吃音: 伝えられないもどかしさ

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103522614

作品紹介・あらすじ

日本に100万人もいるのに、彼らを孤独に追いやる「どもる」ことの軋轢とは。頭の中に伝えたい言葉ははっきりとあるのに、相手に伝える前に詰まってしまう――それが吃音だ。店での注文や電話の着信に怯え、伝達コミュニケーションがうまくいかないことで、離職、家庭の危機、時に自殺にまで追い込まれることさえある。自らも悩んだ著者が、丹念に当事者たちの現実に迫るノンフィクション!

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    『英国王のスピーチ』という映画がある。故イギリス女王エリザベス2世の父・ジョージ6世は、小さいころから吃音というコンプレックスを抱えており、人前に出ることを嫌っていた。だが、厳格な父親はそれを許さず、様々な式典のスピーチを息子に課すも、原稿を読み上げようという瞬間に一切喋れなくなる。ラジオから流れる沈黙、国民の怪訝そうな顔、また失敗してしまったという自己嫌悪……。自らの責務を疎ましく思い、どんどん内向的になっていくジョージ6世であった。そんな中、自身が王に即位することが決まった。新国王は、戴冠式で国民に向けて「英国王のスピーチ(The King’s Speech)」を行わなければならない。そのために言語療養士とともに発話の練習を重ねていくのだが……。

    実話をもとにしたこの映画は、「吃音」がいかに苦しいものなのかを鮮明に物語る映像である。
    吃音は言語に支障をきたす症状でありながら、障害として認められるケースはそう多くない。吃音者は聾唖者ではない。言葉をしゃべることはできるし、簡単な雑談ならよどみなく行える。しかし、予期せぬ質問、電話応対やスピーチといった「会話」の際には言葉が出なくなってしまう。世の中の仕事や人間関係が会話で成り立っている以上、言葉をスラスラとつなぐことができないのは致命的だ。しかし、周囲の人間はそれを障害だと思わず、「つっかえてしまった」「噛んでしまった」という「ミス」としてみなす。それゆえに吃音者は周りから理解されず、孤独を深めていく。

    吃音には、2つの特徴的な点がある。
    その1つは、「曖昧さ」だ。現代医学においても、吃音の原因や治療法はわかっていない。精神障害に入るのか身体障害に入るのかもはっきりせず、症状も出るときと出ないときがある。そうした曖昧さを抱えるゆえに、当事者は、吃音とどう向き合えばいいか、気持ちを固めるのが難しい。改善できるかもしれないという期待は希望を生むが、達成されない時には逆に大きな失望に変わる。また、常に症状があるわけではないことは、周囲の理解を得るのを難しくする。
    そしてもう1つの特徴は、「他者が介在する障害」であるという点だ。通常1人でいるときには障害にはならない。ほとんど他者とのコミュニケーションに関連して生じる障害であると言える。どもる時に感じる苦しさは、言葉が詰まって言えないことそのもの以上に、相手に不可解に思われたり驚かれたりすることに対する恥ずかしさや怖さによる部分が大きい。話した瞬間に、いつも相手に「どうしたんだろう?」と驚いた視線を向けられること、または向けられるかもしれないと恐れることは、人とコミュニケーションを取る上で心理的に極めて大きな負荷になる。それはコミュニケーションの内容そのものにも影響を与えるだけでなく、コミュニケーションに対する恐怖心をも植え付ける。

