天平の女帝 孝謙称徳: 皇王の遺し文 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (580ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101296234

作品紹介・あらすじ

奈良時代、二度の皇位についた偉大な女帝、孝謙称徳。彼女は生涯独身を貫き、民のため、国のため、平和な世のために、全力をつくした。大仏開眼供養、遣唐使の派遣。逆臣たちの内乱を抑え、僧道鏡を重用し、九州の民・隼人を侍童として置いた──女帝の突然の死と遺詔の行方、秘められた愛の謎を追い、一人の人間として、そして女性としての人生を求めた女帝の真の姿を描く、感動の歴史小説。

感想・レビュー・書評

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  • 孝謙天皇(称徳天皇)とは、聖武天皇と光明皇后の娘で奈良時代に天皇を2回務めた女性。怪僧・道鏡をはべらせ公私混同した女性天皇といわれることが多く、そういえば幼い頃に読んだ漫画日本の歴史のような本の怪しい流し目を送る絵が思い浮かぶ。
    ところがこの小説は、正史(男たち中心の歴史)では貶められている孝謙天皇を女性が無理なく天皇の任を務められることを考え、さまざまに手を打った人として描いている。ストーリーテラーともいえ孝謙天皇に重用された和気広虫や吉備真備の娘・由利といった宮廷女官たちの、実態に合わせて男性たちと伍して宮中を営んでいく後ろ盾となる決まりをつくろうという動きも絡んでいたりして、男社会に立ち向かう女性たちという構図が時代を超えて現代と重なるかのよう。奈良時代から取り組んできた男女共同参画社会がいまだになされていないということでもある。いや、むしろこの小説で描かれている世界のほうがまだ、女性たちが生き生きと力をもち活躍できていたようにさえ思えもする。つまりこの小説は、奈良時代に舞台を借りて、既得権を放そうとしない男たちを糾弾しているのだ。
    昔むかしは今よりもはるかに女性が活躍する時代だったともいわれる。この小説を読んでも、女であることの不自由を感じながらもそれを何とか乗り越えていくための仕組みをつくろうとしたり、歴史が歪められるのに抗い、才や真のある人が活躍できる世のなかをつくろうとする女性たちの輝きが感じられる。
    孝謙天皇らの死にまつわるミステリーみたいな要素もあるし、ドロドロとした宮廷模様もあるけれど、孝謙天皇、広虫、由利、澪、巫女の明女などあっぱれな女性たちが動き回り、胸が空くようなさわやかな雰囲気が終始流れるストーリーだった。

  • どこで気になったのか不明。でも手元にあって、先だって読んだ不比等の後日談として楽しめるかも、と思って着手。でも本作に流れる時代は、なんと称徳天皇亡き後がメインで、同天皇については回想の対象という設定。馳作品同様、いわゆる一般的歴史認識に対して、違った可能性を問うといった内容で、ミステリ的な結構も盛り込まれていて、スリリングな味わい。でも人物造形はこっちの方がずっとリアルで、深い。それにしても、単純に”奈良時代”として記憶しているこの8世紀、何とまあ激動の時代だったのですね。更に興味は深まるばかり。他の作品にもあたってみたい。

  •  奈良時代後期の女帝、孝謙天皇(称徳天皇)を題材とする歴史小説。
     本編では、女帝が崩御したのちに、側近であった二人の女官、和気広虫と吉備由利を中心に、回顧録の体でその治世を振り返ってゆく。
     今作では一貫して、『聡明で先進的な偉大なる女帝』としてのイメージを確立すべく、孝謙帝に対する女官たちの敬意と追慕の情を描いている。
     しかし、そうした描写に説得力があるかと問われれば、正直なところ疑わしいと感じている。
     従来、かの女帝が被ってきた悪評を覆さんとする著者の意欲は十二分に伝わるし、筆致も格調高く、心理描写も巧みだが、あまりに力み過ぎて筆が滑っているのと、何より、題材となる人物の癖が大分強く、かなり空回っている感がある。
     そのため、読後感と好みは、二極化するのであろうと思われる。

