覇王の家(上) (新潮文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784101152387

感想・レビュー・書評

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  •  徳川三百年の礎を築いた徳川家康の生涯を描く歴史小説。

     なぜか、戦国時代の司馬作品では、この作品だけまだ読んだことがなく、おりしも大河ドラマで注目されているので、この機会に読んでみました。

     上巻は、信長が討たれた所まで描かれており、家康の巧みな政治力で徳川家を守ってきた苦労が伝わってきました。

     また、三河の風土であったり、三河武士の特徴であったりしたものがこの時代を生き残る重要な要素であったことも理解することができました。

     時折挟まれる司馬史観の余談もこの令和の時代にあっても考えさせられる内容でした。 

  • 【感想】
    「国盗り物語」や「太閤記」でも、特に異質で不気味な雰囲気を醸し出していた徳川家康が主人公の物語。

    読んでいると、家康は決して野望家ではなかったということが窺い知れる。
    その独特さや不気味さ、総じて変わり者であるという点はあくまで「三河者」というジャンルが為すものであり、その中でも特に家康は現実主義で、そして悪く言えば地味で、才能や運に頼らずコツコツと物事を堅実に積み上げつつ立身していく様が見て取れた。
    家康と、信長や秀吉との違いは、かの有名なホトトギスに関する一句でとてもよく分かる。

    かと思えば、たまにヒステリックの如く奇抜な行動を起こし、狼狽え激情し、そして次の瞬間には瞬間冷却されたかのように冷静になる。
    また、計算はするが、決して人を裏切ったり、打算的な考えは用いない。
    このような変人エピソードもまた読んでいて家康のチャームポイントであり、面白いなーと思った。

    家康本人の台詞やエピソードがさほど作中に多くないのも、彼の生前の本音や意見を漏らさない性格によるものなのかもしれないと読んでいて感じた。

    下巻も非常に楽しみだ。


    【あらすじ】
    徳川三百年―戦国時代の騒乱を平らげ、長期政権(覇王の家)の礎を隷属忍従と徹底した模倣のうちに築き上げた徳川家康。
    三河松平家の後継ぎとして生まれながら、隣国今川家の人質となって幼少時を送り、当主になってからは甲斐、相模の脅威に晒されつつ、卓抜した政治力で地歩を固めて行く。
    おりしも同盟関係にあった信長は、本能寺の変で急逝。秀吉が天下を取ろうとしていた…。


    【内容まとめ】
    1.国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずる点、利口者の多い尾張衆とくらべて際立って異質だった。
    「三河衆一人に尾張衆三人」という言葉すらあったほどで、城を守らせれば無類に強かった。

    2.武田信玄の西上に対して
    「敵がわが公野を踏みつけつつ通り過ぎてゆくのに、一矢も報いずに城に隠れているなどは男子ではない。」
    何事も慎重をかさねてきたこの男が、血の気を失うほどの形相でこう言った。
    家康という人間を作り上げているその冷徹な打算能力が、それとは別にその内面のどこかにある狂気のため、きわめて稀ながら破れることがあるらしい。
    結局は惨憺たる敗北に終わるのだが、しかし彼ののちの生涯において、この敗北はむしろ彼の重大な栄光になった。

    3.我が子・信秀(後に切腹)を陥れた家臣に対して
    信長はかつて酒井忠次の詭弁を信じ、家康にその子と妻を殺させた。
    それほどの目にあった家康こそ反逆すべきであるが、家康は強靭な自己防衛上の意志計算能力を備えていた。
    信長も、いま目の前にいる老中の酒井忠次も、家康にとってはわが子の仇であったが、それを仇であると思ったときには自分は自滅するという事を家康は驚嘆すべき計算力と意志力、冷静さをもっていた。


    【引用】
    「人よりも猿のほうが多い」
    ただ国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずる点、利口者の多い尾張衆とくらべて際立って異質だった。
    「三河衆一人に尾張衆三人」という言葉すらあったほどで、城を守らせれば無類に強かった。


    p34
    家康という、この気味悪いばかりに皮質の厚い、いわば非攻撃型の、かといってときには誰よりも凄まじく足をあげて攻撃へ踏み込むという、一筋や二筋の縄では理解できにくい質のややこしさを創り上げたのは、ひとつにはむろん環境である。
    桶狭間によって勢力地図が変わり、家康が今川氏から解放される運命を作ったが、彼はそれでも今川氏と別れず留まっていた。

