月瀬幻影: 近代日本風景批評史 (中公叢書)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (446ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784120032509

作品紹介・あらすじ

風景は気分である-十九世紀スイスの孤独な思索者アミエルは、その『日記』のなかにこう書いている。気分は私たちの内面にうかぶ特殊に自由な風光だ。自然と人文の共同作業によって生まれた景観に人が出会うとき、気分と景観との相互的な働きかけのうちに風景は現われてくる。江戸後期の詩人たちは、このような風景のうちに遊び、その悦楽をことばに表現する名手ぞろいであった。彼らは風景をどのように観照したか。この本は、その作品の解読を通して、また現地の巡見を手がかりに、彼らの風景享受の作法と表現のありようを、文化史的、社会史的に解明した日本の風景の精神史である。

感想・レビュー・書評

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  •  近世文人の風景批評が主題だが、裏テーマは歴史的に見た學問論・知識人論でもある。 
     學問(といふか學藝)論の一節――「学問が、同じことだが知識と言葉が、歴史的に眺めて、この社会で初めてそれ自体の価値と力量とを自覚して学に本来的な自律性の原理に生きることを開始した。[……]/といって、このことがただちに学問が実際の政治ないしは行政に用いられたことを意味するととるのは早計にすぎる。そもそも知識と言葉が、それがほんもの[四字傍點]であるならば、いわゆる実際社会において、政治や経済や軍事の領域で有効であるなどという保証はどこにもありはしないのである。たとえば、国家有用の学問というのは明白な形容矛盾にほかならず、事実は国家に有用であるとき、その学問は無邪気にも堕落している、つまり学ではない。無用性こそほんものの学の名誉の印なのだといっていい。」(p.377)
     ついでに、讀書論・教養論の一節も。特に前半――「けだし教養とは自分一個の精神の成長に資するもの、清風[=十聲樓主人]のばあいには、町なかの雑音かしましい熱鬧に暮らしながら、その卑俗をきらって拒絶するのではなく、読書によって形成された生を間接化する力――生にたいしては本質的に暗示引用[アリュージョン、引喩]にほかならない読書から得られた知によって、卑俗も含めた生の直接性を捨象して、生全体を抽象化し観念化することによって、反転して生と世界とを全称的に肯定することのできる穆如たる心の作動――によって、喧騒と静寂また卑俗と風雅の即事的な差異を撥無して、世界の中に確固たる生の位置を占めうるまでに彼の精神を育てるものであるからである。」(p.247)

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