目的への抵抗 (新潮新書)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106109911

作品紹介・あらすじ

自由は目的に抵抗する。そこにこそ人間の自由がある。にもかかわらず我々は「目的」に縛られ、大切なものを見失いつつあるのではないか――。コロナ危機以降の世界に対して覚えた違和感、その正体に哲学者が迫る。ソクラテスやアガンベン、アーレントらの議論をふまえ、消費と贅沢、自由と目的、行政権力と民主主義の相克などを考察、現代社会における哲学の役割を問う。名著『暇と退屈の倫理学』をより深化させた革新的論考。

感想・レビュー・書評

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  • 「暇と退屈の倫理学」で指摘した「楽しむ」ということの重要性。
    人間は自由を求めているようでいて、自由になると暇になり、暇になるから退屈する。だから暇を嫌い、自由を拒否する。ここで忘れられがちなのが「楽しむ」ということ。広い意味での勉強をして楽しみ方を学んで、楽しめるようになることが暇の過ごし方だと國分功一郎は言う。

    さて本書である。
    その楽しみが、何かの目的のためだったとしたら?それは「目的の手段」となり、「楽しみ」ではなくなってしまうだろう。

    ハンナ・アーレントの言葉を引用して作者はこのように持論を展開する。
    「目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考え方を追求してゆけば、最後にはどんな恐るべき結果が生まれるか」(『人間の条件』)
    目的の本質はまさしく「手段の正当化」にある。
    何だって目的遂行のためには許されるのだ。
    目的とは、そういう性質をもったものだ。

    またこうも言う。
    「全体的支配はその目的を実際に達しようとするならば、『チェスのためにチェスをすることにももはやまったく中立性を認めない』ところまで行かねばなら」ない。つまり、全体主義が求める人間は、いかなる場合にも「それ自体のためにある事柄を行う」ことは絶対にない。
    全体主義は一つの目的遂行のために人間を動かす。
    全体主義の元では、芸術も目的のために存在するものである。芸術自体を目的として楽しむなんてことは許されない。

    おそろしや。

    チェスの引用だったが、この引用の部分で、藤井聡太くんを思い出した。藤井くんは目的のために将棋をやっているか?いや、もちろん違うだろう。結果として七冠や八冠を得ようとも、ただただ楽しいから将棋をしてるに違いない。
    大谷翔平だってそうだろう。二刀流を史上初で達成するという名誉やタイトルのために野球をやってるんじゃないよなあ。楽しそうだもんなぁ。二人とも。
    目的から解放されているからこそ楽しいのだし、我々も彼らの清々しさから楽しみのお裾分けを気持ちよくもらえていると言うわけだ。

    結果として充実感を得ることと、充実感を得ることを目的として何かをするのは、大きく異なる。

    確かに確かに。

    この本でも例として挙げられている学校の文化祭もそうだ。本当に彼ら彼女ら楽しそうに一生懸命やるよね。受験勉強も放っておいて笑
    ああ、無駄なことを楽しむって、なんて人間的!

    そういえば、谷川俊太郎の「生きる」という詩にも。
    生きるとは「ヨハンシュトラウス」であり、「ミニスカート」であり、「ブランコをこぐということ」であると。

    先達たちはとっくに知っている。大事なことを。

    「目的への抵抗」という表題の意味が読み終わって腑に落ちる気持ちよさ。
    大いに「浪費」し贅沢を楽しもうと思う。

  • “人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある”

    本書は國分功一郎先生による講義、授業の内容を、2部構成でまとめたものである。 

    一つはコロナ危機の中で発せられた緊急事態宣言から考えた、危機的状況下での厳しい移動制限に対する哲学の視点からの考え。 

    二つ目は、コロナ禍でことあるごとに発せられた「不要不急」という言葉が内包する、必要なものと不要なものを区別するという消費社会の傾向についての考え。 


    自分は特に、二つ目の章の中での目的と自由に関する内容がとても興味深いと感じた。

    著者は、人間が豊かさを感じるのは、「目的をはみでた部分」によってである。と指摘する。

    また、本書の中で哲学者ハンナ・アーレントは“「全体主義」においては、「チェスのためにチェスをすること」が許されない”とし、すべての行為が何かの目的になってしまう世界では、それ自体を楽しむということができ無いと指摘したとの説明があり、
    あらゆることが目的に還元されてしまう社会では、目的のために何かを犠牲にすることや、ある行為を目的のための手段としてしかみなさないことが当たりとなり、そこに人間本来の自由は無いという指摘がされている。

    特に印象に残った箇所としては、「目的に規定された行動は自由とは言えない」という部分。

    仕事で何かをする時には必ず「何が目的か」ということを考えなくてはならない。目的の無い仕事では成果をあげることはできないし、経済的な利益をあげることができないのは当然で、手段を目的化することはダメなことだとさえ言われる。
    その点を著者は否定しておらず、生活の中から目的が消えることは絶対にないが、あらゆるものが目的に向かって合理化されてしまう事態には警戒するべきとしている。 
     
