苦しくて切ないすべての人たちへ (新潮新書)

  • 新潮社 (2024年4月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784106110375

作品紹介・あらすじ

この世には、自分の力ではどうしようもないことがある。そのことに苦しみ切なく感じても、「生きているだけで大仕事」と思ってやり過ごせばいい――。「仕方なく、適当に」「万事を休息せよ」「死んだ後のことは放っておけ」など、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。死者を求め辺境の霊場を訪れる人々、逸話だらけの修行時代、よい宗教とわるい宗教、親ガチャや苦の正体――恐山の禅僧が“生老病死”に本音で寄り添う。

AIがまとめたこの本の要点

プレミアム

みんなの感想まとめ

苦しくて切ない状況に直面したとき、どのように心の重荷を軽くするかを考えさせられる作品です。著者は、人生の苦しみや無力感を受け入れながらも、日々の中で「生きているだけで大仕事」と捉える視点を提供します。...

感想・レビュー・書評

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  • 両親ともに教師の家庭で育ち、有名大学の学生時代は引きこもって、道元禅師の『正法眼蔵』とハイデガーの『存在と時間』を読みふけり、大学にいかない生活をいっとき送るも有名企業に就職。その後出家。若僧の頃には永平寺のダースベイダーと呼ばれ、2005年に恐山菩提寺院代、霊泉寺住職となった南直哉(みなみ・じきさい)さんのエッセイ集。

    私にはタイトルがストレートで少し抵抗があったが、南さんも「抵抗があった」と、『はじめに』に書かれている。連載時のタイトルは『坊さんらしく、ない』。どちらも編集者の方の発案だそう。
    現タイトルは、ほんとうに弱ってるひとがふらふらと本屋をさまよってるところに目につきやすいように考えられた周到なタイトル。
    本(でもなんでも)は必要としてくれるひとに届いてこそなので、これで、ふだん本を読まないひとも手に取ってくれたらいいなと思う。(誰目線)

    私が手に取った理由はダ・ヴィンチの占いコーナー、メグさんの読書占いで引用されていた文章に感銘を受けたから。

    ──「【親ガチャ】は仏教の【無常】【無我】に通底し、【無理ゲー】は【一切皆苦】、【コミュ力】は幻想だと述べる。
    私たちは〈一方的に体と名前を押し付けられて【自分】にさせられる〉。だから【あなたが、ただそこにいてくれるだけで、私は嬉しい】と無条件で断言し、そう、【子】に実感させられる者が赤の他人でも【子】の【親】。それが【命の種】を植えることだと言う」──ダ・ヴィンチ『メグさんの読書占い』より引用。

    まるでよく整えられたお寺のお庭をみながら南さんと雑談をしながら大切なことも話しているような気分になり、落ち込んで荒ぶっていた心も静まる。








  • 苦しくて切ないすべての人たちへ 生きているだけで大仕事-。 南直哉著:中外日報(2024年5月22日)
    https://www.chugainippoh.co.jp/article/kanren/books/20240517-001.html

    死者を想う場所 聖地・恐山 - 下北のヒミツ | しもきたTABIあしすと(2022-7-15)
    https://shimokita-tabi.jp/himitsu/tokubetsuhen_1

    <著者は語る>あきらめて見えてくる 『苦しくて切ないすべての人たちへ』 恐山菩提寺院代・南直哉(じきさい)さん(66):東京新聞 TOKYO Web
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/330882?rct=shohyo

    恐山副住職が説く チャットGPTと人類の消失 | 毎日新聞(2023/6/13有料記事)
    https://mainichi.jp/articles/20230612/k00/00m/040/070000c

    「恐山の禅僧」南直哉さんの連載が、新書『苦しくて切ないすべての人たちへ』として4月17日に発売! | | ニュース | 考える人| シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。知の楽しみにあふれたWebマガジン。 | 新潮社
    https://kangaeruhito.jp/news/758784

    南 直哉 プロフィール | 文春オンライン
    https://bunshun.jp/list/author/662079e4b576227c61000000