    そうした苦悩を抱えこみすぎたがために、自殺に及んでしまった吃音者もいる。
    飯山さんは警察官になる夢を持っていたが、吃音が原因でそれを諦め、看護師を志していた。看護学校時代の飯山さんはみんなの面倒を見てくれるいい人であり、学科の勉強もとてもよくできて、みなから一目置かれる存在だった。
    しかし、吃音を乗り越えて看護師国家試験に合格した飯山さんは、その後たった4ヶ月で命を絶った。
    合格後に配属された病院の指導者は、飯山さんにだけきつく当たっていたという。たとえば、詰所で同僚たちが見ている中、彼だけ検査の説明の練習をさせられていたことがあった。何度も、どもりながら言わされて、指導者には「何度練習してもダメだね」などと言われていた。患者の目の前で大声で叱責されたこともあったという。
    業務に関するメモが書かれた彼自身のノートを読むと、厳しい現場で苦悩する姿が垣間見える。その中には、「伝えるべきことが伝えられていない」「言葉が足りない」「言うことの練習」など、コミュニケーションに関する事柄が多く見られる。急かされる場面などでどもりやすくなる彼にとって、吃音のためにできなかったことが多々あったのだろう。そういうときに、指導者から厳しく叱責されていたらしかった。
    彼は遺書として次の文章を残している。
    《誰も恨まないでください。もう疲れました。できない自分、やろうとしない自分、逃げている自分、結局何も変われなかった、こんな自分に価値はなく、このまま生きていても人様に迷惑をかけるだけ。だから、自分の人生に幕を閉じます》

    吃音者にとって、吃音はたかが「どもり」ではない。ときには命を絶ってしまうほど深刻な「病気」なのである。

    ――人が生きていく上で、他者とのコミュニケーションは欠かせない。吃音の何よりもの苦しさは、その一端が絶たれることだ。言葉によって相手に理解を求めるのが難しい。さらに、その状況や問題を理解してもらうのも容易ではない。二重の意味で理解されにくいという現実を、吃音を持つ人たちはあらゆる場面で突きつけられる。日常の中でいつ何時、伝えたいことが伝えられない上に、「なんでこの人は言葉を発しないのだろう」「同じ音を繰り返して、いったいどうしてしまったのだろう」という驚きや奇異の視線を向けられるかわからない。そんな不安の中で毎日を生き続けなければならないのだ。

    ――――――――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    1 吃音の症状
    言葉に詰まること、すなわちどもることを「吃音」という。
    筆者もかつて吃音に苦しめられていた。話すとき、喉が硬直して発声できない。特に自分の名前のように、他の語に言い換えることができない言葉を言おうとするとそうなった。だから電話や自己紹介がうまくできない。電話の鳴る音が怖くなり、初対面の人と会う状況が恐ろしくなった。病院や美容室の受付で口頭で名乗らなければならない場面では、たとえばバッグの中から何かを探すふりをして視線を下げて、「あれ……」などと言いつつタイミングを探り、焦りと息苦しさと格闘しながら、言えると思った瞬間を見計らって名前を告げた。
    普段の生活においても、吃音が困難を生む場面を日常の中からなくすことはできなかった。混んでいる店に並ぶために店頭で名前を告げなければならないとき、店でトイレの場所などを尋ねる必要が生じたとき、または街中で突発的に何かを尋ねられたとき……。私はいつもしどろもどろになったり息が詰まりそうになったりした。ときに口をパクパクさせるだけで何も言えない状態にもなり、恥ずかしさや焦る気持ちに襲われるのだ。
    そのような場面に遭遇したらどうしようという不安な気持ちと緊張感は、自分と社会との間に見えない壁を作り上げた。その壁をどうしたら打ち破れるのか。それは私の一番の悩みとなり、日々の全エネルギーの大きな部分がそこに費やされるようになっていった。

    吃音を発症するのは、幼少期の子どものおよそ20人に1人、約5%と言われている。そのうち8割ぐらいは成長とともに自然に消えるが、それ以外は消えずに残る。どんな集団にも1%の割合で吃音者はいる。
    ひと言で吃音と言っても、症状は多様だ。大きくは3種に分けられる。「ぼ、ぼ、ぼ、く」のように繰り返す「連発」、「ぼーーくは」と伸ばす「伸発」、「……(ぼ)くは」と出だしなどの音が出ない「難発」。連発が一番吃音と認識されやすいものの、連発から伸発、さらに難発へと症状が進んでいくケースが多く、一般には、難発がもっとも進行した状態だとされる。
    緊張してスムーズに話せなかったり、話すときに「かむ」といった誰にでもある現象と同等に考えられることも少なくないが、吃音はそれらとは明確に異なる。ある言葉を言おうとするときやなんらかの状況下において、喉や口元が強張って硬直し、どうしても動かなくなるのだ。言葉で説明するのは難しいが、鍵がかかったドアを必死に開けようとするときの感覚に近いように思う。そして、話している最中にその感覚に襲われるのではないかという恐怖や不安が頭から離れなくなり、当事者を深い苦悩へと陥れる。

