- Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087880816
作品紹介・あらすじ
子どものいないあなたにはわからないと言われるけれど――
「ではない」立場から見えてきたこととは。
「父親とは…」
「母親とは…」
「子育てとは…」
大きな主語で語られ、世の中で幅を利かせる「普通の家族」をめぐる言説への違和感を「父ではない」ライターが遠巻きに考えてみた。
【目次】
「ではない」からこそ
子どもがいるのか問われない
ほら、あの人、子どもがいるから
あなたにはわからない
子どもが泣いている
変化がない
幸せですか?
「産む」への期待
孫の顔
男という生き物
「お母さん」は使われる
もっと積極的に
共感できません
人間的に成長できるのか
子どもが大人になった時
勝手に比較しないで
あとがき
【著者プロフィール】
武田砂鉄 (たけだ・さてつ)
1982年生まれ。出版社勤務を経て、2014 年よりライターに。2015年『紋切型社会』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。他の著書に『日本の気配』『わかりやすさの罪』『偉い人ほどすぐ逃げる』『マチズモを削り取れ』『べつに怒ってない』『今日拾った言葉たち』などがある。週刊誌、文芸誌、ファッション誌、ウェブメディアなど、さまざまな媒体で連載を執筆するほか、近年はラジオパーソナリティとしても活動の幅を広げている。
感想・レビュー・書評
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読みにくいわけじゃないけど、自分が何を感じたのか、ぐるぐる回っちゃう。感想をまとめられないまま、1週間経ってしまった。
武田砂鉄は雑誌の連載でよく読んでいて、「おもしろい視点を持っている人だなぁ」と思っていた。この本も、雑誌で紹介されていて知った。図書館で予約し、半年ほど待った。
「まぁそうだよね」と思う部分もあれば、「え?」と思う部分もあって、それが感想を書くのに壁になったのだと思う。「結局この人、自分の言いたいことだけ言わせて欲しくて、言われたくないことは言わないで、と言いたいだけ?」と思ってしまったのも大きい。
「人は誰でも、何かについては当事者でも、何かについては当事者ではない」
それは本当にそのとおりで、「ではない」からこそ考えることはあるし、何かを発言してもいいんじゃない?というスタンスは共感。
私は会社で営業経験がほとんどなく「管理部門が営業に口を出すな」とよく言われてきた。でも「管理部門的な立場から見ると、その取引はNGじゃん?」ということはまぁまぁあるし、「私がお客さんだったら、こんな営業担当はイヤだな」と思う社内の営業担当もいる。第三者として「こんな見方もありますよね」とはお伝えしたい。
「当事者じゃないと言っちゃダメ」なんて言ってたら、戦争体験の語り部はいなくなっちゃう。ただ…実際に体験した人の話は響くし、経験した人でないとわからないことも多いしなぁ、とも思う。
自分の言いたいことを、言う。
最近、「相手に伝わるためには、相手の知りたいことを伝える必要がある」みたいな本を読んで、「なるほどー自分の言いたいことだけ言ってたら、伝わらないのかー」と思ったところだった。
でも、モノを書く、というのは、「そもそも言いたいことがあります」からスタートしないとどうにもならんわな。
なんかいろいろモヤモヤする部分はあるにしても、「第三者としてモノを言う」というスタンスに、勇気をもらったことは間違いない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
美容室で渡された雑誌で知った一冊。
面白そうだな、と図書館で借りましたが、未読ながら気になっていた「マチズモを削り取れ」の著者でした。
軽やかな文体ながら、なかなか難しいテーマに面白い立場から切り込んだ作品でした。
こういった社会的なテーマを取り扱った本は、出だしはよいけど後半グダグダするものも少なくなく、どうなのかなと思いながら読み進めました。
正直、前半の分かりやすいテーマと文体が最後まで続いたわけではなく、やはり後半は文体がくどくなり、主張が見えにくくなった感は否めませんでした。
ですが視点を変えて「子の有無」ではなく「普通とは何か」を念頭に読むと、なるほどと思える視点が多くあり、背中を押してもらえたような気持ちになれたり、戦友を得たような気持ちにもなれました。
こういった気持ちを踏まえて、最も共感できたのが
「私は、私たちは、比較材料として生きているわけではないのだから。」という1文。
広い広い世界の視点からすれば、私はごくごくありふれた、よくいる普通の日本人なのですが、自分が生きてきた狭いコミュニティの中では異質とされたこともありました。
それで苦しんだ時期があるにも関わらず、子育てをしている現在、我が子の発育に悩む時にぶつかるのが「普通」「標準」。
そんなものくそくらえと思ってるはずなのに、その物差しで我が子を測っているのは誰でもない自分自身だったり。
著者は結婚しているけど子どもがいない男性として、「普通(子どもを持つべき/欲しがるべき)」を押し付けられる立場としての意見を述べています。
普通って何?
普通が正しいのか?