    目的にのみ縛られ遊びを失った活動からは自由を感じることができず窮屈だ。ある目的のために始めた活動の中で結果として自由や充実感を感じることこそが、目的合理性に対するある種の抵抗なのだと思った。

    SNSが発達した現代では、私生活や趣味のような場面でも何かをする時に目的を重要視する人が多くなっていると感じる。何か美味しいものを食べる時には、それ自体を美味しく食べることではなく、インスタに投稿し共感を得ることが目的になり、趣味を楽しむ場合でも、それ自体を楽しむと言うよりも、仕事上の成功につながるだとか、自分のキャリアアップのための活動であったりということが少なくない。

    例えば純粋な趣味としてある活動を楽しんでいたが、それをYouTubeで公開し収益を得る活動になってしまった場合などに、趣味がお金や評価を得るための手段となってしまい、純粋に楽しむことができなくなってしまう場合などは、目的に趣味が支配されている状況だなということを考えた。

    すべての活動に意味が求められるようになってしまった時代に、何も目的のない活動のようなものに没頭したところで、周囲から好奇の目で見られることもあるかもしれない。 

    そんな時代であっても、自分は無駄な活動を大事にしたい。心から楽しいと思える無駄の極みのような活動に没頭し、遊びの持つ自由さを享受できるような人生を送りたいと感じた。

  • 暇と退屈の倫理学を読んで
    正直、お腹いっぱい状態から、でも忘れないうちに
    こちらを読みました。

    繋がってるところも理解しやすく
    続けて読んでよかったです。

    ど素人では、引用文だけ読んでも
    ???なところも、
    つまりこういうことでと、わかりやすくお話しされていて
    よかったです。

    贅沢とか自由とか
    そんなに深く考えることなんてなかったので
    まさに、消費社会に閉じ込められて
    管理されるまま、疑問も抱かず生きていたんだと
    2冊読んでまず、今率直な感想です。

    これから生きていく中で
    思い出しつつ
    楽しむこと、本当の自由でいることが
    できたらいいなと思います。

    なかなか難しいけど
    一方でなんか、気が楽になったというか
    これからが楽しみになってきました。

  • 面白かった。
    分かりやすすぎて、分かってない気がする。

    前半は高校生に向けた講演?
    アガンベンが、コロナ禍の移動制限について批判的に捉えた内容に対し、非難が挙がった話について。

    「あらかじめ用意された問いーこの事柄について賛成か反対かーをただ受け取り、あらかじめ用意されたテンプレに身を置かざるを得ないのは、自分なりにその事柄について問いを立てるという営みが省かれているからです」

    「けれども、制限された権利、あるいはその中で強いられた社会のあり方は、緊急事態が撤回されても元には戻らないのではないか」

    「三つの権力の均衡によるチェック・アンド・バランスこそが、各権力の横暴の阻止と、その健全な行使に資する」

    政治に興味がないように見えて、実は政治によって強く規定されている状態なのかもしれない。

    「つまり、授業がもつ、オープンでもありクローズドでもあるという性格の意味を考えなければならなくなった」

    個人的に面白かった一文。
    オンライン授業によってオープンにされた授業の一方で、従来的な空間や身体、関係性の中にあるクローズドの良さを考える。

    「不要不急と名指された活動は、コロナ危機だから制限されただけでなく、そもそもそれを制限しようとする傾向が現代社会にあったのではないでしょうか」

    後半は、不要不急が奪ったものについて。
    著者の「暇と退屈の倫理学」と合わせて読まれたし。
    私たちの人生における贅沢とは何なのか。

  • ちょっと忘れ去られてしまったコロナ禍の自粛、不要不急など国家によって自由に行動することに制限された人々をもう一度思い出しながら、当時たたかれた哲学者アガンベンの「伝染病の発明」の解説から始まります。
    当時、感染者を増やさないための政策として行動の自粛や不要不急を呼びかけて当たり前だと思っていました。
    人間が生き延びることは、言うまでもなく大切なこと。しかし、ただ単に生存していることで良いのか。宗教的要素もありますが先人たちが積み上げた価値も含めて考える文化や歴史、敬意もなく、ただ単に生存だけで人間は生きていけるのかを考えさせ、分かりやすく解説。

    ここには書かれていませんでしたが、もしかしたら人間は生存し続けるために生きているのではなく、常に自由でいるために生きている。と言うとスッキリするのかもしれませんね。