    また、家康はあくまでも今川氏への信義立てを装い、岡崎城が空城になるまで入らなかった。
    無論ただの正直者ではなく、正直を演技するという、そういうあくの強い正直であった。

    結果、西の織田と東の今川に対し、同時に自分の律儀さを感心させたこととなった。
    家康のような弱小勢力としては、律儀さを外交方針にするのがもっとも安全の道であった。


    p63
    ・武田信玄の西上に対して
    「敵がわが公野を踏みつけつつ通り過ぎてゆくのに、一矢も報いずに城に隠れているなどは男子ではない。」
    何事も慎重をかさねてきたこの男が、血の気を失うほどの形相でこう言った。
    家康という人間を作り上げているその冷徹な打算能力が、それとは別にその内面のどこかにある狂気のため、きわめて稀ながら破れることがあるらしい。
    彼は全軍に出陣支度をさせた。
    結局は惨憺たる敗北に終わるのだが、しかし彼ののちの生涯において、この敗北はむしろ彼の重大な栄光になった。


    p218
    本能寺の変後、堺にて其の報を聞いた家康は大いに狼狽え、自害しようとさえ考えた。
    同席している穴山梅雪を一人取り残し、三河者だけで協議を行った。

    家康の奇妙さは、梅雪にその重大情報を明かす時すでに、激情が去っていたことである。

    「国へ帰ります」と、家康は穏やかに言った。
    家康の性格のおかしさも油断ならなさも、そういうところにあった。
    彼は自衛のための構造計算を平素精緻にしておくくせに、それが一旦崩れると人より数倍狼狽え、しかもその彼を破滅的な行動に追いやる激情が、すぐに沈静してしまうのである。

    復讐を思い立ったものの、織田家の他の軍勢と違い、家康のこの場の状態は誰よりも哀れであった。
    この言葉で自分を絶望から救い出そうとし、気力を鼓舞してみただけで、さしあたって言葉そのものに重い意味はない。
    それよりも、この危険な上方地域からどう脱出するかである。


    p222
    「穴山殿、是非ご同行なされ候え」
    家康は言葉を尽くしてすすめたが、梅雪の表情が優れない。
    (家康めは、このどさくさにまぎれてわしを殺すつもりであろう。)

    「梅雪、多知ノ男ニテ」
    当時言われていたように、武田の族党の中では知恵があり、その知恵を勝頼を裏切ることに使い、家康を仲介者として織田方に寝返り、巨摩郡一つをもらった梅雪は、危険を感じた。

    が、この甲州人は家康についてもっと知識を持つべきであった。
    家康という男はその不透明な見かけのわりには意外なところがあり、それは年少から一度も人を謀殺したことがないということであった。
    家康はこの時期よりあとも、そういう所行はない。
    梅雪は、このとき不利な判断をした。

    梅雪は、この場で家康一行と別れた。
    この行動は、おそらく三河人どもの不気味なばかりの団結の様子を見て、彼らが信じられなくなったのであろう。

    梅雪はさほどもゆかぬうちに明智方の警戒線にかかり、その場で首にされてしまった。


    p232
    村重や光秀からすれば、反逆はむしろ正当防衛であったであろう。
    殺さねば、いずれは殺されるのである。

    信長はかつて酒井忠次の詭弁を信じ、家康にその子と妻を殺させた。
    それほどの目にあった家康こそ反逆すべきであるが、家康は強靭な自己防衛上の意志計算能力を備えていた。
    信長も、いま目の前にいる老中の酒井忠次も、家康にとってはわが子の仇であったが、それを仇であると思ったときには自分は自滅するという事を家康は驚嘆すべき計算力と意志力、冷静さをもっていた。


    p237
    「いずれ物事が煮えてから」
    やがて起こるであろう織田家の諸将間の権力闘争が泥沼の状態になり、強者たちがヘトヘトになってから立ち上がっても遅くはなかった。


    p242
    「復讐戦のため、京にのぼる」
    そのような颯々とした行動は、家康の性格では無理であった。
    ところが復讐しなければ、世間への顔が立ちにくいという困った課題がある。
    このため、せめて復讐に出かけたという事実だけを作っておかねばならなかった。
    でなければ、世間への声望を失うし、さらにはかれの士卒に対してもまずかった。

