下巻は、「平家物語」から「江戸文学」までの古典文学ナビのような本だが、その本の概略を説明した後、ポイントとなる箇所を田辺聖子流に面白おかしく解釈しているのが、滅茶苦茶に面白い。やはり一流作家の表現力は、一般の古典解釈と一味違う面白さがあります。
面白かったのは「とはずがたり」と「徒然草」。
「とはずがたり」
後深草院に仕えた「二条」という女性が、晩年になって14歳~49歳までの人生を振り返った日記文学なのですが、皇族・貴族・高僧といった身分の高い男性との恋愛(肉体?)関係を赤裸々に描がいており、内容がショッキングだったので門外不出扱いになっていたようで、昭和15年に宮内省図書寮で発見されるまで、その存在は知られてなかったようです。
今なら「週刊文春」か「女性セブン」に「私の男性遍歴」として掲載されれば、連日報道されるようなスキャンダラスな内容なのには驚きです。
時代は鎌倉時代の中期なのですが、京都の上流階級では、源氏物語さながらの恋愛模様が繰り広げられており、本人たちも自分たちの行為を、源氏物語に譬えているのには驚きです。著者の「二条」はこれほど多くの男性を魅了したのは、美貌とか知性というより、魔性の女だったのでしょうか?
「徒然草」
若かりし頃、高校の古文の教科書で読んで、こんなにつまらないものが・・・と思っていましたが、田辺聖子流に解釈されると、面白おかしく、こんな授業だったらもっと真面目に勉強しただろうなと思います。
特に女性に関しての記載では、世捨て人とは思えない「男の目」としての女性観が出てきたり、反対に女性蔑視の記述も書きたい放題です。
「どんな女でも明け暮れ見ていたら、つまらなくなる。女にとっても中途半端だろう。時々通って泊まるというのが、仲が長続きするだろう」
とどめは、「女というものはひがむものだ。我執が強い。強欲のうえ、理非曲解のわきまえがないし・・・(略)・・・聞かれもしないことをペラペラしゃべってしまう。素直でなく、愚かなのが女である・・・(略)・・・恋という迷妄に囚われている時だけは、女も優美で、価値があるように思える」
さすがに田辺聖子もこの記述には頭にきたのか、「この言葉をそのまま男に返してやりたいような気がします」と・・・。