ハレルヤ (新潮文庫)

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  • 新潮社
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感想 : 9
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  • Amazon.co.jp ・本 (179ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101449258

作品紹介・あらすじ

五月の晴れた日に、お饅頭のようなかわいらしい子猫と出会った。親猫はおらず、病院に連れて行ったところ、特別な猫であることがわかって――。花ちゃんと名付けられた子猫が、元気に走り回るようになるまでを描いた「生きる歓び」。それから十八年八カ月後、花ちゃんとの別れが語られる「ハレルヤ」。青春時代を振り返った川端康成文学賞受賞作「こことよそ」など愛おしさに満ちた傑作短編集。

感想・レビュー・書評

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  • 小説なのかエッセイなのか
    志賀直哉が好きな私にとってはとても馴染みのある書き方
    そして、猫好きな私にとってはとても共感できる話
    花ちゃんとの出会いと別れ
    猫には神さまがついていると私も思います

  • 4編の作品とあとがき。
       (あとがきも素敵な作品だった)
    これらはエッセイだと思う。
    「、」は「読点」でいいのだっけ? この「、」の打ち方が独特なので、最初は読みにくい感じがした。そのうち慣れた。
    表紙の写真がすてき。著者に寄り添って立つ花ちゃん。とてもかわいい三毛猫さんだ。

    私は猫と長いこと暮らしているので、「かわいい〜」「癒やされる〜」だけではないと知っている。
    生き物なので、老いるし病気もする。家はボロボロになるし手間もかかる。それが猫だもの。
    存在してるだけでかわいい。いとおしい。美しい。
    安心して暮らせるように心を込めている、つもり。
    この著者が、本当に猫たちを愛して一緒に生きてきたと伝わるので、時々辛くなる。そして安心する。
    読みながら私の愛する猫たちをおもう。
    今そばにいる猫たちの中に、天国の猫がいる。

    心に残る言葉があった。
    ◎猫は心に過る感触をそのままもつ。記憶は生きるのに必要だからあるので、生き物は全員記憶する能力をもつ。
    言葉は記憶の、逆に阻害要因になるかも。人間は心に過る感触を言葉にしようとして、薄めたり逆にしたりしているかも。
    それを忘れたら生きていけないようなことは、言葉を介在させずに記憶する。
    ◎チャーちゃんは何も言葉を残さなかったから、人間としての宿命で心の奥の声を探り続けることになった。それは祈りだからそこに言葉はなかった。光と風と波だけがあった。

    人とおしゃべりする時って、何かのワードから違うことを連想して、「そういえば」とか「関係ないけどね」とかって話が展開していくと思う。
    物語としての柱を持たないエッセイの場合、私はこのように頭に浮かんだことを次々と書くようなものが、わりと好きだ。
    最初の話からズレていったり、また戻ったりする感じ。この本はそうだ。
    そして著者の傍らには猫がいる。いつも。

    音楽、映画、本、聖書、死んだ尾崎、街、父、小説のこと。。。。。
    著者の記憶とその言葉。その時は気づかなかった言葉。言葉にするということ。
    本は、ただ読めばいい。「この感じ!」っていうのを人と共有したいと思っちゃうけど、言葉は難しいね。
    おだやかで、たまに熱くて、ちょっと切ない感じの本でした。

  • NHK理想的本棚より

  • 句読点で続く、一文の長さ…
    今まであまり読んだことのなかった文体の
    小説で読みにくかった。

    唯一、最後の「生きる歓び」が1番、
    サラッと読めたかも。
    なかなかページが進まず、一冊読み通すのに
    結構時間がかかった。

    猫との出会いや生活、
    闘病と看病に当てた日々を描いた小説、
    同情を誘うような形ではなく、淡々と描かれている。

    親や子供の介護で1日の大半を使い果たし、
    それが何年も何年もつづく人たちは、
    「何もしていない」のではなくて、
    「相手のためにずっといろいろな面倒をみる」
    ということをしている。
    人生というものが自分だけのものだったとしたら無意味だと思う。

    最後の一文が格好良い。
    人間が猫にかかりきりになるというのを、
    人間が絶対だと思っている人は無駄だと思うかも
    しれないが、私はそう思っていない。

    猫を愛する作者の心持ち、生き方が伝わる。
    そして、それは人によって対象が違っても、
    誰にでも当てはまるだろう。
    人間が絶対ではないと、自分が絶対ではないと、
    当たり前にわかっている自分でありたい。

  • 読んだのは単行本の方だが…まぁ、いいか…社畜死ね!!

    ヽ(・ω・)/ズコー

    昔の保坂氏の本よりも読みやすかったような気が…前はパソコンで原稿書いていたらしいが、今では手書きに変えたんだとか…ネコメンタリーという番組でおっしゃっていましたが…それの影響もあるのかもしれませんね。→読みやすさ 社畜死ね!!