     まず、作中では藤原氏を始め、男性官人たちは“女に天皇は務まらない”と見なしているとあるが、孝謙帝以前に即位した女帝たちの功績が無かったことにされているのは、随分と不自然に見える。
     当時、女性の天皇を退ける風潮があったように記されているが、それまでの女帝の在位年数の累計は70年近くあり、実績も高く、実際に廟堂で女帝を忌避する思想があったと言えるだろうか?
     孝謙帝(称徳帝)の治世は、度重なる理不尽な政変により、多くの親王や王、有力貴族たちが粛清されており、一種の恐怖政治であったという側面がある。
     そのため、女性の為政者を嫌がる空気が生まれていたとしたら、むしろ、孝謙帝時代の後遺症によるものではないかという見方もできるのだ。
     その上、彼女自身、かつての女帝たちを見下し、我こそが最も天皇に相応しき女と自負するのも驕慢に過ぎまいか。
     神功皇后を、“たかが天皇の女”と一蹴する表記は如何なものだろう。
     それこそ、孝謙帝自身が『たかが天皇の娘』に過ぎず、生母は皇族でもない。
     天皇の祖父母を持ち、天皇の娘であり、妻であり、自ら即位し、皇太子の母でもあった持統天皇や、父方の祖父母も母方の祖父も母も兄も天皇となり、自らも初の未婚女帝として即位した元正天皇など、血統や業績に優れた女帝は他にいる。

     また、孝謙帝は民のために心を砕いたと書かれてあるが、そもそも、当時の為政者に『政治=民の暮らしを保護すること』という発想はあったのだろうか。
     律令制では公地公民が原則であり、民は国家もしくは私領地に属する。
     女帝の父・聖武天皇の世に発布された「墾田永年私財法」により、開墾田から税収を確保するシステムが補強されている。
     一方で、大貴族や大寺院が地方諸国の土地を開墾し、私有地とする動き=荘園化へと繋がっている。
     上記を鑑みれば、この頃の政治的重要事項と言えば、中央集権体制を強化し、国家の財政を充足することこそ筆頭に挙げられたのではなかろうか。
     仮に、疲弊した人民を慰撫する姿勢が女帝にあったのならば、本編にあるように贅を尽くした新たな離宮の造営など、その労働負担を減らすべきであった筈だ。

     さらに、女帝を『男性優位の官僚機構と戦った先駆的女性指導者』として祭り上げているが、前述のように、孝謙帝よりも前に幾人もの女帝が、お飾りでなく精力的に政務に当たっている。
     ましてや、女性官人の登用において子供の保育をいかに保障するかなど、現代日本社会の問題点がそのままスライドして投影されているのは、些か場違いな感が否めない。
     その意味で、今作は、歴史物の体を成したジェンダー小説と位置づけた方が適切かもしれない。

