- Amazon.co.jp ・本 (346ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101390055
感想・レビュー・書評
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「男たちはなぜ鮨屋になったのか」が書きたかったとまえがきで触れられているように、鮨の味が云々よりも17人の鮨職人の生き様に重きをおいたノンフィクション。それぞれに面白いが、普通の人生経験では鮨職人になれないのではという錯覚に陥るw
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再読。抜群に面白い。なぜか鮨職人と嫁さんとのなれそめに妙に力が入っているところが可笑しい。
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思った以上に話題の本になっていないのが悔しくて仕方ない(苦笑)。ここからカウンターのあるお鮨屋に行くように。
http://www.ne.jp/asahi/behere/now/newpage006.htm -
年を取れば取るほど、食というものが大切になってくる。いろいろな欲の中で、生存に一番不可欠でいて、生存ということとは違った部分で人間が引き込まれていく欲望である。
大学に入り、東京へ出てきたときに、池波正太郎の食についてのエッセイを読んで、いっとき、名店と呼ばれるところに通ったことがある。学生の身分だから、高級店にいけるはずもなく、いきおい煉瓦亭とか、たいめいけんなど、高いとはいっても、学生でもアルバイトのお金が入った頃には、通えるぐらいのところが中心だった。
鮨屋というのは、恐くてとても行けなかった。いまだに、名店というのは、敷居が高くて苦手である。ただ、この苦手意識は、鮨職人の現実というよりは、巷で流れる鮨職人というものの伝説によるところが大きい。
仕事の関係で、銀座の高い店などに行ったことがないわけでもないが、素直に、鮨屋というものと向かい合ったことはない。
実際、若い頃は、鮨というものがそんなに好きでもなかった。
和食の懐石というのもどちらかといえば苦手で、洋食の方が輪郭がはっきりしていて性分にあっていると思っている。
年をとってきても、いまだに懐石料理よりは、洋食の方が好きなことには変わりはないが、少しずつ、刺身というか鮨が好きになってきた。そろそろ、好みの鮨屋というものが欲しくなってくる年頃なのかもしれないと思う。
早瀬一郎の「鮨に生きる男たち」は面白い本だ。
すきやばし次郎を筆頭に、鶴八、青木、水谷などの名店の鮨職人たちと、稀代の鮨好きの筆者の交流が描かれている。
金儲けだけを追及するんじゃないという志のあたりが、鮨屋という奇妙な人種を特徴づけている。
たとえば、こんな件。
「ウニなんか箱ごと買って来て、軍艦巻きにしたご飯の上に乗っけるだけです。ですから出来るだけ沢山、山盛りに乗せます。鮨屋の手間は何もかかっていません。だからウニで儲けるなんて出来ません。鮪もそうです。鮪を自慢する鮨屋にはなりたくありません。いい鮪を自分の懐具合を考えて選ぶのは当たり前です。そのかわり、穴子、小肌、蛤など手を加えたものからはちゃんと利益をいただきます。」(新橋鶴八 石丸久尊)
こんな鮨職人を育てたのが、有名な神田鶴八の師岡幸夫親方だ。師岡親方のこんな言葉。
「いいか、同じ品物で、同じ値段で、同じ設備で売る鮨屋があるとする。優劣はどこでつくか。最後の決め手は人間なんだ。人間はどのようにしてつくるのか。自分じゃない。人に、お客さまにつくってもらうのだ。お客さまの言うことをよく聞きなさい。わからないことは教えてもらえばいい。鮨を握って食わせてもらわなければならんが、金もうけをしようと思うな。金は不幸になるの防いでくれるかもしれないが、いくらあっても幸せにはしてくれない。」
こんな痺れるような言葉も、日々の鮨職人の修練の現場にあってこそ、本当に心に響くのだろう。
鮨職人がどうやって鮨屋になっていくかというあたりも面白い。
六本木奈可久の鈴木隆久は、「なか田」で修行した。
