絵とはなにか

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784120051678

作品紹介・あらすじ

斬新な、独創性に満ちた労作だ
――エルンスト・ゴンブリッチ●訳者より 19世紀から20世紀にかけて、西洋美術はこれまでに経験したことがないような巨大な変化にさらされる。形の定まらぬ朝もやを絵にしたモネの《印象、日の出》、物の断片が無秩序に画面に散らばるキュビスム絵画、寝かせたカンバスに絵具をしたたらせたポロックのアクション・ペインティング――変化はとどまる所を知らず、絵の存在が危なくなるほどに尖鋭化する。本書の表題「絵とはなにか」は、そうした変化に寄りそいつつ、激流のなかで改めて絵のありかを問い質そうとする作者の強い姿勢を示すものだ。
 近代(モダン)からポストモダンへと変化を重ねてきた絵を、それ以前の数千年の歴史を踏まえて広く視野の下におさめようとしたとき、著者ジュリアン・ベルの目に大きく見えてきたのが「再現」という概念だった。物や出来事や物語を「再現」するものであった絵が、そうでないものになろうとしたのがここ200年の大変化なのではないか。絵の変化を問いつつ、著者は同時に、絵の精神を、絵の本質を問おうというのだ。
――長谷川宏●古代から2000年代の現代アートまで、多数のカラー図版で具体例を挙げながら、近代に大きく変化した芸術の価値観を問い直す。根源的だからこそ新鮮な絵の見方を示す、刺激に満ちた芸術思想史。
目 次はじめに第一章 図像としるし
第二章 見ることと知ること第三章 形と時間第四章 表 現第五章 芸術のもつさまざまな意味
第六章 再 現

感想・レビュー・書評

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  • 「再現と表現」「paintingとpicture」「絵に描かれる
    時間経過」「絵の死」などとても興味深いトピックが並んで
    いるのだが、文体が合わないのか訳が合わないのか、今一つ
    腑に落ちてこなかった。

  • タイトル通り、「絵とはなにか」ということを、歴史や評論、哲学など様々な分野の視点を交えて問い直した本。筆者自身も画家であるというが、それだけに描き手がこの問いにどのように向き合ったのかという点も重視しながら、絵の本質について考察している。

    本書は6つの章から成り立っており、それぞれの章で絵にまつわる異なる問いを扱っている。


    <図像としるし>

    絵は、何かの姿を模倣するものなのか?多くの場合、「絵」という言葉が指し示す作品は、何かの姿を模倣するという意味で「図像」という言葉が指し示すものの領域と重なりあう。しかし、絵は同時に、三次元の物体の二次元への模倣を超えた意味を持っている。

    一つには、絵は記号としての意味論をその画面の中に盛り込むことがある。描かれた物は、単にその形が平面に写し取られているということだけではなく、そこに象徴性や理想とする姿などを意図することがある。

    さらに、絵は写実的に描かれるだけではなく、様式を持ち、現実の姿形の中から何らかの要素や側面をある特定の技法的な体系を用いて抽出している。そのこと自体が、描き手の視点の存在を示している。

    これらのことから、絵とはなにかを語るためには、描く対象だけではなく、描き手の主体性や技法・様式なども視野に入れ、「再現/表現」、「人工的/自然の」など、様々な対立的視点を持つ概念空間の中で、絵や描くという行為を位置なければならない。


    <見ることと知ること>

    とはいえ、絵というメディアは視覚を通して情報を伝えるという性格があることは確かであり、その「見る」という行為やそれを通じて対象を理解することについて、画家がどのように考えてきたのかという点は、非常に重要である。

    絵を描くという行為については、対象を再現するために対象をよく見ることが絵を描く技術として重要視されてきた。しかし、19世紀に写真が登場したことによって、絵を描くという行為が持っていた正確に再現するという側面は写真に譲られ、絵の存在意義は心的な表現の場へと移っていった。

    この心的なイメージである想像力や感覚を伝えるための動きとして、「リアリズム」、「印象派」や、その後の抽象絵画など、様々な試みが19世紀以降生まれてきた。

    例えばリアリズムは、字義通りの写実とは異なり、対象の実在やその背後にある世界を画面から伝えるために描く対象やその表現を磨いてきた。印象派は、対象の形象ではなくそれがもたらす感覚を伝えることで、対象を知ることに挑んでいる。

    そして20世紀の絵画は、対象を具象的に表現する絵というものに根底から挑戦する動きが様々な形で起こった時代であったと言える。形への挑戦、記憶という時間軸をとり入れることによる対象の新たな捉え方、技法を捨て素朴な(時に粗野な)表現の力を信じる方法など、いくつかの流れが本書でも取り上げられている。

    これらは全て、絵を描くために不可欠な「対象を見る・知る」ということについて、様々な形で問い直しが行われており、その問いを立てること自体が絵という芸術のひとつの重要な要素になっているということを示していると思われる。