    人に将たる者は、士卒の心につねに自分が英雄であることを印象させておかねばならない。
    このために、「形だけ西上の姿を見せておく」という、いわば演技的行動をしていた。

  • 「覇王の家 上」 司馬遼太郎(著)

    1973年 初刊 (株)新潮社

    2002 4/20 新潮文庫
    2020 6/20 31刷

    2020 9/9 読了

    次回、読書部のネタとして
    宿題に出された「徳川家康」

    まずは家康嫌いとも言われている
    司馬遼太郎の描く徳川家康。

    ぼくの知らない個性的な家康像がここにありました。

    無骨で中世的だと書かれている三河武士。

    裏で糸を引いていたのではないか?
    とも言われいる本能寺の変以降
    秀吉との関わり

    物語と言うより歴史書の色合いが濃い。

    そして下巻では関ヶ原
    大坂夏の陣、冬の陣に続いて行く。

    楽しみ。

  • 司馬遼太郎ならではの徳川家康の話。
    覇王の家、というタイトルとちょっと印象が違いますが~面白く読めました。

    三河の小さな大名の子に生まれた家康。
    今川に人質に出されている間に父は亡くなり、不在のまま跡を継ぐが、実質的には領国を支配できない。
    三河の人々はそれに耐え、気の毒な若君を思い続けたという。
    実直でやや排他的だが、一丸となって戦う三河武士。
    もともと農民である分、地縁に恵まれた関係だったという。
    尾張は都会なので、気風が違うのだそう。
    織田信長はもちろん、身分の低い出の豊臣秀吉でさえ、ずっと合理主義者だったのはそのせいだという考察が説得力あります。

    家康は信長よりも武田信玄のほうに親近感を抱いて尊敬していた形跡があるそう。
    そういわれれば‥
    織田信長には正妻と長男を殺すように命じられたしね。
    しかし、この件については、妻の築山殿のことをえらく悪く書いていて、何か資料もあるのでしょうが、作者の嫌いなタイプだったの?
    長男も猛々しすぎて家臣の信頼を失った経緯があるそう。

    家康自身は戦った相手のほとんどを許し、反乱を起こした家臣も降伏すればそのまま許し、戦国大名には珍しく?誰かを謀略によって殺したこともない。
    自分で手を下して誰かを殺したことは一度もないほどらしい。
    さすが、「鳴くまで待とうホトトギス」?
    家康は最初から天下を望んだのではないでしょうね。

    大河ドラマ「真田丸」が始まる頃に、予習のひとつとして読みました。
    あまり真田について詳しくなりすぎても、かえって文句言いたくなるかもと思って、この辺から。
    本能寺の変の後の伊賀の山越えの話など詳しく書いてあり、ドラマではほとんどスルーの小牧長久手の戦いも詳しかったので、ちょうど良かったです☆

  • 大河ドラマが始まって家康についてタヌキおやじぐらいのイメージしかなかったのでこれは読まねば!と。
    正直今まで司馬遼太郎作品を読んで家康は好きになれなかったけどやはり読んでみるとイメージはかわる。確かに「奇妙な方」だ。

  • 八月の「100分de名著」は司馬遼太郎『覇王の家』をやるらしい。
    『どうする家康』×司馬遼太郎生誕100年、と云ったところか。
    因みにだが僕の祖父(故人)は、司馬さんとおなじ大正12年生まれ(関東大震災の年だ)で、やはり生誕100年にあたる。
    司馬作品は二十代の頃、貪るように読んだ。さいきんは遠ざかってしまったが、この『覇王の家』は読んだことがなく、ちょうどいい。たしか司馬さん、家康きらいだったよな。どう描いてるか気になる。というわけで、手に取る。

    上巻は、幼少期から本能寺〜小牧長久手前夜あたりまで。
    家康を描いていることは間違いないが、その周辺世界にも主人公と同等以上の紙幅が費やされる。多声的である。その声の内には、もちろん筆者自身も頻繁に顔を出して愉しい。
    正室築山殿と嫡男信康、宿老酒井忠次、武田信玄・勝頼父子、織田信長、穴山梅雪。周縁から家康という人物に迫っていくが、決して中心に辿り着くことはない。
    人間は人間関係に依って成り立っている。その関係性からは、日本人とは何か、といった精神構造まで浮かび上がる。あるいは家康が天下を取ったから、かれらの精神性が日本人の典型を成した、と云えるかもしれない。

