- Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101467221
作品紹介・あらすじ
「相手の気持ちを考えろよ!人間はひとりで生きてるんじゃない。こんな大事なことは、おまえのためを思って言ってるんだ。依怙地にならないで素直になれよ。相手に一度頭を下げれば済むじゃないか!弁解するな。おまえが言い訳すると、みんなが厭な気分になるぞ」。こんなもっともらしい言葉をのたまう大人が、吐気がするほど嫌いだ!精神のマイノリティに放つ反日本人論。
感想・レビュー・書評
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孤高の哲学者である著者が、様々な日本人的思考、言動を斬って斬って斬りまくる。ああ、こんなこと言っていいんだ、考えていていいんだと、全体的にはスッキリ。
解説でも触れられているが、「「お食事どうなさってます?」と聞く人は「セックスどうなさってます?」と聞けないものだから、こう聞くのではないか。私はいつもそう聞く人はじつはこう聞きたいのだと「改釈(Uminter-pretation)」しております。」は論理的でなく、もう妄想に近い穿った見方だが、笑ってしまった。
自身の傲慢さを振り返ることができる一冊。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
彼の著作を初めて読んだのがこれ。
よくぞ言ってくれた!!って衝撃が強くて色々考えちゃった。私もモヤモヤ感じていたことが明らかになった感じ。
表立って言いにくいというか、タブーまではいかないある種のタブーかもね。
・・・・なんか。小学生の私に読ませたい。(笑)
感受性は皆違うのに…相手も自分と同じ感受性・価値観って前提の押し付け。正直疲れることない?w
例をw
・相手の気持ちを考えろよ
→同じ条件・状況でも『感じ方』は様々。
例えば子どもが騒いでいるのを見ても『可愛いなぁ』『煩いガキだ』『あの子好みだ〜襲っちゃおうかなグヘヘ』みたいに人により感じ方は違うはず。(なんて微妙な喩えなんだ笑)
人はみな感受性は違うんだから、相手の『気持ち』を『わかる』ことなんてない。簡単に『相手の気持ちを考えろ』なんていう人は、自分は他人の気持ちを分かっているつもりでいるのが怖いよね。
いくら考えても他人の気持ちなんて完全にはわからない。
だからわからないことが大前提で、それでも『わかる』状態に少しでも近づくために言葉があるんじゃないかな?
まぁ言葉を駆使しても、理屈はわかっても感性って完全には分かりあえないし、そもそも『分かろう』とするもんでもないけどねー。
・もっと素直になれよ
→素直とは本人が決めるのではなく、周りが決めている。
これ納得!!
例『彼氏いなくて寂しくない?』
『いえ、仕事に必死でそれどころじゃないんで。』
『そういう忙しいときこそ寂しくない?素直に言いなよ』
そう!『素直』とは社会通念上(笑)想定されている気持ちが『素直』。その人個人のありのままの気持ちが『素直』とは限らない。
似たようなことで、小学校の読書感想文なんかで「思ったとおりに書けばいいんだよ」って言われるけど。
本当に自分が「思ったとおり」に書くのではなくて、教師側の想定内の範囲で「思った」ことを「選んで」書くものなんだな、身をもって感じた。
・「一度頭を下げればすむことじゃないか」
上の「素直」と関連することだけども!!自分の非を認めているか否かは関係ない。丸くおさめるためにすぐに謝れる人が「素直」で、自分は悪くねぇ!と「自分の心に忠実に」謝らない人は「素直じゃない」とされる。あ、どっちがいい悪い抜きねw
にしても小学校の頃から・・・・よく言われたなw
・弁解するな
→相手の話を聞く気ないよね。決めつけだし、相手を『理解』しようともしないよね。
小さい頃からこの言葉が本当に嫌いで嫌いで仕方なかった。
私は先生に怒られて『素直』に謝る子じゃなくて、自分が納得いかない!って感じたら立場が不利になろうとも徹底的に食い下がった(笑)
いや、自分が悪けりゃすぐに謝るけどさ(笑)
これはより正確な状況を伝えたがっている相手を、無理やり抑えこんでるよね。
言葉の中の暴力?(言い過ぎか)
言い訳って思っても一応聞いて、それからおかしいと思ったなら、理論整然と反論すればいいと思う。
これこれこういうところがおかしいんだよ、って具体的に。
頭ごなしに「言い訳するな!」って状況も知らないくせに!!って反発するし、死んでもあやまらねぇぞ!って思うねー。
つべこべ言うなって言われると、理屈で返せないんでしょwって言い返したくなることもあるし・・・笑
そんなことを私は小学校低学年から考えていました。
当然『理屈っぽい子』のレッテルを貼られました。笑
理不尽なことを上手く言葉に表したいって想いは、思えば小学生の頃から持っていたんだよね。
書きたいことがまだまだまだまだあるー。 -
★ 言葉の裏側にある「傲慢さ」にムカつくんだよなぁ~
出勤前にTVニュースを見聞きしながらコーヒー飲みながら
身支度しているとあれ?