    なぜ吃音が起こるのか。そのメカニズムはわかっていない。最近の研究によれば、吃音のある人は、発話に関係する脳の各部位の働き方や部位同士の接続に、吃音のない人とは異なる特徴があるらしいことが明らかになってきたが、そうした器質的な要因に加えて、実生活における環境や、発話するときの状況が症状に影響することが、吃音を複雑なものにしている。
    また、本人にとっては深刻でも、他人からは問題がわかりにくい場合があるのも吃音の特徴である。吃音があっても完全に話せないわけではないし、常にどもっているわけでもない。症状が強い人でも、場面によっては問題なく言葉を発せられることもある。うまく話せなくなりそうな場面で沈黙すれば、他の人から見たらそもそも何が問題なのかほとんどわからないということにもなりうるのだ。

    吃音には、2つの特徴的な点がある。
    その1つは、「曖昧さ」だ。原因も治療法もわからない、治るのか治らないのかもわからない。また、精神障害に入るのか身体障害に入るのかもはっきりせず、症状も出るときと出ないときがある。そうした曖昧さを抱えるゆえに、当事者は、吃音とどう向き合えばいいか、気持ちを固めるのが難しい。改善できるかもしれないという期待は希望を生むが、達成されない時には逆に大きな失望に変わる。また、常に症状があるわけではないことは、周囲の理解を得るのを難しくする。
    そしてもう1つの特徴は、「他者が介在する障害」であるという点だ。通常1人でいるときには障害にはならない。ほとんど常に他者とのコミュニケーションに関連して生じる障害であると言える。どもる時に感じる苦しさは、言葉が詰まって言えないことそのもの以上に、相手に不可解に思われたり驚かれたりすることに対する恥ずかしさや怖さによる部分が大きいようにも思う。話した瞬間に、いつも相手に「どうしたんだろう?」と驚いた視線を向けられること、または向けられるかもしれないと恐れることは、人とコミュニケーションを取る上で心理的に極めて大きな負荷になる。それはコミュニケーションの内容そのものにも影響を与えるだけでなく、コミュニケーションに対する恐怖心をも植え付ける。


    2 吃音による現実生活の苦難
    高橋啓太は小学校のころから重度の吃音を抱えていたが、高校2年のとき、クラスメートのからかいに耐えられずに学校を中退した。以降、何年にもわたって家に引きこもり誰とも話さない状態が続いた。17歳の時に団地の8階から飛び降り自殺を試みるも失敗する。その後さらに18年間を生き抜いてきた。
    彼はほとんど一言ずつ言葉につっかえる状態であったものの、言語聴覚士の羽佐田の訓練所を訪れ、自己紹介がスムーズにできるほどに回復した。その後訓連を続けた高橋は、2014年の吃音ワークショップで、100名を超える吃音関係者の前でスピーチを行っている。今は全く吃音を感じさせないまでに流暢な喋り方を発揮しており、新たな吃音症状への対処法を研究している。

    エンジニアの小林は重度の吃音者であった。仕事に支障をきたしており、会社の上司から「吃音を治せないようなら正社員をやめて契約社員になって、軽作業をやってもらう」と通告される。最悪の場合死ぬしかないと覚悟し、遺書をノートに記して妻と息子に宛てていた。その後会社を辞めて転職活動をし、新しい会社で「障害者枠」として採用された。
    小林は、ギリギリのところでひとまず窮地を脱することができたと言える。ただ、彼がこれからも問題なく働き続けられるかはわからない。社会の中で生き、人と直接コミュニケーションを取っていく限り、たとえ障害者枠での採用で働くことができるとしても、吃音による問題が完全になくなることはないだろうからだ。