「入店早々の鈴木の仕事はこの客に出すおしぼりを一つ一つ丁寧に洗って巻く。この繰り返しだった。(中略)一日に二百本ぐらいのおしぼりが必要だ。洗うときは汚れを完全に落とし、真っ白にして巻かねばならない。単純な仕事だが、気を抜くとどこかに手落ちが出る。巻き終えたおしぼりは、ザルに並べる。同じ太さに巻かなければ、ザルに一定の本数が入らない。これが巻物を折りに入れる練習になった。」
そのあと、鈴木は、13人の職人の食事の準備、いわゆる賄作り、「安くてボリュームがあって、なおかつうまいもの」を作るという厄介な仕事を3年間行った。この間に、包丁の使い方を憶えたという。そのくらいの修行のあとに、烏賊の皮むき、先輩が裂いた穴子をあらったりし、その後ようやく魚を直にさわらせてもらえるようになった。そのあと、彼は親方に大抜擢されて、握ってみろといわれる。先輩連中からいじめなどにもめげず、彼は職人として成長していくことになるのだ。
下働きが4,5年というのはあたりまえで、それは決して無駄じゃないというあたりが、一生ものの仕事というものを考えるうえでは普遍的な響きを持つことになる。
尾山台の徳助という店の主人の原田のこんな接客の様子。
「主は、一週間前に来た私を憶えていたが、無駄口は聞かず、そうかといって無愛想というのでもなかった。客との距離のとり方が絶妙なのである。どんなに通いつめている常連客にも馴れ親しみ過ぎず、そうかといってふらっと入ってきた一見の客にも妙な緊張感を与えない。」
こんな鮨屋に入りたいと思わせるようなエピソードでこの本はいっぱいだ。
こんな原田の日常も、細かいことが気になるぼくには、とても面白い。
「原田の平均的な一日は、午前五時二十分の起床から始まる。10分ほどで仕たくをして五時半には車で築地へ。七時ごろにはその日の仕入れを終わり、尾山台の店に八時半には到着する。朝食はとらないことが多い。食べるとすれば築地でぞう煮である。もちが何より好きだ。店に着いて仕込みは11時50分まで続く。12時から午後2時まで昼の営業時間。昼だけのバラちらしは1300円で小鉢、赤だしがつく。そのあと仕込みの続きをし、この間にアルバイトの人と昼食をとる。たいてい麺類を自分でつくる。一段落をすると近くの行きつけの珈琲専門店に行く。これは日課のようになっている。そのあと午後四時から五時まで椅子を並べて一時間眠る。これが楽しみだ。
夜の営業は午後6時から10時まで、後片付けをして店を出るのが11時45分殻深夜12時前。家に帰ってからシャワーか一風呂浴び、軽い夜食をとって床に入るのは午前一時を回ってからだ。身を粉にして働き、毎月40万円を家賃やローンに払い続けなければならない。一家四人が食べるのが精いっぱいである。貯金などまだまだ出来るところまでいかない。それでもこの仕事を選び、独立出来てよかった、と原田は思っている。」
このあとも、鮨のいのちは、酢飯が人肌であることだとか、鮨屋の成功にはおかみさんの内助の功が不可欠だとか、面白いエピソードの中で語られる。
読み終わったら、やけにうまい鮨が食いたくなること請け合いだ。 -
著者は新聞記者(たぶん文化部系)として、無類の寿司好きとして、自分が出会った寿司職人たちの物語を綴っている。彼らが修行から独立までに連なっていく人間関係が、著者の寿司屋交遊録とも重なるので、ある意味物語の当事者として記録され、あるいは著者自身の経験として記録されたそれぞれは、単なる取材記事の枠組みを越えていて、読み応えがある。
寿司そのものへの言及が少ない反面、業界の人間関係や立身出世とはこういうものなんだということがよくわかるし、章ごとに1人の人物をまとめそれぞれ独立したルポなのに、すべての章が人間関係や時代背景で関係しているので、全体がひとつの物語。一介の取材記者とは次元が違う、ひとつの作品になっていて、感情移入しやすく、魅き込まれた。
それが理由か、客は金持ち、職人は苦労人、という構図が、著者の意図とは別に一貫性を持っていて、どんなに対象に迫ろうとしても、自分が客であることの一線を越えない中での、エピソードふうのノンフィクションなのかな、とも感じた。角界のタニマチ的広報というか。
にしても、経費なのか自腹なのか、そうとう贅沢なひとだ。