    『苦しくて切ないすべての人たちへ』 南直哉 | 新潮社
    https://www.shinchosha.co.jp/book/611037/
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    (yamanedoさん)本の やまね洞から

  • 興味をもっている場所の禅僧の話を読むことができて、よかったです。自分のことなのに自分でコントロールが難しいことと付き合っていくのは苦しいですが、踏ん張っていきたいです。

    そしていつか恐山に行ってみたいと思いま。

  • 南直哉さんのファンや。これ何冊目やろ。彼の坊さんらしくないところや彼の哲学が好きや。
    そもそも僕らは生まれとうて生まれてきたんとちゃう。問答無用にこの世界に投げ出されて、一方的に体と名前を押し付けられて「自分」にさせられた。不本意なままあらかじめ人生が始まってしもうた。
    これは重荷に違いあれへん、生き始めた最初からすでに大仕事になってるやん。その重荷を投げ出さんと今までよう生きてきた!その事実だけで大したもんやで。
    せんとあかんことなんて何もあらへん。生きる意味や目的や理由なんか誰にも知らされてへんし、何かの役に立つために生まれてきたんでもないし、ま、生きてたら何かの役に立つこともあるにすぎひん。無駄な時間と無駄な自分があるだけや。せやけど、その無駄をあえて受け入れて、人生を持ち堪えるために、無駄の上に意味をおいて謙虚に考えることが尊いことやねん。自分は何を大切に、何を大事に思って生きるんか?
    でもこの世には自分の力ではどもならんことがある。そんな時は「しゃーないなぁ」と思い切る。ギブアップとちゃうし逃げるんちゃうし、とりあえずやり過ごして切り抜けるんや。こだわったり執着したらあかんで。「しゃーないなぁ」は過去と正解を捨てる決意。僕らはしゃーなしに生き始めたんやからしゃーなしに生きたらええし、それが生きるための大事なテクニックやねん。
    って直也さんが言うてはります。
    他にもいっぱいおもろいこと言うてはんねん。

  • 著者のこれまでの本と同じ思想が、雑誌向けの柔らかい言葉遣いの中に貫かれており心地よい。これまでと同じ思想、と言うのはこの場合良い意味で、これまでの著作で語られた内容が変わっていない、と言うのは、確固たる信念と思想の根幹は変わることなく、語り口を少しずつ変えながら現れているだけ、という事を感じ取れるから。そして雑誌向けの言葉であるが故か、著者の人間に向ける優しい(と一口で言うのは僭越だが)視線がより感じ取れる。
    中でも、「無駄な時間を取り戻さなくてはならない」「取り戻した無駄な時間を何かで埋める事を急いではならない」が特に響いた。

    生は一切皆苦であり、生は他人から勝手に課せられたものでしかなく、生にも死にもそれ自体に付与された意味がないのならば、その意味を問うことに執着せず、意味を自分で与える事を考えなくてはならない。
    付与された意味がない生ならば、それ自体は無駄である。あるかのような「生きる目的」を錯覚するのでなく、無駄な生という事を受け入れて、その上で意味を付与すると決意できるかどうか。
    確かに、「生きているだけで大仕事」なのだろう。でも、一度そう思う事で、「好きで生まれたわけじゃない」という重荷を降ろしてやる事は、結構大事なのでは。少なくとも、社会貢献の名で人生を盲目的に塗り潰し続けるよりは、一度万事を休息して見ることは大事に思える。たとえ、生きている意味に疑問を今は持っていないとしても。それが「自分を見つめる」と言うことではないかと思う。

  • 2024年8月4日(日)読了。


    読んでいて、面白いエピソードや、住職の魅力的な人柄も多く感じて、あっという間に読み終えた。

    正直さは、能力ではない。
    人間関係の失敗と、その失敗の反省の深さから生まれる態度である。
    つまり、それは孤独から生まれる。
    孤独を知らない者は、正直にはなれない。