    言語聴覚士であり、自身も吃音を抱えている横井はこう言う。
    「ぼくは『予期不安』が、とても強い人間なんです」
    どもることへの恐怖感である。どもったときの声や表情をさらしたら、相手に驚かれてしまうのではないか、喉が硬直し、空気が凍り付いたような状態から永遠に抜け出せなくなるのではないか、どもったことでまたしばらく自分は深く落ち込むのではないか、それがまた次のどもりを導くのではないか……。話そうとする際にそんな恐怖感が湧き上がり、吃音をさらに増幅させるのだ。
    苦手な相手と話す時や、話しにくい内容を伝えなければならない時は、吃音の有無に関係なく誰でも話しづらくなるものだが、吃音者の予期不安や吃音症状はそうした状況下でさらに一層強くなる。

    スムーズに言葉を発せない“だけ”に見えても、その症状は、社会の中で生きるのを想像以上に難しくする。日常の諸々、学校、友人関係、恋愛、仕事……。あらゆることに問題が生じうる。中でもとりわけ、社会に出て働こうとするとき、問題が顕著かつ深刻になるケースが多いことが、当事者たちの言葉から伝わってきた。
    問題の大きな部分は、まさに「スムーズに言葉を発せない“だけ”に見える」ことにあるとも言える。吃音当事者の抱える問題は、じっくりと話を聞かないとわからないことが少なくない。それゆえ、就職の面接などでも、本人の側から積極的に吃音について伝えなければ、状況を理解してもらうのは難しい。さらに、吃音者としては、説明しても理解してもらうのは容易ではないゆえに隠せるならば隠しておきたい、という意識が働く場合も多く、吃音について相手に伝えること自体がそもそも簡単ではない。すると結果として、相手から見たら、コミュニケーションが苦手である人、という以上には判断ができず、何か特別な理解や配慮を求めることは難しくなる。


    3 子どもの吃音とどう向き合うか
    吃音の大部分は2歳から5歳の幼児期に始まるとされている。そのとき親を始めとする養育者はどう対応すべきなのか。成人の吃音が一般的に治りにくいとされるのに比べ、子どもの場合、8割は自然に消失すると言われている。とすれば、さほど気にする必要はないと考える人もいるだろう。しかし2割は消えないことを考えると、症状がしばらく続けば、何かしなければと思うようになるのも自然である。
    埼玉県所沢市の国立障害者リハビリテーションセンターにて、長年幼児の吃音診療にあたってきた言語聴覚士の坂田善政によれば、幼児の吃音改善の方法として現在、有効性があると考えられているのは主に次の3つだという。
    1つ目は、本人の負担が軽減されるように周囲の環境を整える「環境調整」。家族や学校の先生などが話の聞き方を工夫したり、友人らに吃音について理解してもらい、からかうことなどないように促したりする方法である。
    2つ目は、吃音の症状が出にくい発声方法などを訓練する「流暢性形成法」だ。いわゆる言語訓練的方法を指す。
    そして3つ目が、オーストラリアで開発された幼児向けの吃音改善法「リッカムプログラム」である。
    しかし、複数の選択肢があるものの、いずれもこれで必ず治るというものではない。どういう子にはどの方法が有効かといった傾向も十分にはわかっておらず、いずれの方法でも改善が見られない子も現実にはいる。