     そして、最大の難点は、孝謙帝の人物像が、作中で推進されているイメージとは乖離していること。
     歴史上の人物を扱う際は、史料との整合性を無視できないが、彼女の場合、詔勅は無論のこと、本人の所業が露骨に記録されてしまっている。
     その辻褄合わせがお粗末に過ぎるのだ。
     宇佐八幡宮神託事件の真相として、女帝の本心は道鏡に天皇の位を譲るつもりはなかったとしながらも、別の人物を位に就けたいがために、前例として道鏡を即位させる手筈だったと代弁させるなど、本編の記述が矛盾している。
     しかも、実際に後継者としたかったのは、度々朝廷に反旗を翻してきた大隅国出身の一族、隼人の青年とあっては、創作にしてもあまりに突拍子がない。
     女帝が天武系の血統の維持にこだわったという意向ともそぐわず、本来は皇子(天皇の子)に限られる「殿下」の呼称を使わせている。
     かつて、天皇にならなかった高市皇子の息子・長屋王の、「大般若経」(和銅経)における『長屋殿下』の表記においても論議を呼んでいるのに、皇族ですらない者にこの呼称を用いるのはどうにも違和感が残る。
     尤も、この部分に関しては、史料の隙を突いた創作というより、単に筆の勢いで作った造語の一種と見るべきかもしれない。(女帝に対する「姫上皇」という表記と同様に)
     それよりも重要なのは、和気広虫・清麻呂姉弟の処遇に際し、如何に女帝の心理を丹念に追究しようとも、結局のところ、『皇族以外の者を天皇の位に就けたいという己の意向を汲み取らずに諫言を呈した忠臣に対する怒りから、姉弟の身分を剥奪し、蔑称を押し付け、流罪にして都から追放した』という通説通りの事態となっている点である。
     その上、姉弟追放の理由を述べた勅の、粘着質で偏執的な言い回しが歴として遺っているがために、文面の裏に女帝の資質が透けており、生半な創作では擁護できなくなっている事情がある。
     それは、今作品においても例外ではない。
     つまり、いくら女官に“孝謙帝は聡明で高潔でご立派な名君であった”という旨を頻りに回想させてみせても、史料と本書の描写そのものが二重に浮き彫りにしているのは、狭量で愚か、残酷でヒステリックな『ただの女』でしかない女帝の姿なのである。
     この点においては、作品全体の執筆方針と方向性に無理があったと言わざるを得ない。
     あくまで、女帝の人間性を弁護したいのであれば、彼女が『欠陥のある等身大の為政者』として、国家の柱たる重責に苦悩し、もがきながらも力及ばずに志潰えた様を正直に描写した方が、よほど建設的な作品になったのではなかろうか。
     巷には、『未熟な棟梁が、ダメな奴なりに頑張り、ダメな奴のまま終わっても、不思議と読者を魅了し、余韻を残す小説』という代物も存在するのだから。

  • 「緋の天空」を読み終わった後、孝謙天皇の小説を積んでいたなと探し出した本作。

    冒頭も孝謙天皇の独白から始まったので、てっきり孝謙天皇が主人公で道鏡とのスキャンダルとか色々載ってるんでしょ、と思って読み始めたら、違った。

    この物語は孝謙天皇が崩御し、時代が変わったことで赦された元孝謙天皇の右腕ともいうべき女官・和気広虫が、岡山から平城の都に帰ってから、孝謙天皇が残した遺詔を追いかける形で孝謙天皇の人柄などを振り返っていく形式。

    和気広虫って男だと思っていたら、女性だったのね、と出てきて早々に登場人物欄を二度見。
    由利もだけど、女天皇に仕える女性たちがこれほどまでに権力、というか、地位として上り詰め、仕事を任されるものなのかとちょっと驚いた。
    そりゃあ、男性陣もとい、藤原家は面白くないに違いない。
    が、緋の天空を読んだ後だと、やっぱり藤原四兄弟がほら、ちょっと、ね、っと思ってしまう。

    道鏡とのスキャンダルとか、私も思いっきり藤原家が作った歴史に乗せられていた口だったけど、女性天皇として、未婚の女性天皇として、最後までこの国を我が子と思い定めて守り慈しんできた様が遺詔には表れていた。

    その思いは、新たな歴史を紡ぐ男たちに切り捨てられてしまうのだけれど。

    女にとっての結婚妊娠の重さと、男にとっての結婚妻の妊娠の重さが、どうしてこうも人生に及ぼす影響力が違うのか、どうしたって解消できない生物的な部分とかも含めて、今も昔も女はほぞをかみ耐えなければならないシーンが多すぎると感じてしまう。
    同じようにはできないからこそ、人同士の、制度上の思いやりって必要だよね。
    ま、思いやりだけでは現実は回しきれないのだけれど。

