音楽の余白から

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (181ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103129035

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  • 「音、沈黙と測りあえるほどに」
    が素晴らしかったので、こちらも手に取りました。
    装丁やタイトルだけで美しく、本棚にあるだけで背筋が伸びるようです。

    多くの気づきを与えさせてくれる言葉が、たくさん詰まっています。

    少しずつ、じっくりと読んでいきたい一冊です。

  • 武満の文章には、全く以て意図や作為といったものが見受けられない。
    それは彼自身が、これら発信する文章を書くことを通して、
    自らの内奥や真理を探究しようとすることが、
    その文章全体から感じ取られる故なのであろう。
    つまるところ、それは彼の生への真摯さそのものであり、
    それは惑いながらも進み前へと歩を進めるということに他ならない。

    私が書きたいと思う書というものは、
    武満がここで述べた「歌」に隣接するものであろう。
    彼がはじめて「他者」との遭遇を喚起せしめた「歌」をこそ、表現していきたい。


    〇以下引用

    芸術家にとっての罪は、彼を取り囲む社会との関係において、即ち、とりもなおさず、彼の内面でとりかわす会話の言語所有者たる彼自身との関係において、自己を赦すという行為にほかならない。
    ぼくは芸術がこの社会に対して果たす役割について、確かな信念を持つものではない。芸術は、あるいは、この生産的社会には容れられないものであるかもしれぬ。
    芸術は、音楽家がTVの乳白色の画面の上で、すみやかに啓蒙者として変貌する論理、あるいは倫理とは全く関わりのない、反社会的な思想行為ではないか。許容したり、許容されたりする、曖昧な社会的関連の外にあって、真に人間社会の核と触れ合う存在としての芸術は、今日、可能なのだろうか。

    むろん、私は音楽作品を分析することが無意味な作業であろうとは考えていません。なぜなら、今日の医学が人体を分析した結果、人類が得た者は大きく、また、それが有用であることを知っているからです。

    私はたんなる慰めのための音楽を作曲するのではなく、音楽行為を通して自分の存在を確かめたいと思い、そのことによって、人間としての自己と他との関係というものを考えて行きたいと思っています。

    歴史は過去から現在への時間的な帰結ではなく、人間の記録であり、生きた人間の血液を運ぶ動脈のようなものでしょう。私は、私の国が西洋文明と接触したこの凡そ一世紀の歴史を、その方法については幾多の批判を抱くにはせよ、否定することはできません。

    日本の伝統音楽を西洋音楽にアダプトすることは極めて安易なことであり、また、両者を巧みにブレンドすることもさほど困難ではありません。だが、私はそのいずれにも興味を持てません。
    古風に響くでしょうが、私は、音楽はやはり人間の生の奥深い部分へ働きかける力であるのだ、と思っています。そして、それはまた極めて個人的なものでありましょう。表面的な西洋と東洋の和合からは、多分本質的な喚起性に富んだ音楽は生まれないでしょう。それは、ただそこに立ち止っているに過ぎないものです。

    音楽的な道に触れることの驚きや感動は、私たちにとって最も大切なことであると思います。音楽は固定したものではなく、たえず生まれつづける変化であるからです。
    そうしてみると、インド音楽のドローンを電気的にコピイすることも、かならずしも悪いことではないでしょう。それは幾らかは私たちの感覚を拡げることに役立ったかもしれない。しかし、それは結局、それだけのことでしかなかったように思います。
    フランスの音楽家が私に話した言葉に倣えば、私たちにとって西洋音楽は未だに新しい資源です。言い方を変えれば、ヨーロッパの近代音楽は他の多くの異質の音楽と同様に、この地球上の音楽資源の一部であり、それはたぶん、そのこと以上のものでもなければ、またそれ以下のものでもないはずです。

    進歩が示すところは、集団からの、あるいは共同体からの個人の分離というものであろう。

    人間から自立した個人、という私の言い方は、比喩的でありすぎただろうか。しかし近代において、人間は集団意識から、あるいは共同体意識から自由な、自我を獲得した。(それをこそ近代と呼ぶわけではあるが)集団からのこの離脱は、自己客体化ということであり、客体化された自己は究極において、「他者」に連なるものである。それによって、人間には新たな連帯の可能性が開かれているはずであった。

    私にとって日本は、たぶん、永遠に仮説としてあり続けるものであり、それは私が定義し得ないままに、しかしそれに迫ろうとし続けている他者にほかなりません。

    幾つかの時代から、誇らかに、幾人かの日本人の名を挙げることができます。だがそれらの人々は、すでに日本という限界を超えた大きな全体の中にある。かれらは日本という特殊性によって偉大であり傑れた存在であったが、それ故に、日本から自由であった。世阿弥や芭蕉について然う感じるのです。かれらは「私の中の日本人」でありません。それなら、私は、エマーソンやソローをも、然う呼ぶだろうし、そして、寧ろそれは望ましいことかもしれないのです。