    <形と時間>

    絵は場面の一瞬を画面に定着させたものであり、映像とは異なりその中にある時間は直接的には動かない。しかし、絵が何かを表現しているということは、そこに語りがあるということであり、語りにおいては時間という側面が切り離せない。

    絵の中に流れる時間というものにどう向き合うかを考えることで、絵に対する様々な考え方が浮かび上がってくる。

    宗教画や歴史画はその背景に物語があることで、直接的に絵の中に再現されている瞬間を超えて、一つの時間の枠組みをその表現の中に内包させている。

    一方で、近代の画家たちはそのような物語を絵の中から捨て、合理的思考と視線を持って、対象に迫ろうとした。一連の近代主義(モダニズム)絵画を貫く特徴は、この点にあると筆者は述べている。ある意味、現在性に非常に重きを置いた視線と言えるだろう。

    例えば、カフェーやキャバレーなどの都会の光景を描いた絵が、いわばスナップ写真のように瞬間を切り取っていった。一方で、マティスの「ダンス」のように、リズムや動きといった物語とは異なった方向から時間に対してアプローチする動きも同時に出て来た。

    さらに20世紀には映画やビデオ作品、パフォーマンス・アートなどの技法が物語を表現する方法として大きく発展した。そのため、絵はそれが語る内容に意味を置くのではなく、純粋に視覚と向き合い、視覚を相手とした「純粋な目の休息所」となるべきであるという価値観が20世紀の絵画において大きな流れを占めた。

    近代という観念は、時間の扱いを通じて絵という芸術形式に大きな方向転換を迫ったと言えるだろう。

    ただ、一方でモダンからポストモダンに至る絵画の中には、物語という要素を重要な要素として残した絵画も同時に存在はしていた。ピカソの「ゲルニカ」やウォーホルなどが取り組んだ記録としての絵画表現がそれらの例として挙げられる。さらには、20世紀の後半には絵画の表現において神話の形式を再考するような動きも出て来た。これらは、近代的な視点を一度通り抜けた後に出て来た新しい物語性を持った視点であると言えるだろう。


    <表現>

    近代においてもう一つ大きく変化したのが、「個」に対する考え方である。

    表現は、様式や技法とは異なり、常に画家個人の心の問題と関係をしている。対象自体が画家の中を通過することによって、何らかの形で変容し、それが画家の手を通して画面に表れてくる。

    19世紀の画家たちは、色彩そのものに心情を語らせるためにあえて形の表現を捨てたり、線や色彩を幻想的な形で使うことで具体的な対象物の存在を曖昧にしたりといったことを試み、個を表現する新しい可能性が探求されてきた。

    20世紀に入ると、心の源泉を自己の内面に求めるこれらの動きとは対照的に、身体や行為といった即物的なものの中に、心の動きを見つけようとする動きも生まれてきた。おそらく、科学や近代的思考が精神のあり方を揺さぶる中で、身体やその動きの中に無意識に表れてくる自己というものを捉えようとする試みであったのだろう。

    このような様々な表現が、画家という「個」を何らかの形で伝えようと試みているが、筆者はこの章の最後でこの「伝達」ということに注意を向けている。絵が個の表現であるとして、それは果たして鑑賞者に伝わっているのか?画家は絵を鑑賞するものの視線の動きまでをコントロールすることはできないし、絵の伝える意味や意図は、絵具や形といった何らかのものに置き換えられて伝えられることから、その伝わり方は不確定である。

    表現するということは、このような不確定性を内包しながらも、画家と鑑賞者の間の複雑な迷路を作りながら、その表現が伝わることへの希望を土台にして成り立っていると言える。


    <芸術のもつ様々な意味>

    絵は芸術であるといった時に、その「芸術」とはどういうことを意味するのか?

    芸術を何らかの技巧と結びつける考え方は、絵の歴史の長い期間、ある程度の説得力を持っていた。しかし、一方で画家が芸術家としての自意識を持つようになると、芸術を職人的な技巧から切り離し、芸術家の個の表現を重視する考え方が広がってきた。

    そのような考え方が主流となった19世紀後半の世界においては、芸術はつねに新しい前衛を開拓し、それによって作家の意図や表現の独自性を表すものという性格を強めていった。キュビズムやダダイズムなどの新たな実験は、それぞれ従来の芸術作品の概念を打破し、新しい地平の中で表現を開拓しようという動きでもあった。

    しかし、これらの前衛の動きは、絵の可能性を多方面に発展させる一方、芸術は何にでもありうるという状況も生みだした。結果として、芸術とは「目の前にあるものの中に注意を集中させるための何らかのもの」といったような意味合いでしか定義ができない状況になった。

    この状況は20世紀の後半以降も続いている。筆者も特定の技術が生き残るとは限らないと述べており、当面、人々は何を壁に架けたいと思っているのか?という問いが、絵とはなにかという問いに芸術の観点から答えるための方法であろうと結論付けている。


    <再現>

    ここで翻って、絵とはなにか?