    久しぶりに司馬遼太郎を読むが、あまりの巧さに一々仰け反っている。
    ことば選びのセンスは殆ど純文学だし、語りのリズムや長短は講談を聴くように心地いい。時間空間の伸縮は自由自在、何よりも事象の積み上げが見事すぎるほどに論理的で、こうだったにちがいない、という納得感がある。つまり説得的である。歴史的事実と、そこから産みだされる内面の想像がシームレスに繋がり幻惑する。
    これは小説なのか?
    いや、そのとき彼らがどう考えたか、その心の裡に迫る行為は、小説にしか成し得ないのだ。ほとんど神の所業といっていい。
    俗に、司馬史観、などと云われるが、司馬遼太郎という作家は、事実を積み上げていく研究とはちがった遣りかたで、歴史、というよりは人間の(精神もふくめた)活動に、小説という独自の方法で迫ろうとしたのではないか。
    この小説の中でも、事実とは別のところでしばしば共同幻想みたいなことが起こって、歴史が転換していく。
    人間はときに事実を超越する。
    そういう現象を、作家は想像力を駆使して描いていく。
    この小説自体が、それら幻想の一環のようにおもえてくる。じつに奇妙である。

  • 家康の生い立ちについて殆ど知らず、この本を読んでよくわかりました。
    日本史が得意でなく、学生の時も避けていた。すごく読みやすく、文体やいいまわしが非常に上手いなあと思った。地理のこと、人物のこと、よく咀嚼できました。教科書やよくある歴史のダイジェスト版より小説の方が頭に入りやすいなと。

  • 徳川幕府を開いた徳川家康の小牧長久手の戦いまでを描いた本。徳川家のバックグラウンド、家康の複雑な成長過程から彼の人格がどう形成されていったか?彼の美学がどのようなものだったのか?を教えてくれる。
    結果、徳川幕府を得て日本人の美学にさまざまな影響を及ぼしたか考えさせられる。

  • 再読。と言っても、前に読んだのは数十年前か…。

    司馬遼太郎さんは、徳川家康が嫌いです(笑)。
    やっぱり、関西人ですからね。って、そんな感覚が大阪で暮らしていっそうわかるようになりました。

    そんな司馬遼太郎さんが、徳川家康の人生を描いてみた、という本。
    小説なんですけど、小説というよりは、評伝と言う感じです。
    なんというか、小説、と呼ぶには、熱情というか入れ込み方が少ないんですね(笑)。
    ただ、別段罵倒したり感情的に悪態はつきません。
    「なんかなあ…好みではないんだよな…すごいんだけどね」という。

    でも、本としては実に面白い。
    結果論で英雄扱いするのではなく、ほんとに戦国時代を兎にも角にも生き残った家康さん、という感じ。

    それなりの豪族の長男でありながら、強国の都合で人質に出されて、更に途中で売買されてしまったり。
    苦労に苦労を重ねた少年時代と、それに耐えた「田舎者集団」の三河武士たち。
    その家臣団の結束を強みとして生き残っていくのですが、
    一方でその田舎者な家臣団たちの限界というか、嫌らしいところも描きます。
    新参者に冷たく、陰険な体質。
    ただ、それを糾弾せずに、受け入れて乗っかっていく。独創やひらめきではなく、求められるリーダー像を守っていく。そんな家康さん。
    実にパッっとしません。
    実に地味です。
    それを守り通すことで生き残っていく、そんなところに醍醐味があります。

    今川の傘下から、桶狭間をきっかけに織田信長の傘下に。
    信長のために「北条氏と武田氏の盾」の役割を甘んじる。
    その上、謀反の疑いで、妻と長男を殺せ、と言われる。断れない。
    武田信玄には負けるし、けっこうたびたび負けます。
    実にパッとしません。
    実に地味です。

