若者言葉を使う時間はもの凄く短いのかもしれない。
「焼き増し」懐かしい!!!
修学旅行の写真を大量に焼き増しをした高校時代の記憶が一瞬で蘇った。言葉でも記憶は蘇る。
そして、自分は間違いなく「陽キャラの根暗」だ。 -
言葉は水物。社会の変容に沿う言葉が日々アップデートされ、形を変えたり、意味合いを変えたり、言葉の使われ方が当世感の象徴、時代を映す鏡になってたり。。。
言葉の解釈が全年代共通しているわけではない。年代だけの尺度だけでは推し量りかねるし、生まれ育った環境、社会情勢、性別、性格、という多角的な視点を踏まえれば言葉の意味合いは無限の解釈の余地がある。
令和という時代から見た死語、新語。
わかりみ深さは今だからこそで、
これがまた10年後、20年後、同等の価値観のまま在るとは考えづらく、だからこそ今の時代の大きな流れを捉える為の足跡として型取っておくのは重要なのかもしれない。
具体的で明晰な筆致、論旨。
カジュアルみ故パラパラ読めてしまえる読み味。
「根暗」発案者はタモリ。
軽チャーの時代だからこそのカウンター語。
らへんが一番面白かったかな。(個人の感想です)