    「歌」は、ただ静かに大きな流れのように私たちの肉体へそそがれたのです。私は、大河から分岐した支流のように、そそがれる水に身を浸して、世界の全体というものを感じていたのでした。私は、はじめて他者に気付いたのです。

    音楽は記憶とむすびついて、時にひとを過度な感傷におとしいれることがある。だがそういう音楽は人をただ一か所に立ち止らせるだけだ。それは「他者」としてあらわれるものではない。やがてひとは昨日と何ら変わることなく歩き、音楽も去って行く。もちろんそれも音楽であるだろう。純粋に、書かれた音符だけによって自立している音楽等というものを想像することができるだろうか。たぶん音楽はひとそれぞれのなかでなにかものに結びついているだろう。それは風景であったり、小説の数行であったりする。しかし、音楽がもっとも純粋な始原的な<歌>の形としてあらわれるときは、それは見ることができない。
    私があのとき聞いた歌は、絶対にジョセフィン・ベーカーのシャンソンでなければならなかったが、私はそれと出会ったことで、もう昨日の私ではなかったし、その歌もすがたを変えてしまったのだ。

    その樹は、個別には名付けようもない、生命の沃野に、闇と光の境界に、孤独に、しかも明瞭な意識に縁どられて立つ一本の樹だ。

    樹は、「人間への不断の非難」として存在するものだ、と語ったル・クレジオのことばに、私も知的な共感をもつ。今日、人間と樹との望ましい関係は急速に失われようとしている。すくなくとも現在では、人間は樹を幸福にはできない。人間は、樹に、一方的な慰撫をもとめているに過ぎない。ルドンやリルケの時代は、人間と樹との相互の親和力はいまだ失われていず、樹は、人間の内面に育ち、画家や詩人はまた樹の内部に立って、十分な地下水を汲み上げることができた。画家の孤独は荒地の一本の樹に照応しえた。(この孤独には救いがある。)だが、いま私は、ルドンを、たんに郷愁で眺めているのではない。

    たしかに。ルドンの「黒」には、ことばでは形容し得ないような深度というものが感じられる。

    リルケが樹々のそよぎの間に感じた、「自分が樹であるのか…樹が自分であるのか」という神秘的な交換を感じることができた。…あの底深い沼に咲いている眼球はいつまでも私の脳裏から離れない。

    華岳はあくまで近代的知性の作家であり、主情のやすらぎを拒否しぬいたということであろう。華岳の生涯は「知的悪闘」の軋むような連続であり、生涯を通じて<世界>という名で呼ぶべき統一な一点を目指したのである。

    一線に執拗であるということ。線をひく正確な行いに徹することから、線は幾何学的、抽象的な存在であることをやめ、独自の生命をもち、それは非日常の存在にまでたかめられる。そして、ひとえにそれをなすのは画家の強靭な精神力でしかない。絵画の価値の決定は、この「秘密の幾何学」の有無にかかわろう。

    ―線というものは叡智である、(略)線というものは智慧の作用である。我々画家の頭の中には清らかな水が湛えられて居る、筆を取ると水が通って来て自分が描いてゐるのか、神様が描いているのか分らない。というほど神秘的である。

    ここに使われている華岳の智慧という言葉は、あきらかに理智とは区別しなければならないものである。

    華岳にあって、線ということは、画布の上の線に留まるものではなかろうが、かといって観念の略画ではむろんない。線は行うことによってのみなされるものだからである。

    手記に見るごとく、華岳の神とは、自然と人間とを貫いて永遠に生きる<法>である。仏以前の存在、すなわち、生きる無限の創造の法を体得してこれを具象の姿に表わす絵画の本領、その法との融合をこそ、華岳は画家の生活として自覚したのである。これは真の意味において自己を知ることの他のなにものでもない。宗教的原点と私が書いたのは、かかる意味においてである。

    人間が生み出すものは、地域社会の、また時代の特殊性を離れて存在するものではない。しかし芸術の古典性とは、そうした特殊性(時代社会の制約)から自由であろうとする固有の魂の欲求がその裡に秘められた芸術作品において、はじめて可能なものである。

    古典たるべき芸術作品は、明確な時代様式を備えていながら、しかしそこに固有の魂の刻印がなされている。そこでは、ひとつの時代の終わりと、ひとつの時代の始まりが、美しくも危うい均衡を保っている。古典作品の歩調が不安定なのではなく、【古典】はつねに私たちを道へと赴かせる。<古典>のまえで、私たちは立停まり、それを受容するだけに留まることはない。そこでは私たち自身の創造力(想像力)が不可欠であり、精神の燃焼がなければ、「古典」はまたそれを誘うのである。