普通じゃないと堂々と主張できないのか?
子あり/子なしという線引きではなく、自身に当てはまるマイナー性と照らし合わせた時、多くの人が賛同できる考えや疑問を、問題点として社会に投げ掛けていると感じました。
この中で印象に残った文は
「自分が登るべき山を誰かから指定されたくはない」
「自分の積み重ねてきたものが子どもの存在によって削られるかもしれない、という心配が、男性には少ない。(中略)つまり、子育てが自分にとってのオプションの域を脱しない。オプションは、自分そのものからの着脱が可能である。でも、女性には、なぜか、その着脱が許されていない。」
「こういう感じなんでしょう、と想像することは大切。しかし、こういう感じなんだから、こうしなきゃ、になると害悪。おい、だから、こうしなきゃダメだよ、自分の時はこういう風にしていたんだから、は暴力。」
「今、ひとまず許容されようとしている多様性って、その手の、普通サイドからの、『極端なものも認めます!』という宣言かもしれない。一方、自分たちが思う『普通』の領域は、そのままにしようとする。」
昨今の「多様性」とか「ダイバーシティ」とかに係る流れに些かの違和感(本質から外れている気がする)を覚えている私にとって、
家事育児の9割9分を担っている私にとって、
日頃のモヤモヤを明瞭に可視化してくれた一冊でした。
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「普通はこうでしょ」という意見は、「普通はこうらしい」と素直に受け止めてしまう人がいてこそ、繰り返されるのである。(199ページ)
子どもがいない人は子どもについて語る資格も言葉ももっていない、のではなく、「子どもがいない人」の当事者。そんな人も意見を言える社会であるべきだし、言えないとしたらそれを塞いでいるものは一体何か。基本的な家族の形って、伝統的価値観って、誰が、何のために示しているのか。
言うまでもないけど、子どもがいる人vsいない人の対立構造にはなっていない。各々が各々の人生を生きてる、そのひとつたりとも軽んじたくないし、軽んじてくる人を許したくない、ということが書かれていた。
覚えておきたい言葉がたくさんあったのに、読んでる途中で生活が慌ただしくなって、忘れてしまった。また落ち着いて読み返したい。 -
ある友人から子育てについて相談を受けた時の事。私はこう思うよ、と伝えた後、思い切って聞いてみた。
「私は子供がいてないから、私が言った事、子供もいて無いのに何が分かるん?っていう気持ちにならへんかなっていつも気になるねん。」
すると友人は
「全然思わへん。子供がいる人は、自分の子育ての経験を持ち出したり、自分と比べたりするから、寧ろ子供のいないmukumiの意見の方が冷静な感じがしていいねん。」
そう言われて、ちょっと嬉しくて、いい友人を持ったな、と思った。
私の事も公平にみてくれてるんだなと。
私は子供がいない事、結婚してない事にいつも負い目を感じて生きて来た。
時折、結婚していない芸能人を思い浮かべては、あの人だって、と自分を慰めたりして来た。
でも、この本を読んで共感する部分が多かったし、心が少し軽くなった。
1人で生きていくという事は、時にパートナーや子供がいる人より大変な事だってある。
どんな生き方にだってそれなりに大変な事はある。
当事者にしか分からない事、当事者じゃ無いから分かる事。どちらもある。
私もどんな時もどんな事にも公平な態度で臨みたいなと思う。 -
子育ての当事者になってまだ2年程度で、
育児本は自分との差異を見つけては辛くて読まない。
育児エッセイは、子供とのかけがえのない時間…!もしくは育児苦しいよね…共感共感〜〜〜みたいなものが、お腹いっぱいになってしまって読まなくなり、
でも、子を取り巻く社会のことに興味はあるし、色んな人の話が読みたいのになぁ、というところで見つけた武田さんの話は、私はこういうものが読みたかったのかも!と新鮮だった。
こうやって色んな視点から、子育てを内包する社会のことが語られていったらいいなと思うし、
育児の話は経験者のみの特権、みたいなムードは薄まっていけばいいなぁと思う。 -
人の人生を他者が規定しない、規定する動きに敏感でありたい。他者の人生を利用する利己心に気をつけたい。武田砂鉄さんの本を読むといつも思います。立ち止まり、疑う癖をつけたいです。
それにしても、武田砂鉄さんはどうやってこんなに膨大な量の情報を集めて、思考して、記してるんだろう。 -
私自身いまのところ子を持ちたい気持ちがないから、自分が子どもの話をするのもな、と思ってしまっている。けど、私が生きてる社会で起きてることやから、と気持ちを改めた。抗い方を砂鉄さんの本やラジオから教わってるように思う。
少子化を女性の気持ちの問題に矮小化して、女性を啓発しようという姿勢が本当に気持ち悪い。子を持ちたい人が安心して持てる社会にして、子を持ちたいと思える社会にするのが先でしょう。その上で、持つか持たないかは自由意志でしょう。