    この文面から、自分の仕事の中で抱えている不誠実な部下について考える機会にもなった。



  • お坊さんっぽくない感じで、自分にとって受け入れやすかった。
    恐山に行ってみたい。

  • M9の南海トラフ地震の本を読んだ小豆が次に勧めた本。南泉斬猫の考案と唯識論の話ばかりするので読んでみた。誕生と死、始まりと終わりの理由も意味も自分ではどうしょうもなく不明なのだからその真ん中にある、自分の存在理由もわかる訳はない。損得でものを見ない、自分の「見たいもの」を見ようとしないこと、そのものを「見る」のではなく、そのものが「見える」ようにすること。禅門で言う「非思量」の境地。あらゆる現実は必ず破れる、と言う事実。いつ、どこで、なぜ破れるのか、それは決してわからない。これが仏教で言う「苦」。なるほど、M9が起こった時は起こった大地で生きるってことか。

  • 恐山の住職代理を務めるお坊さんの本。
    失礼ながら、本書を読むまでまったく知らなかった。

    はじめ面白く、次第に考えさせられる内容。
    法話の採録かと思ったが、そうではない模様。
    雑誌か何かの連載をまとめた本であるそうだ。

    直哉(じきさい)師の実家はお寺ではなく、大学を出て、会社勤めの経験もあるとのこと。
    子どものころから死とは何か、自分という存在があることへの懐疑などに取りつかれ、出家し、永平寺で修業をしてこの道に入ったという。

    癒し系、ではない。
    むしろズバズバと言ってしまう感じ。
    分からないことは分からない、とはっきり書く。
    本書を最後まで読んで振り返ると、カルト宗教と伝統宗教の差が、教祖がすべてを知っていると言い切るかどうかで弁別できるとするのは、実にこの人らしい言い方だと思った。
    しかし、だからこそ、この人の言葉は読み手に届く。

    お坊さんは話し上手な人が多いと思うが、この人もまたきっとそういうタイプの人なのだろう。
    自分の失敗談を実に上手に加工して、主題に回収していってしまう。
    その筆致(文章だから話術とは言い難い)の鮮やかさに、笑うより先に驚かされる。

  • 南先生による坊さんらしくない仏教にまつわるエッセイ。
    表題は大層であるが、中身は肩の力を抜いて楽しみながら読める。
    著者は読みやすく時々ユーモアある語り口の中に聞く者の心に残り続けるであろう本質的な事柄を織り込むのが秀逸で、心揺さぶられる事が多かった。

    今までの著書の内容と重複するような内容でも新鮮な気持ちで読めたし、コロナ禍明けという社会の激変時についても書かれるなど最近の事柄にも書かれているので、今を俯瞰するには良い本だと思う。

  • 人並みの悩みしか抱えてないが、SNSでフォローしている人が勧めていたので、何気なく読んでみた。

    10代〜20代前半頃、親に対して「勝手に産み落とされた」という怒りが強かったことを思い出した。確かに、人間とは、突然、身体が与えられ、その身体の特徴はランダムで、その身一つで何とか生きていかねらばならない。当時の怒りが未熟さもありながらも当然の怒りであったようにも思う。
    改めて、親は手前の勝手で産んだ責任がある、子がその身体で何とか荒波の中でも生きていけるように、大切に愛してあげないといけないと感じた。

  • ふむ

  • こうでないといけない、などと思う必要などないんだな、と感じた。
    くすっと笑ってしまうところも散りばめられていて、あっという間に読み終えました。

  • 【配架場所、貸出状況はこちらから確認できます】
    https://libipu.iwate-pu.ac.jp/opac/volume/573397

  •  著者の南直哉さんは,青森県の恐山菩提寺院代(住職代理),福井県の霊泉寺住職.禅僧.

     はじめに,でも述べられているが,この本の基になった連載がある.「シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。知の楽しみにあふれたWebマガジン。」を冒頭に掲げているweb連載の『考える人』である.その時のタイトルが「お坊さんらしく、ない。」.それを加筆修正,改題したものが,この本『苦しくて切ないすべての人たちへ』である.