    絵は再現であるという本書の冒頭の言明に帰ったときに、その再現という言葉には、4通りの使われ方があると筆者は整理している。

    絵画的再現:何らかの物理的対象が描かれているということ
    象徴的再現:描かれているものが記号的に何かを指し示しているということ
    体系としての再現:この指し示すものに対する理解が文化体系の中で位置づけられているということ
    構造としての再現:文化人類学における構造主義のように心理的な次元で人間が持っている構造に依拠したかたちで何かの意味を表しているということ

    絵に関しては、実践と並行してこのような理論化のプロセスが歴史的に発展してきた。しかし、それらのいずれも、決定的な絵の定義をもたらすには至っていない。芸術家と美術研究者のこのような不安定な探究が続いている中で、「絵の死」という主張も美術評論家の中からは生まれるようになった。

    筆者は、このような非常に複雑な現在の状況においては、一意的な絵の定義というものはできないと考えている。そして、絵を描くという行為の中にある意識、身体、対象物、そして社会との関係性の変化を、「画家の羅針盤」という円を描く構造図の形で示すことで、さまざまな絵に対する考え方を包含的に捉えようとしている。

    この構造図は、絵という表現が生起し消滅する一連のプロセスを、4つの段階に分けて整理している。

    それらは、外部の空間にある何らかの対象物を「しるし」として捉えるプロセス、それを何らかの道具や視覚効果を持って作品へと作り上げるプロセス、その作品が自己や周囲との関係性を通り抜けることや再現に対する何らかの理論を通じて精神の動きというものに位置づけられるプロセス、そして最後に、そのようにして生まれた心や感覚の動きが芸術として固定化されることで「死」をむかえ、それを含めた新たな外部空間の中で次の芸術に向けたサイクルがスタートするというものである。

    絵とはこのようにつねに動くプロセスであり、絵を描くという行為の中に対象と自己の関係性の変化が内包されている。また、表現とは何か、芸術とは何か、それを形づくる技法の枠組みをどう定義するのかといった事柄は、個々の芸術家によってさまざまであり、今後も様々な考え方が生まれてくるであろう。


    絵を描くという行為や、絵を通して対象や画家の心情を理解するということについて、非常に幅広い方向性から検討がされており、古代から現代にいたるまでのさまざまな絵をどのように位置づけていけばよいのかについて、参考になる視点が多くあった。

    本書自体で、絵とはなにかということに確定的な結論を出しているわけではないが、それが現在の絵という芸術形式が抱えている現状であり、むしろその混沌とした状況から、さまざまな絵に対する考え方が生まれてきている状況が、とても意味のあることなのではないかということも感じさせられた。

  • 結構、時間がかかったので、ザッと読み直したい。
    こちらの集中力の問題なのか、翻訳の問題なのか、スラスラいけるところと、全然読めないとこがある。

    でも、結構、面白い。やっぱり、実際に絵を描いている人がもっと語るべきなんだなー。

    でも、究極的に僕がここから理解したのは、

    「この絵はいい絵だろうか、ということについて、描く人も見る人もどんどん不安になっていってるけど、これからも、壁はうまれ続けていくし、何もない壁にはみつめるに値する十分に力強い何かが求められ続けるし、絵以外のメディアで絵を超えるゆたかさをもったものはあまりない」

    ということかと。

  • 図書館の新刊コーナーで見つけ,翻訳がかつて著者買いしていた哲学者の長谷川宏さんだったので迷わず借りる.時間の関係で第1章のみを精読.

    ・絵画を歴史と哲学の両方の観点から,自らもガチな画家というアーティストの著者が論じているのだけれど,論考の深度,懐の深さが途方もなく深くて圧倒される.
    ・長谷川氏の翻訳が言わずもがなスバラシイ
    ・3世紀はなれた中国とヨーロッパの絵画の差異,絵画に描かれた対象から観られることについて,ホックニーを引用しながら論じるとか,グッとくる

    というわけで,あらためて借りて読むべし.

  • 人は絵をどう見てきたか。印象派から現代アートまで、近代に大きく変化した芸術の価値観を問い直す刺激に満ちた書。カラー図版多数。

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著者プロフィール

1952年生まれ。英国サセックス州ルイス在住の画家。創作のかたわら、批評活動もおこなう。また、ロンドンのゴールドスミス・カレッジ、キャンバーウェル・カレッジ・オブ・アーツ、シティ・アンド・ギルド・オブ・ロンドン・アート・スクールなどで教鞭をとる。著書にMirror of the World: A New History of Artのほか、邦訳書に『500の自画像』(ファイドン、序文、渡辺玲子訳)、『ボナール』(西村書店、島田紀夫・中村みどり訳)がある。

「2019年 『絵とはなにか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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