    吃音症状を持つ晴渡と母・信子は、手探りで吃音への向き合い方を探っている。晴渡は小学校に入学してから吃音によって同級生にからかわれ、毎日泣きながら帰宅していた。信子は毎週土曜に羽佐田のもとに訓練に行き、家でも晴渡が訓練するのを手伝った。吃音関係の集まりがあればできる限り顔を出し、インターネット上でも吃音の関係者と繋がって情報交換をするようにした。
    救いだったのは、担任の教員が信子の言葉を真摯に読み、力になろうとしてくれたことである。実際に担任は、学校での晴渡の様子を丁寧に見て、信子に伝えた。信子は言う。
    「もっと吃音について理解したいから教えてほしいとも言ってくださいました。その気持ちがうれしくて、心の支えにもなりました」
    周囲の理解もあり、少しずつ晴渡はたくましくなっていった。晴渡の吃音の状態が大きく改善されることはなかったものの、教員や、信頼できる友だちの温かなひと言やちょっとした配慮に助けられることが増えていった。クラスのみんなの前で「どもるまねをされるのがいやだ」と発表したこともあるという。信頼できる友達も出来て、今ではすっかりクラスに溶け込んでいる。

    信子は言った。
    「晴渡もきっと、私自身が彼の吃音を受け入れていないことをわかっていたのだと思います。本当は、私こそが一番に受け入れてやらなければならなかったのに……」
    そして以前を振り返りながらこうも言った。
    「私はあとから気がついたんです。晴渡の苦しみが強かったのは、私が悩んでいたのも大きかったのではないかな、と。晴渡が小学校に入学する前に、私は言ってしまったことがあったんです。『学校でまねされたり、馬鹿にされたりするかもしれない』と。晴渡が突然ショックを受けたりしないように、また、一緒に乗り越えていこうというつもりで言ったのですが、それがかえって晴渡自身に吃音を意識させ、苦しめていたのだろうことがあとになってわかりました。後に晴渡は私にこう言ったんです。『ママから、学校で馬鹿にされるかもしれないって聞く前は、そういう風には思ってなかった』と」

    子どもが吃音を発症したとき、どう接するのがよいかを知る親は多くはないし、個々に状況が違う中、絶対の正解があるわけでもない。それゆえ親は試行錯誤をすることになる。そしてそのように、わからないことが多い状況が、子の吃音について考える親にとっての何よりもの難しさとなるのだろう。

  • 正直なところ、この本を読むには勇気が必要だった。自身が同じ吃音者だからこそだ。蓋をしていた自分自身の「欠陥」に向き合わされるような気がして、避けていた。

    しかし、一読してすぐに、この本を読んで良かったと思うようになった。自分だけではない悩み、著者の際立った表現力が身に染みた。そして何より、客観的に自分が「どもっている」時の反射的な反応を考えるようになった事で、気づきが生まれ、改善が生まれた。これは思っても見なかったような、大きな進歩だった。

    だから、本書は吃音を隠してきた私のような人間にとっても有益だし、また、もちろん、吃音者ではない方にも当然、吃音というものを知って、理解して、干渉ではなく、見守って欲しいという願いを理解して貰えるような本だと感じる。

    いつか、吃音に対する理解が深まって、将来の人たちが『吃音」なんて単語を知らないまま、全く気にせず過ごすことが出来る社会になればいいと願ってやみません。

  • 抑制の効いた文章が素晴らしい。
    これを読んで、吃音というものがなんなのか、やはりよくわからない。わからないものだということがわかるだけだ。
    ただそのよくわからないものが、人をどのように苦しめて、人はどのように乗り越えようと足掻くのか、そこにこの本の面白さがあった。
    後半で出てくる、横隔膜の話、その話がどうなっていくのか知りたい。

  • 吃音、つまり「どもり」という症状を抱えた人たち。

    吃音と言っても色々ある。同じ音を繰り返してしまう「連発」、音を伸ばしてしまう「伸発」、出だしの音が言えない「難発」。
    昔から一定数の吃音の人たちがいるが、なぜ吃音が起きるのか、先天的なものなのかどうかなど詳しくはわかっていない。年齢とともに吃らなくなる人もいるが、全く解消されない、逆に進行してしまう人もいる。そもそも原因がわかっていないし、決定的な回復法というものも確立されていないのだ。