私たちは国の存続と繁栄のために生きているわけではないし、生殖は義務ではない。国は、政治は私たちの暮らしのためにあると思ってない政治家ばかりでしんどい。現実に生きてる人たちを蔑ろにしないと守れない「あるべき形」なんて滅べば良い。 -
タイトルの通り、父ではない著者が第三者の目線で子どもを持つこと、少子化、母親の重圧等について書いている本。
子どもがいることが普通で、子どもがいないとなぜなんだろうと思われる日本社会。
子どもがいないと子ども関連のことを発言しても、「知らないくせに」と思われる。しかし、当事者、第三者…いずれの立場から意見を言ってもいいし、その方が多角的に見られるし、解決するのではないかということで書かれた本。
私も子どもがいないので、共感の嵐。日頃モヤモヤしていたことが言語化されている。
特に「子どもが泣いている」という章の子どもへの接し方が分からないし、接しているのを周りから見られて慣れていないなと思われるのも嫌というのは、私かと思うほど。
自分も子どもがいないので、子ども関連のことは「実際はよくわからない」と素通りしてきた。だけど、この本を読んで子どもがいない立場からの意見も重要なんではないかと思った。でも、周りの目が気になり、公言できないけれど。だからこそ著者は本を出すまでやっていることがすごいなと思わされる。
子なしの人は日頃モヤモヤしていることが言語化されていてスッキリするし、子ありの人にもこういう考えもあるんだと知ってもらうためにも読んでほしい本だった
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自分の人間関係のなかにも、様々な家族形態の人たちがいるわけだが、そのいろんな人に対して、無頓着だったんだなと恥入り、この本に書かれているようなことに関連する過去の振る舞いを反省した。
自分には3人の子供がいるが、確かに子供がいることで、対子供耐性のようなものは否応なしに身に付いてきた。動じないというか、余裕を示せるというか、諦念をまとっているというか。
しかし、自分の子供以外の子供にはうまく接することができないのがデフォルトである。時々にしか会わなかったり、週に何度も会うことがあっても数十秒程度の上っ面の言葉を交わすだけで、関係が深まるといった類の他人の子は、いないのが現状である。
保育園の送迎の際に、子供に人気があり、子供と打ち解けあっているお父さんやお母さんをちょいちょい見かけるのだが、彼ら彼女らは、対大人のコミュニケーション能力も高めだったりするので、やはり、年齢に関係なく、対話力というか、社交性があるかどうかが、そのまま結果として現れているだけなんだなと思い、羨望と自己嫌悪とが入り混じった感覚を都度覚え、足早にその場から離れようとしてしまう。
どれほどの割合なのかはわからないが、自分の子供以外の子供には苦手意識を持っている親は多いような気はする。特に男性は。
そんな、対人コミュニケーションに自信を持ち切れない自分は、近所に出かける時に、子供を連れていくことが多い。子供をダシにするほどでもないのだが、自分のコミュニケーションの苦手意識を緩和させたり、店員さんとの間に我が子を投じることで、会話のきっかけになったり、子供って〇〇っすよね感を出すことで好印象を得られればという下心があったりもする。SNS上ではなく、その場で、生“いいね”をねだっているような感覚だ。
ヤなヤツ、、、
他にもついついやらかしてしまったことがアレコレ思い出される。
あぁ、、、
なぜアレやコレやをやらかしていたのか、、、
そこには、意識的にも無意識的にもひけらかしたかったり、羨ましがらせたかったり、迷惑がわせてやりたい、という思いがあったりする。正直なところ、、、
どこかで見合わない、釣り合わない、採算が取れてない、と思っているのかも知れない。
子供がいることでウンザリするくらい持っていかれてしまう自分用の“時間”と“金”
まあ、愛する家族のためなので、言うほど苦ではないのだが、チリツモで累積していく鬱憤は、隙あらば今か今かと標的を求めている気がする。
そして、やらかす
我が子は可愛いし憎たらしいし成長はたまらないし勉強やスポーツや物作りやなんやかんやで良い結果が出た時は誇らしく思うし他の子より劣っているときは自分の遺伝子を棚に上げてガッカリするし怪我や病気や悩み事があるとどうにかしなければと必死になるし自分よりも良い人生を歩んで欲しいけど自分のことを見下さないで欲しいし、、、だのなんだの。
子供を持つということは、持たないと経験できない経験する必要もない玉石混淆のあれもこれもに絶えず晒される滝行にも似た感覚というか。
だからと言って、他者で溜飲を下げたり憂さを晴らしたり当て付けてはいけないということを、たしなめなければと自制し自省していこうと思った。
子供の有無に限らず、“普通”という言葉によって生じる棲み分けのようなものに、意識的であり繊細でありたいと思ったし、鳴らされている警鐘を折に触れて思い出せるようにしようと思わせてくれた一冊であった。