    その自由は常に国家によって制限があるようです。三権分立の立法、行政、司法の関係も、簡単に自粛制限したり不要不急を呼びかけが当たり前になれば徐々に行政の言いなりになり、中学校で習った三角の形をした三権分立は行政→立法→司法のような一列の形に変わってきてしまうのでは。(だから安倍派の萩生田氏や二階氏をそう簡単に逮捕出来ないのかもね。)

    人間はその自由を目的として行動をしている、とするとその目的とは何か。
    中盤から本のタイトルらしい内容になりました。
    手始めにグルメブームで例えると食べることが手段、snsにアップすることが目的だと、浪費ではなく消費であり、贅沢に当てはまらない、つまり自由とは言えない。何となくわかる。

    ハンナアーレントさんの言葉を紹介して、
    「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない」は約65年も前のこと。目的の本質とは手段の正当化という意味らしいのですが、つまり目的を立てて贅沢をしようとしたら、それは贅沢ではなくなってしまう。贅沢はそもそも目的からはみ出るものであり、それが贅沢の定義に他ならないようです。

    その目的の概念に対してアーレントが「少年キム」の児童書を参照しながら、自由の概念について定義していました。
    結局、目的の概念を知らずに人間が生きていると、贅沢の味わいや豊かさ、本当の満足度は上がらない、ということが良く分かりました。読んで良かったです。
    自由でいるためには選挙も大事ですが、別のやり方で政治や行政を動かすことが出来る新しい民主主義も目指したいですね。
    國分功一郎さんの文章は常にスッキリ感を味わえるのが、いつも楽しみです。

  • 目的からはみ出ることを忘れずに生きる

  • 哲学を思考の軸としてコロナ禍を論評した本作は『暇と退屈の倫理学』の続編として読むことができる。
    コロナ禍での政府対応については、誰もが自分なりの意見を持っていると思われるので、冷静な著者の見解に触れる意義は大きいと思う。
    個人的には「不要不急」についての考察が出色だと感じた。

  • 第1部はアガンベンのコロナ禍における主張を通して、哲学者の存在意義を説く。それは当たり前と思われていることに虻のようにチクリと刺す役割だ。

    第2部は、『暇と退屈の倫理学』に連なる、消費と浪費の違い、目的をはみ出す行為の存在を論じる。

    非常によく分かる講義だった。
    質疑応答も実りの多いものだった。

  • 自由の意味を考えることはあるでしょうか?個人的にはポストコロナでもたまに自由について悶々とすることがあり、さらに國分さんの『暇と退屈の倫理学』の続編という位置付けでもあるということで読んで見ました。対話形式なので読みやすくストンと落ちました。

    福沢諭吉は、社会の常識や身分などに縛られないことを自由と解釈したようです。ですが、漢字にすれ自由は「自らに由る」。國分さんのいうのも自らに由る、なのかな。この自由は自らの意志をよりどころにすることを意味した言葉といえます。仏教でいう、煩悩・執着から解き放たれた状態「解脱」に近いのかもしれません。

    千年王国を信じ、目的へ矢のように向かっていくのが西洋的な価値観、風土とも言われます。歴史の授業だと、自由もその文脈で語られ、フランス革命はじめ様々な革命もそう位置付けられいます。日本を含むアジアとはやや感覚が違いますが、日本は明治以降、福沢諭吉らの貢献もあり、西洋価値観を血肉にしようとしてきました。英語ではfreedomとlibertyの違いなんて言い方もしますが、〇〇への自由、〇〇からの自由はlibertyに近く、より合目的な性格を強めるのだろうと理解しています。

    個人的には、どちらの自由もあってよいのですが、どちらの自由を語っているのか、重きを置いているのか、人生の場面場面で自分と対話するよう心がけることが肝要だと感じました。それを気づかせてくれた意味でもよかったです。

    195ページの言葉はよかったので抜粋します。

    目的のために手段や犠牲を正当化すると言う論理から離れることができる限りで、人間は自由である。人間の自由は、必要を超えてたり、目的からはねたりすることを求める。その意味で、人間の自由は広い意味での贅沢と不可分だと言っても良いかもしれません。そこに人間が人間らしく生きる喜びと楽しみがあるのだと思います。

  • 高校生、大学生向けに話された2つの講話と質疑応答。コロナ禍で個人の自由が大きく制限されたことを問題視した哲学者が非難を浴び、緊急事態を名目にした自由の制限が人々に簡単に受け入れられ、何らかの目的のために必要とされること以外の人間活動が「不要不急」と切り捨てられる状況は、非常事態の特殊な事例ではなく、そもそもが資本主義消費社会の本性。消費社会の中で貧しい生活を送らず、人生を豊かにする「浪費」が大切ではないかという仮説はなるほどと思わされた。もやもやとする状況の分析と論の進め方が明晰、質問の回答内容も誠実で、哲学系の人が書いた本とは思えないほどわかりやすく面白い。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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