  • 女帝に仕える高級女官、和気広虫の目線で物語が語られる珍しい形態。
    主人公である孝謙天皇(称徳天皇)は死語である。

    この時代の話は初めてなので新鮮。

  • 広虫の女帝に仕えた回想を女嬬の質問などを通して現在と過去を織り交ぜて話が進んでいく。

    女帝は結婚は禁止とされ重い責任の中、寄りかかる人も女帝の権威を取り込むため近づき、優しく接する。

    この時代の小説はまやかしなどが多いけど、そういうのが重きを置いてなく、心情を優先させた小説。

  •  孝謙称徳天皇の時代は恵美押勝の乱があったり道鏡事件があったり、つまり女帝が特定の家臣を極度に愛してしまいそのため政治が混乱をきわめるという、そんな歴史的イメージを持つ天皇である。
     しかしながらこの小説ではそんな悪いイメージを払拭してくれるばかりか、なぜ後世に女帝の悪い印象が残されたのかその理由も明確に示してくれている。
     孝謙女帝が主人公だが、女帝が崩御されるところから話が始まる。女帝に仕えた女官の和気広虫の視点でストーリーが語られていく。光明皇后に引き立てられ絶大な権力を握った藤原仲麻呂がどのような生涯を送ったのか、道鏡がどのように女帝を救ってどう寵愛されたのか、女帝亡きあと誰によるどんな力で皇太子が定められたのか。あの時代に起こったさまざまなできごとの流れとその背景が解き明かされる。
     もちろんこれは小説なので作者の脚色もあり、話に花を添えている。広虫に届いた飾り緒が誰からの贈り物なのか最後にわかる場面があり、思わず涙が出てしまった。
     残念なのは、女帝の政治を通して作者は現代における男女平等社会の推進を強く主張しているように見える点である。男女平等はよいのだが「男の社会は悪、女の社会は善」と決めつけたような話の流れがやや鼻につくのと、皇室にも女性・女系天皇を容認すべきという主張が見え隠れしているようで、そこは少し不満を感じた。
     最後まで読んだあとでもう一度冒頭の部分を読んでみると話の伏線がいくつか張られていることに気づく。ペルシャ猫が最初から登場しているではないか。

  • 女性天皇がどれほど良い治世を治めていても、死後に貶められるという怖さと史実の限界を思い知る。やはり小説はノンフィクションよりフィクションの方が安心して読める。

  • 広虫(狭虫)視点、弟が糺した宇佐神託に一文加えたがために女帝の信頼を損なう。女帝死後許され都に戻るが、女帝をめぐる死の謎を解く過程で奈良朝政争の歴史が語られる。
    言葉の力を信じる女帝。名は体を表す、文字は魂を宿す。
    罪に落とす前に道祖王=麻度比(惑う)、黄文王=久奈多夫禮(愚か)、和気清麻呂(別部穢麻呂)
    女帝は唐に憧れる(則天武后かも)元号が4文字、官職が唐風改称(言葉にこだわる)
    作品では母と愛を競った仲麻呂の権力の元は光明子の宮職(749紫微中台)の長官となり、兵を掌握し、詔勅を独力で実施できる、新羅征討も計画、新天皇(淳仁天皇=淡路廃帝)も私邸で囲うなど権力を集中していたが、光明皇后死後、権力の根底を失う。新天皇と保良宮行幸の時に病の孝謙上皇を看病した道鏡(看病禅師)は呪術と最新知識で信頼を得て、藤原氏私欲のための政治を行う仲麻呂と淳仁天皇から政治を取り上げる決意を固めた孝謙上皇を吉備真備と共に支える。(作中解釈)
    面白い!

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著者プロフィール

◎玉岡 かおる(たまおか・かおる)作家、大阪芸術大学教授。兵庫県三木市生まれ、神戸女学院大学卒業。15万部のベストセラーとなった『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(新潮社)で‘89年、文壇デビュー。著書には『銀のみち一条』、『負けんとき ヴォーリズ満喜子の種蒔く日々』(以上新潮社)、『虹うどうべし 別所一族ご無念御留』(幻冬舎)などの歴史大河小説をはじめ、現代小説、紀行など。舞台化、ドラマ化された『お家さん』(新潮社)で第25回織田作之助賞受賞。『姫君の賦 千姫流流』(PHP研究所)は、2021年、兵庫県姫路市文化コンベンションセンター記念オペラ「千姫」として上演。2022年5月『帆神』で新田次郎文学賞受賞。

「2022年 『春いちばん』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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