    ヽ(・ω・)/ズコー

    どこがどうと言うよりも、なんだか小説よりもエッセイみたいな内容なんですけれども、それでもイイですね! 内容よりも文章を味わうような、そんな小説かもしれないですね…。

    文章の意味よりも、リズムだとかそういうものを味わってほしいみたいな…あとがきにはそんな内容が書かれていましたねぇ…

    さようなら…。

    ヽ(・ω・)/ズコー

  • 片目がなく瀕死だった三毛猫の「花ちゃん」が著者に拾われ、18年生きて亡くなった。
    様々な飼い猫たちの看取りと見送り。
    猫かわいがりなのに感情が駄々洩れているわけでなくどこか遠い。
    ベレーのお帽子を乗っけたような柄の花ちゃんが著者の足元で表紙写真に写っている。赤ん坊のころに膿を押し出し目薬を点して必死に治したという片目の目力は強い。
    「こことよそ」を収録したことで著者が企図した「気まま。」という雰囲気が出ている。

    P47 短い命を生きることだけがチャーちゃんちゃんのしたことで、短い命の子は言葉を残さず、最後の呼吸で月を見上げて鳴いたらそれっきり飛び散って、光や風や波になる、姿も形も動作も残さず光や風や波になった。祈りと同じだ。

    P92 「コイズミ」「コイズミ」とメンバーの一人の名前を呼んだそのアクセントが頭に強いアクセントがあったのがわたしはとても横須賀ローカルな感じがしたがたんに尾崎の癖だったのかもしれない。

    P103 テクノロジーはどれだけ発達しても昨日の写真を撮ることはできない、それは本当か、
    「この社会の核には「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、人間を常態として委縮させ続けるという当地の技法がある」(酒井隆史)
    【中略】昨日の写真は撮れなくても昨日がなくなるわけじゃない。昨日がなくなると思っているそれが人を常態として無力感で委縮させる。

    P129 子猫は一般的に手足が細く、しっかり足場を確かめるためにいっぱいに前足を伸ばすその姿が、わたしはいつもヤモリを思い出す。

    P150 「一生懸命やってあげたじゃない」という言葉は、本人に対しては猫が死んでしまったことへの慰めにはならない。その現実の慰めにはならなくても、そういう風に気にかけてくれる人がいるということは、別の意味での慰めにならないというわけではない。

    P155 (「世界」にとっては別として)「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。ミルクを飲んで赤身を食べて、段ボールの中を動き回り始めた子猫を見て、それを実感した。 

    P168 「年寄りミュージシャンは気まま」「年寄り猫は気まま」

  • 「ハレルヤ」「十三夜のコインランドリー」「こことよそ」「生きる歓び」の四篇が収録されている。

    本書のあとがきには「感動したことを書く、あるいは心が激しく動いたことを書く、この本に集めた小説はすべてそういうシンプルなものです。」と書かれている。

    同じ著者による『未明の闘争』でも見られたような、文法的な逸脱や論理の飛躍が本書ではより多く現れ、「融通無碍」という言葉が浮かぶ。
    『未明の闘争』での逸脱や飛躍は、読者の意識を操作するための意図的なものだというようなことを保坂はどこかで書いていたと思うが、本書でのそれは、保坂がひたすら「心が激しく動いたことを書」こうとしたことから生じた副次的なものだと思う。

    「こことよそ」では、保坂のかつての映画仲間の死が描かれる。映画仲間として内藤剛志や古尾谷雅人の実名が登場する。名字だけしか出てこない長崎というのは映画監督の長崎俊一、諏訪というのはおそらく俳優の諏訪太朗のことだ。諏訪と一緒に出てくるクッキーとライムというのは誰なのか。「顔を洗ったり爪を研いだりしていた」「私はクッキーやライムや追さんや諏訪たちと…ニャアニャア騒いでいた」という記述があるので映画仲間が飼っていた猫かと思うけれども、『未明の闘争』に出てくる酔っ払い2人のシーンのモデルはクッキーとライムだ、ということも書いてあってよく分からない。よく分からないので自分はあえて猫とも人とも解釈せずに読んだ。
    そういえば自分が悪夢ばかりを続けて見ていた時期に、めずらしく懐かしくて温かい感じの夢を見て目が覚めたことがあって、もう内容は忘れてしまったのだけど、あれはおそらく「こことよそ」を読んだ影響だったように思う。

    「生きる歓び」は「え、ここで終わるの」というところで終わる。半ば宙吊りで置き去りにされた気分にもなるが、この小説が最後に読者を置き去りにする場所は、居心地が悪くないから不思議だ。

  • 「感動したことを書く、あるいは心が激しく動いたことを書く、この本に集めた小説はすべてそういうシンプルなものです」

    心を揺さぶられた出来事を大切に両手で掬いとって天に向かって捧げたような作品たち。

    「生きる歓び」は再録だけど、パズルのピースのようにきれいに過不足なくここに収まっている。
    「ハレルヤ」病児を看病することの幸せを歌ったのは誰だったか。たとえ愛する相手が死にゆこうとしていても、その看病の途中で少しでも病状がよくなったり、食べ物をわずかでも口に出来たりしたとき。そのときに感じるのはよろこび以外の何物でもない。
    動物は死に絶望したりしないからなおのこと。

  • 猫が登場する穏やかな生活を描く保坂和志の小説作品の中でも殊更そのモチーフや作者自身に影響を与えてきたであろう花ちゃん、その別れを記した表題作とその他様々な人や猫やものとの別れを描いた短編2篇に加え、花ちゃんとの出会いとなった過去作『生きる歓び』の計4篇が収録。弱った花ちゃんを拾って世話して元気になり、「「生きることが歓び」なのだ。」と気付かせてくれた猫は神の如き祝福を作者や家族、そして小説の読者たちに与えてきた。その猫が神の近くへ旅立つことは悲しいことだけではなく、むしろ『ハレルヤ』と思わずにはいられない感触を我々にこれからも与えてくれるだろう。

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著者プロフィール

1956年、山梨県に生まれる。小説家。早稲田大学政経学部卒業。1990年『プレーンソング』でデビュー。1993年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、1995年『この人の閾(いき)』で芥川賞、1997年『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、2018年『ハレルヤ』所収の「こことよそ」で川端康成文学賞を受賞。主な著書に、『生きる歓び』『カンバセイション・ピース』『書きあぐねている人のための小説入門』『小説の自由』『小説の誕生』ほか。

「2022年 『DEATHか裸(ら)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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