常日頃、自分が思っていることをズバリと
的を得て言っているおじさんが出演ていた。
「もっと素直になれよ!」って言葉を使う人は、
なにをもって素直になれと言っているんだろう・・・
そういうテーマを語るおじさんは哲学者の中島義道だった。
あたしも過去に上司から言われた事がある。
”依怙地にならないで素直になれよ、
おまえのためを思って言ってるんだ!”な~んて一見、
親身でいい人っぽいセリフだが、
あたしから言わせれば傲慢だ!と思っていたので
たまたま知った中島義道のこの本に興味深々。
このおじさん只者ではないなぁ~・・・
そりゃそうだ哲学者だったんだ。
なかなか面白い -
世間でよく聞くが内容がよく吟味されていない、半ば欺瞞的な言葉を分析する本。
著者の中島義道氏がこうした分析を行う理由は「いつでも生き生きとした自分固有の感受性を保っていたいから」であり、「定型的な干からびた感受性に収まって安心したくないから」だそうである。
特徴としては、彼の嫌いな10の言葉の持つ意図や暴力性あるいは傲慢さを、著者の体験と鋭敏な言語感覚を元に議論を展開しているところ。
嫌いな言葉を見つめるとつい、感情的になってしまうが、著者はアカデミックな立場に身を置いていたことがあるおかげだろうか、嫌いな言葉を論理的な思考によって考える立場を放棄していない。なので、彼の主張には納得してしまうことも多々あるのだ。(偏屈なのは変わりないが!)
彼の嫌いな言葉には、ある程度の共通の要素が存在する。すなわち、
・発話される意味と期待される意味の齟齬に関する欺瞞
・自己批判精神を抑圧させる態度
・暗黙に了解されている暴力的な前提
などである。
この本はこれら共通の要素を知ることよりも、著者の生々しい具体的な話に価値があるので、多くは述べないが、一つ例を紹介するなら「お前のためを思って言ってるんだぞ!」である。
この言葉の欺瞞性は、この後に「後で泣き言を言っても知らないぞ」などの“脅迫的台詞”が発せられるのに、「お前が“心配”だ」と言う精神であると著者は考えている。
こんな痛烈な批判を行い最後にこう締めくくる。「たとえ後で振り返り、言われたことに感謝しても、このセリフに感謝することはないだろう」と。
これには思わず笑ってしまった。
本書を読めば何かしら得ることができる。それは、この本が毒か薬にしかならないからだ。しかし、仮に毒であっても、これくらいの毒をプラスにできなきゃやってけないので、恐れずに中島ワールドへ入場するといいと思う。
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「相手の気持ちを考えろよ!」「ひとりで生きているんじゃないからな!」「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」「もっと素直になれよ!」「一度頭を下げれば済むことじゃないか!」「謝れよ!」「弁解するな!」「胸に手をあててよく考えてみろ!」「みんなが厭な気分になるじゃないか!」「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!」。
こうしたもっともらしい10個の言葉を吐く人びとの背後に、著者はマジョリティに立つ者のマイノリティに対する粗野で傲慢な精神を嗅ぎつけ、告発します。あらためて指摘されるとまったく著者のいうとおりなのですが、世のなかってそんなものでしょう、と思ってだれもが問題にすることなくやりすごしてしまうようなことに、徹底して批判を加えていきます。正直なところいささか辟易させられるのですが、著者のどこまでも真っ当な議論には敬服せざるを得ません。 -
【著者の中島さんと強く共感できた点】
★相手の気持ちを考えろよ
→この言葉は自分をなるべく進め、相手をなるべく刻しろと言うメッセージでもある。個人の言葉を抑圧し世間の言葉を使えと言う意味でもある。
★1人で生きてるんじゃないんだからな!
→つまり「1人で生きることが許されないから」私は凄まじい苦労をしてきた。その苦労の家には、私が生きていく上で不可欠なものもわずかにあったような気がするが、ほとんどのものはなくても良かったと思っている。
★お前の為を思って言っているんだぞ!
→その言っているお前が目障りでたまらない
→それは嘘だからであり、自分を守っているからであり、恩を着せているからであり、愛情を注いでいると勘違いしているからであり、つまり徹底的に鈍感でしかもずるいから。 -
最期のエピソードがよかったので再読した。
若者向け講演会で、
「逆境(少し疑わしいが)を乗り越えた格好いいワタシ」
「(権威に安住しながら)権威に逆らう格好いいオレ」
からの
「だからあなたたちも立派になって」
という「吐き気のする」メッセージがが主催者の意図に反して突っぱねられる一方、淡々と自分の体験を語り、淡々と「愛の賛歌」を歌った美輪明宏が涙を流して喝采される。
それを見て「若者も捨てたものではない」。
日本の強固で捉えどころのない同調圧力、誰もが「自分の」言葉ではなく「世間の」言葉で発する、安全圏に身を置きつつ一方的に相手を叩きのめす物言い、京のぶぶづけ的な暗黙で陰険なルール、実効性がないことを誰もがわかっていながら「やってます」感を出すための標語、注意書き、アナウンス... 確かに大嫌いだ。
相手の言葉を封殺することで表面的な対立を消す。同調圧力に従わない異分子を排除・制裁することで社会の結束を強める。誰もが黙々とルールに従い、身体的には安全で、ニートや引きこもりが食べていけるほどには豊かだが、「はみ出しもの」にとっては精神的に過酷な国、日本。
著者は、個人の主張と主張がぶつかり合う社会も「毎日どこかの学校で誰かが刺されるような」と評しており、単に反日している輩やお花畑サヨク・リベラルとも違う気がする(子供を公共の場に出す前に騒がないよう躾けた話には感心した)。
プロ倫でカトリックについて「罪人には寛容だが、異端には容赦ない」と説明してあったのを思い出した。 -
中島義道の毒気。すき。オススメ!
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”「相手の気持ちを考えろ」という叫び声はマイノリティの信条や感受性を潰し、マジョリティの信条や感受性を擁護する機能をもってしまう。(中略)少なくともこう語る人は、暴力的な側面をもつことを意識してこの言葉を発する必要があります。”
「相手の気持ちを考えろ」の持つ意味や作用について考えたくて読んだ。この言葉を何も考えずに使う者の傲慢に対する憤りを語る部分が多く、なるべく使いたくないなあと感じている自分には共感はあったが、これより良い伝え方やこれが不要になる心持ちが見つけられればなあと思った。それは自分の次の課題にせねばなるまい。