    でも、ミスをしない。内政のミスをしない。領民には悪い領主ではない。家臣団も圧迫しない。
    じつにこう。

    人間関係。

    強弱の人間関係。

    なんですね。
    そこに忠実に地道に歩いていく。
    そして生き残って、地道に積み重ねて大きくなっていく。

    家康とその家臣団、という地味な成功者のどろどろした人間模様。
    これを、珍しく東日本関東までの目線で戦国と言う時代を解剖しながら味わえます。

    上巻は、信長が死んで、秀吉の台頭。秀吉との対決が始まるころまで。
    有名英傑同士の政治的感情的力学が、国際サスペンスを味わうようなエンターテイメント。

    そして、家康的、徳川的な、人間関係や秩序重視の世界観が、江戸期を通して日本人のある形態を作っていったのでは、という大きな視点。

    毎度、司馬さんの本はするすると読めてしまいます。

  • 司馬遼太郎の描く徳川家康。家康に抱いていた巨人像が見る見るうちに小さくなっていく…。小さな巨人、徳川家康の物語。


     家康は可哀想という感想しか出ない。それでもその都度何とかなるから、人生に勇気を与えてくれる存在である。諦めずに、小心者を貫けば、生き残れる!!


    _______
    p16 お人好し岡崎
     家康は幼いころ(竹千代)に攫われて織田家に人質として捕われたり、その後今川家預かりになったり、故郷で暮らせない散々な目に遭っていた。
     家康の故郷、三河岡崎の民も狂うしい思いをしていた。家康の父:広忠は24歳で亡くなり、その後は不在ながら家康が家督を継いだ。当主のいない三河は今川預かりの土地となり、岡崎の人々は今川家から出向してきた侍に支配された。その中で可哀想なのは、三河の御家人は俸禄を停止され農民に成り下がるしかなかったことである。ひどい。しかし、岡崎にの人々はそれを渋々受け入れたという、なんというお人好しだろうか。
     確かに逆らえば岡崎のような小国は今川のような強国の手にかかれば一握りであろう、家康が大きくなってまた岡崎の地が独立できるその日まで耐え忍ぼうとおもったのか。なんかよくわからないな。

    p22 学問
     家康が幼い時代を過ごした駿府は他の戦国大名の土地とは格が違った。今川家は足利家の血を引く良家で、貴族文化が浸透していた。それゆえ文化水準、学識水準も高かった。人質として暇を持て余す家康は学問を少しかじったらしい。そういう土地にいたからできたことだ。
     しかし、戦国時代に学問を納める武将はほとんどいなかった。信長もうつけ者と言われ、謎の袋を身に付けて毎日野を駆け回っていた。秀吉は言わずもがなの猿である。明智光秀とかは貴族文化にかじっていたりしたが、そういう人物は珍しく、だから重宝されていた。
     家康が天下を納めるようになったから法治国家ができたが、それはこの人質事件が無ければ生まれなかったと考えると、感慨深い。

    p25 真似ぶ
     「学ぶ」は「真似ぶ」からきているという。手本に倣うことが学ぶということ。深い…?7

    p26 独創の限界
     家康が駿府で習った雪斎和尚は習字で独創的な字を書く和尚の手本に怪訝なまなざしを向けた。それに対して曰く「わしのように年老いれば別だ。六十を超えれば、世道世間の人迷惑になることは別として、書風くらいわが身勝手で会ってよい。しかし若い時はそうあってはならぬ。-真似るのだ。」
     独創や創意、頓智などを世間の者は知恵というがそういう知恵は刃物のように危険で、やがては我が身の慢心になり我身を滅ぼす害物になってしまう。慢心で自分に癖ができてしまえば、戦においては3勝して最後の一回で大敗を期して身を滅ぼすことになる。
     そこへゆけば、真似びの心あるものは無限の外の知恵という物が入ってくるから、強い。その都度、最適な手段を選ぶだけですむのだ。