    冒頭に登場する吃音を抱えた高橋さんは、若い頃に吃音に悩み、学校でもいじめを受け、苦しんだ末にマンションから飛び降り自殺を試みる。本人の望みは叶わず、奇跡的に助かり、結果として吃音者として生き続けることになった。
    その高橋さんが自殺未遂から二十年近く経って、NHKの「バリバラ」という障害者情報バラエティー番組に出演し吃音者の社会における現実を語った。
    それを見た筆者自身も大学を卒業して結婚する頃まで吃音を抱えていた。筆者の吃音はその後解消されてしまうのだが、高橋さんが自殺しようとまで追い込まれた吃音を隠さずに、赤裸々に心情を吐露するところを見て、取材を始めるところから始まる。

    高橋さん以外にも、さまざまな年代の吃音者や、その治療法を研究する人々、吃音のために会社や社会から疎外され、自殺をしてしまった肉親を持つ遺族、等々を追う。

    吃音は当然目に見えない。当人が話すことを避ければ周囲からも気づかれない。ましてや原因もわかっておらず、日本ではかつては「どもりを真似する事で習慣化されたもの」と認識されていた時期もあり、訓練すれば治ると考えられていた経緯もあり、中々理解が進まないという状況にあるらしい。

    自分の身の回りでも吃音を持つ人は数名いた。
    彼や彼女がそれをどう思っていたかはわからない。
    しかし、例えば電話がかかってきてもうまく受け答えができる自信がなく、しかし応対できなければ仕事としては失敗になるし、解雇されかねないという状態で、電話番を任されて、電話がいつなるだろうかと思いながらいるのはすごいストレスだろう。

    流暢でなくてもいいから、自分が思うように自由に喋るという事が、こんなに苦しくて、それでも叶えてみたいという希望を持ちたい人たちがたくさんいるのだ。

  • 息子が幼少期酷い吃音がありました。
    今年小学生になりましたが不思議な事にあれ程心配していた吃音の波がなくなり、現在はスラスラと話しています。
    思い当たるのは年長の時の劇で主役を演じ人前で話すことに自信がついたのかな?という事くらい。
    (本番でもペラペラで全くどもりませんでした。)

    完全に治ったのか???
    まだわかりません。

    今後吃音が出て、不登校やいじめに繋がらないか…
    そんな心配がよぎる事もあります。
    この本にも読んでて辛い場面がいくつかありました。

    よくわからない吃音を少しでも理解したくて手に取りましたが、やはりよくわからずじまいでした。
    まだまだ未知の分野なので、近い未来研究が進み吃音が治る!と胸を張って言えるそんな世の中になれば良いな。

  • 自身も吃音である筆者による吃音者の内面に迫る本。吃音を苦に命を絶つケースも多いそうで、かなり胸が痛む記載もありますが、周囲に吃音者がいる方は一読してみるとよいと思います。子どもの20人に1人が発症する(ほとんどがその後治る)そうなので、小さなお子さんをお持ちの方にもおすすめです。「ノミを打って少しずつ石を削るように一音一音を必死に出している」という表現が印象に残りました。
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  • 吃音者の赤裸々な生の声が語られているといった内容。
    吃音は個性の一種と割り切って受け入れられる人もいれば、本書で取り上げられている人たちのように吃音に苦しみ、克服したいと切に願っている人もいる。正直、この本を読むまでここまで深刻な問題だとは想像してはいなかった。

    吃音の原因が未だ解明されず、根本的な治療法も確立されていない。しかし、他社とのコミュニケーションに関わる問題に直結してしまうので、社会で自立した生活を送るのに支障をきたす面が多い。この曖昧な状況の中、活路を見出そうと前進を続ける話には心打たれた。

    過去の自分も含め、どもってしまってうまく喋れないのは個人の怠惰ややる気の問題と片付けてしまう社会が今まではあったのだろう。当事者・周りの人々による相互理解を深めようという取り組み、姿勢が大切なのだと切に実感。まずは、自分自身の認識を正しく持てるよう精進していきたい。