     連載のタイトルが連載の開始前に決められ,この本のタイトルが本の発行直前に決められたものであるからして,「お坊さんらしく、ない。」から『苦しくて切ないすべての人たちへ』の変化は,その間の著者の変化を示しているのであろう.自己を見つめることから,他者への展開である.

     もちろんこの本の内容は,仏教から見た社会の諸事象についてのエッセイである.しかし,「死ぬとはどういうことか」「自己が自己である根拠は何か」と著者がまとめている著者の大問題が,恐山で「他者,あるいは他者の中にいる死者」と出会うことによって,どう変化していくか,のドキュメントとして読むこともできる.

     恐山・永平寺ほかでの修業時代・永平寺での老師生活・宗教について・仏教から見た苦と死,と述べられる時間・内容は多様である.多様ではあるが,一貫して仏教から見れば,どう見えるかについて書いてある.むしろ,仏教ではなく,仏教を道具として「自分の頭で考え」たら,どう見えるかが書いてある.


    以下は,この本からの多すぎる抜き書き.

     ・自分が自分であることさえ他者に依存せざるを得ない困難
     ・他人の死は死体であって死ではない
     ・自分が自分である根拠は,自分以外にある
     ・仏教において「我」とは,が常に同一でそれ自体として存在するもの
     ・信仰やイデオロギーが標榜する是非善悪は偏りである.我々がこの偏りに固執しがちなのは,無常で無我である我々の存在不安に「根拠」を仮設するから
     ・人が言葉を用いて話をして,それを聞いた他人が内容を理解できることならば,そこに「絶対に正しい」ことなどあり得ない(記号接地問題か)
     ・信者の側には「教祖」の言い分が本当かどうか確かめようがない.このことの危うさを「教祖」が自覚していること
     ・死は原理的かつ絶対的にわからない
     ・生きている間生きて,それで終わるだけである
     ・「ガチャ」
     ・すべての責任を(自分ひとりが)背負う理由はなにもない.「我死せば彼等如何にして被養を得んと苦慮すること勿れ(清沢満之)」
     ・「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもない「ニュートラル」.損得でものを見ないこと
     ・「唯識」によると,我々の「認識が一切の存在をつくり出」し,共通の「現実」をつくる
     ・共有の規模が大きくて強度が高く,長期間通用するイメージを「現実」と呼んできた
     ・何かを理解する前に,何を信じるかが問われるようになっていく
     ・「所有」とは事実ではなく,人工的に合意された制度である
     ・いわゆる「剰余物」しか所有の対象にならない.所有は自己の存在根拠に代用される
     ・存在根拠がない→所有する→自己決定・自己責任→人材・個性→夢・希望(現代版十二因縁)
     ・「子」は,「親」と国家・社会から無条件的に大切にされて当然である

    2024.09

  • エッセイをまとめたものなので読みやすく、そして内容は深い。一気読みしました。客観的な考えが綴られていて、苦しい思いをしてる人に必要以上に寄り添ったり、人生を鼓舞するような文章が一切なく良かったです。

  • 本のタイトルと違和感ある感じ。 人が生きていて、悩んだり違和感がある事について、優しく説いてくれるかな? いろいろな方のお話を聞かれていて経験も豊富なので、万人に分かりやすく読みやすい本。
    一度はお会いし説法を直に聞いてみたいな。

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著者プロフィール

1958年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店に勤務。1984年、曹洞宗で出家得度、同年、大本山永平寺に入山。以後、約20年の修行生活を送る。2003年に下山。現在、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代。著書に、『語る禅僧』(ちくま文庫)、『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『「問い」から始まる仏教――私を探る自己との対話』(佼成出版社)、『老師と少年』(新潮文庫)、『『正法眼蔵』を読む――存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ)、『出家の覚悟――日本を救う仏教からのアプローチ』(スマラサーラ氏との共著、サンガ選書)、『人は死ぬから生きられる――脳科学者と禅僧の問答』(茂木健一郎氏との共著、新潮新書)など多数。

「2023年 『賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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