     なるほど、型の鍛練と同じだな。

    p49 律儀さ
     家康のキーワード「律儀」。この用心深さがあったから天下を取れたと言えるかもしれない。あらゆることに律儀で、それ故に織田信長に気に入られ、今川から独立して同盟を結ぼうと言われるほどだったのである。

    p51 今川を裏切る、謀術者
     家康は岡崎城主になった。今川義元が桶狭間で死んで、息子の今川氏真が継いだが有名なできそこないだったらしい。そこで家康はきっぱりと今川に見切りをつけて織田と同盟を結んだ。すごい。
     ここに至るまで、家康特有の入念な下調べがあった。

    p58 井伊家の赤
     家康は甲斐武田氏と隣接して日頃からその騎馬の鼻先がこちらを向かないか戦々恐々していたはずである。しかし、武田勝頼が織田に敗れた後、武田の家臣が浪人になっていれば、大人数であろうと召し抱え、武田のやり方を学ぼうとした。実はそれほど武田信玄を尊敬もしていたのだろう。徳川の切り込み部隊の井伊家の真っ赤な戦装束は武田の者に倣ったものである。

    p59 徳川の異質
     安土桃山文化の中で徳川家は異質だった。豪華絢爛な織田や豊臣の文化とは違って田舎臭い質朴さを好み、それを貫き通した。

    p87 公衆衛生
     家康は信長とかみたいなイノベータ―になるような部分は無かったが、医療や衛生面における思想においては先覚者といえたかもしれないという。家康が薬の調合が好きというのは有名で、生水は飲まなかったし、愛妾は多かったが娼婦には梅毒があるから抱かなかったし、鷹狩を好み、スポーツが健康に良いということを実践した初めての日本人と言えるかもしれない。

    p155 築山ヒステリー
     家康の最初の正室。人質時代の家康と政略結婚で今川家から嫁いできた。なかなか手ごわい女だったようだ。家康が今川家を裏切って織田方に付いたせいで不遇の生活を余儀なくされたということもあるだろうが、高飛車なお姫様だったようだ。
     そして、ついには息子の信康とともに武田勝頼のもとに下って、家康を暗殺しようとしたとされる。この密謀は侍従の中から漏れ、信長の娘で信康に嫁いだ徳姫に伝わった。これを徳姫が信長に手紙で伝えちゃったもんだから一大事。丁度この頃、荒木村重に逆心されていた信長は家康にこの二人を処罰しないと同盟を切ると告げた。その責めを負って、築山殿は殺され、信康も切腹させられた。
     家康は生涯このことを悔やんでいたらしい。関ヶ原の時にも「信康が生きていれば自分がこんな第一線に立つこともなかったろうに」と嘆いたという。勇猛果敢な武将気質の信康に比べ、生真面目だが器量の小さい秀忠は大戦を任せるには不安だった。つい出ちゃったんだろうなぁ。そして、家康はそういうことをウジウジ気にし続ける男だったのだ。

    p163 尾張と三河の主従関係
     中世武士団の棟梁というのは、豪族同盟の盟主であった。その地域の豪族やら支族やらが団結して、力ある者、血筋良きものをその棟梁として立てて旗頭とする。しかし、尾張の織田家は上意下達のトップダウン方式。羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益らは信長が土中から掘り起こして着飾らせた武将で、主人と使用人の関係であった。それに対して三河は古くからの武士団の同盟という形式が残っていた。それ故に家康の動きには「遠慮」という物が感じられるのである。

    p173 信康の狂性 
     信康は平素は明るく燥ぐことが好きな若者だったが、時に尋常じゃなくなる。秋の踊りの季節には、城下の者が城門側で城主に踊りを見せる習慣があったのだが、信康は桟敷に座ってそれを見ていると、やにわに弓矢を取り出し、踊りの下手な者らを射ち殺した。また、鷹狩が好きでよく出かけたが、狩場に獲物がいないときの不興はすさまじかった。ある時猟場で僧に出会った。「僧に会うと必ず獲物に出会わない。」という言い伝えがあったのを聞いていた信秀は、その僧を馬に繋いで轢殺した。やばぃ。


    p269 茶屋四郎次郎
     織田家専属の呉服屋を営んで巨利を稼いでいた。しかし、本能寺の変で信長が死んでピンチ!その時、信長のもとに来ていた家康もピンチ!!