  • 吃音については、知ってるようで知らなかった世界が見えてきた。
    訓練すれば治ると思っている人が多い世の中。良い傾向になる患者ももちろんいるがそういった傾向がでない患者もいる。ストレスや家庭環境によるところもあるが、脳の成長が芳しくないと出てくることもある吃音という症状。
    吃音があるがために、自殺を選んだ人たち、明日の食べるものも心配しなければならないような生活状況の方もいる。そんな人たちを少しでも助けられたらと吃音患者同士で助け合う。私たちができることは、このマイノリティに属している人たちをもっともっと理解してあげること。吃音という症状を理解してあげること。それだけで、吃音患者さんに対して接する対応が今よりずっと向上する。彼らに対してのストレスも軽減できて吃音症状に良好の兆しが見えるかもしれない。本書の中の高橋さんがおっしゃっていた、逃げ続けることは生きずらくすることという一文がでてきて、はっとさせていただきました。自分の向上できるかもしれないという部分から逃げ続けるのではなく、自分を生きやすくするために立ち向かっていく根性がすさまじく心に突き刺さってきた。民主党のジョーバイデンも何を隠そう吃音の持ち主で過去に苦しめられてきた人でもあるため、すごく興味がわいたトピックだった。誰しもが読むべき本だと思う。

  • 冒頭「どもってうまく話せない」
    末尾「おそらくこの言葉にこそ、100万人の人たちの思いが詰まっているのではないかと思う」

    吃音に苦しんだ著者が、80人以上の当事者(本院、家族など)に話を聞いたノンフィクション。

    自分も軽いけど吃音がある。特定の言葉が出ない、そしてその失敗体験が不安感をより大きくしていく、という循環。リラックスできていたり、自信が持てたりしているとたぶんマシになる。自分の場合は本当にかわいいものなんだけど、本書ではもっともっと症状が重くて、自殺(未遂)してしまった人や、職を失ってしまう人達が登場する。障害であって障害でないような、症状が出たり出なかったりしてなかなか他者に理解されない吃音。読みながら想像するだけで泣きそうになった。

    著者は吃音には二つの特徴があるとしている。
    一つは「曖昧さ」。原因も治療法もはっきりせず、精神障害に入るのか身体障碍に入るのかもわからず、本人も(周囲も)どう向き合えばいいのかわからない。
    もう一つは「他者が介在する障害」であること。吃音は通常一人でいるときは障害にならず、他者とコミュニケーションをとるときに障害となる。
    どちらも自分で制御できないゆえの不安感を生み出し、それが吃音の苦しみの核心部分ではないだろうか。

    医学の発展はもちろん吃音に対する世の中の理解が広まればいいと思ったし、さらに言えば吃音に限らず様々な障害やコンプレックスを抱えた人たちがいるということの理解が広まって寛容な社会になればいいと思った。少なくとも自分としてはそういう視点を持ちたい。
    存在を知ること。想像すること。

  • 大事なことは相手を理解しようとする姿勢。
    吃音が個性と捉えるか否かは、本人の気持ち次第。周りが決めることではない。
    吃音であることは恥ずかしいこと、馬鹿にされることだと、大人が保険のためによかれと思ってあらかじめ本人の意識に植え付けることはときに本人を苦しめる原因となる。
    吃音を理解しようと思って読みました。とても読みやすかったです。

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著者プロフィール

1976年東京生まれ。東京大学工学部卒業、同大学院修了後、旅をしながら文章を書いていこうと決意し、2003年に妻とともに日本をたつ。オーストラリアでのイルカ・ボランティアに始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-2007)、その後ユーラシア大陸を横断して、ヨーロッパ、アフリカへ。2008年秋に帰国し、現在京都在住。著書に『旅に出よう』(岩波ジュニア新書)がある。

「2010年 『遊牧夫婦』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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