    西洋の線がものとものとを区画するものとして引かれるのに対して、日本の線、あるいは東洋の千はものとものとを繋ぐものであるように感じられる。

    必ず絵には静と動との感じが一致しているのです。好い絵だと思ひますとそれは必ず静を感じる。ぢつと見ますと不思議に眼が絶えず運動してゐる。何処からが最初で何処からが最後か分からないのでございます。線も、はじめからあと終わる処が直ぐに明かになるやうなのは余り良い絵じゃない

    薮や空は手段として、或るそれ以外のものを暗示している

    きびしさにはやさしさがなければならない

    日本人の表現について考えてみると、西洋人は、自然の中にその類型を見出すことができないようなものとしての人工を珍重するが、日本人は作り出すものに、自然との同質を見て喜ぶ向きがあるように思う。

    西洋音楽は、雑音的なものを排除することを、歴史的に推し進めてきた。だが西洋近代音楽の周縁に今日も猶存在する多くの民族(俗)音楽は、その騒音や雑音の使い方、混ぜ方の工合いによって固有の音楽を創造している。

    日本人は音によって表現そうとするより、音を聴きだそうとすることを重んじているのではないか。日本人が音によって、表現するのではなく、音本然の貌を聴くことに重きを置いたからではないか、と思う。自然の騒音や雑音を単なる表現上の素材として外在するものとしては観ずに、世界の全相をそこに映ずるものとして捉えたのだ。

    <自然>ということばは、中世では<フト>という意味に使われていた。したがって自然というものは人間と対立するものとしてあるのではなく、何かのときにフト出遭うもので、それが音と音との間というような捉え方に、考え方として影響しているだろう。

    それらの書かれたことばが音として顕わすものは、限定された意味世界を超えている。それは涯なきもののように感じられる。

    今日人間が発する言葉の多くは、物と物を分け隔てる機能のなかで痩せばみ、人間各自の固有の思想や感情が肉感的なまでの直接さで示されるのはまれである。

    詩の海を漂泊している。意識の舵を捨てて、浮遊するようにその表面を滑走しているのだが、いつか抗いようもない昂揚の感覚が私を侵しはじめる。

    詩人が最小に発語する瞬間というものは、想像を絶するが、心象の高まりと同時に、語に内在する律動が知覚され、やがて、現実を凍結するほどの熱量を奪って、ことばは放射されるのであろう。その時現実は、正しく現実と呼ばれる様相を顕わす。

    安倍氏は、言語を、文学としての完結した小宇宙を磨く修辞学の領域に捉えるのではない。映画を創るのだし、また写真を撮ったりする。すべては、ことばだからだ。

    ル・クレジオが語っているように、『樹が誰にも迷惑をかけず、他のものから何も奪いもせず空に向かって枝を伸ばして立って満足しじっとしていることを(人間が)知るとき、樹は一種の不断の非難となり、また、一種の理想ともなる』

    バオバブは私の夢の樹だ。厳粛さと滑稽な気分が入り交じったような、それで、曠野にひとり立ちながらも、変に深刻でないのは良い。生命の表情を最も豊かに現している樹であるように思う。

    あらゆる存在をつらぬいてひとつの空間、リルケが世界内部空間と呼んだ不可視の空間があり、樹は、その存在を人間に予感させる唯一のものであると言ってよいように思う。

    樹は、「根」と「枝葉」と謂うように、内部に抱え込んだ存在の乖離によって成熟して行くのだ。

    いまや人間の邪悪な謀ては、地上からその樹を抹消しかねない。そして、これまで保たれていた、人間と樹との歓ばしい動的で親密な関係さえ失おうとしている。

    樹は、どのように隠蔽された場所に生まれても、つまり、他の存在に自己を知らしめることはなくても、<自分の独特な形態を複雑化することに、自己表現を達成することだけに熱中して>いる。彼らは、ただ<樹>でしかない。この無為の存在は、自らを偽らず、他を欺くこともない。

    嘗て在った人間と樹との交歓は、いまでは極めて一方的なものになってしまった。今日人間は、樹に、手前勝手な慰撫をもとめているに過ぎない。

    ぼくたちの内部を鳥たちは飛び交う。
    ぼくが伸びようと意志して外部を見る。
    すると、ぼくの内部には一本の樹が生えている。

    樹齢百を超す古木の尖塔は陽の光を受けて、全身が黄金の棘に覆われたように輝き、湖の深い沈黙の響きを伝えて打ち震えている。

    私は、自己を証すことのために作曲という仕事をしている。私の言葉は私の生存を主張するがそれはまた他の無数の生を証するものであり、それが響きというものなのである。

    昔音楽は、と言っても、実はたかだか二・三百年ほどの短い時にすぎぬが、詩や宗教、舞踏や日常の祭祀と分かちがたく一体であった。

  • 第3エッセイ集
    1980(昭和55)/4/20発行。
    年譜(秋山)事項1975-1980。

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