    p297 家康と信長の違い
     家康は信長と違って計算高い、臆病者だった。
     信長ははっきり言って人付き合いのできないダメ人間である。人の気持ちを理解できず、自分の気持ちも表現しない(自分の気持ちを察することのでない奴は嫌う)、暴虐的な振る舞いをする(だから超人的なことができたのだが)、そのために荒木村重とか明智光秀に「このままでは俺は信長に切られるのでは…」という恐れを産み、反逆に踏み切らせてしまう。
     家康は違う。人の気持ちを深く深く探って、気を遣いすぎるほど遣う。家康が信長に信康を屠れと言われて実行した。それはつまり信長は家康に禍根を残すことになる。いつ逆心されてもおかしくない状況。信長は人一倍家康に対する監視を強めただろう。家康は信康のことを恨むどころか、信長に逆進の気配アリと誤解されないよう細心の気配りをした。信康死後は一層信長のために第一線での活躍をしたし(姉川の戦いとか)、織田軍が武田を破った後の東海道凱旋の祝いの気の遣いようは信長を感嘆させた。
     信長の信康誅滅の命を受けた酒井忠次にも気を遣った。忠次は言うなれば家康の息子の仇の片棒を担いだ男だ。そういう男を蔑ろに扱えば「家康は私のことを未だに怨んでいるのか。我が御家もいつ廃されるかわからない。」という邪推を産み、最悪の結果を招きかねないことを知っていた。だからこそ、人一倍丁重に扱って信頼関係を継続してきた。
     家康は心理学的なレベルの人心コントロールの術を考えていたんだな。

    p306 家康は安全な奴
     家康は信長に「アイツは安全な奴」だと思い込ませるようにふるまってきた。家康ほどの功労者なら信長について京社会との交流とかをもっとしてもいい物を、田舎者の自分には似合わないと、遠慮し続けた。これに信長は家康には野心を感じず、安心して信用したのだという。
     しかし、これは本当に家康の性格から京社会とかに馴染まなかったのだろうともいう。実利主義な家康は京文化の装飾過剰な雰囲気を好まなかったのだろう。質朴を好み、地道に自領の土地開発を進める、信玄のような経営者気質だったのだろう。

    p327 あいまい
     家康は戦でも外交でも、家臣に詳細に語ることはせず、当人の推量や独断に任せることが多かったようである。曖昧な指令によって、それを受けた族党内で知恵者が議論百出して、最適解を出すことを望んだようだ。素晴らしい経営者だな。

    p335 北条氏政
     北条五代のうち、初代早雲から氏綱、氏康と器量人が排出されたが、氏康の子:氏政は凡愚だったようだ。こんなエピソードがある。氏康は氏政と食事を共にして、氏政が一椀の飯に二度汁をかけて食べている様を見て絶望したという。飯は日ごろ欠かさず行うもの、器量ある者なら目分量で汁をかける配分位わかるもの。それがわからない不器用な氏政は一国を任せられる人物足り得ないという理屈だという。
     それでも氏政は子の氏直に家督を譲るまでは家を護った。しかし、その氏直はさらに暗愚だったという。

     信長が死んで、甲州を徳川と北条のどちらが治めるかという駆け引きで、家康は8000の兵で、北条5万の兵を強気の外交交渉で引き下がらせた。家康の巧みさもあるが、その掌の上で転がされた氏直の気の弱さ。

    p345 金貨
     家康は蓄財家で、米経済だった当時でも、たまに入る金銀銅の硬貨は城の金蔵に丁寧に記帳して大事に蓄えさせた。
     豊臣期のおわり、細川忠興が金子に困り家康に無心したことがあったが、「お安き御用」と唐櫃二つの金貨をぽんと貸し出した。その金貨の包み紙には古い物で家康がまだ若く三河の城にいた頃の物もあったという。
     家康はこういう風に蓄財家だが、安い麦飯を好んだり、褌は古びても使えるよう浅黄色に染めさせたり、吝嗇家という評判が高い。

    p349 家康の経済観
     家康の奇妙な談話が残っているという。「自分が金銀を集めすぎているというが、それは物の理を知らぬのである。上府に金銀が集まれば下々に金銀が少なくなり、自然、下々は金銀を大切にするようになる。もし世間に金銀が多くなれば物価が高騰し、世人が困窮するようになる。」といったという。
     信長や秀吉は貨幣経済に力点を置き、更に国家貿易で国家全体を富ましめようとしたが、家康の経済観は地方の農村領主の思考法から出ることはなかった。この理念が江戸時代の基本となり、農本主義の経済が続いたのである。

    _______


     家康の前半は本当に周りに気を遣っていたんだなぁ。
     
     これから天下を納めるために気を遣う時代が来るが、それも楽しみだ。天海さんとどう絡むのだろう。

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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