大学は生まれ変われるか: 国際化する大学評価のなかで (中公新書 1631)
- 中央公論新社 (2002年3月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (179ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121016317
作品紹介・あらすじ
これまでさまざまな規制に守られてきた日本の大学は今、少子化による学生数の減少、国際的な学生獲得競争、政府の「トップ三〇政策」などにさらされ、生き残りに必死である。勝敗の行方は、外部からいかに高い評価を得るかにかかっている。だが、根拠のない恣意的なランキングが氾濫するなかで、正しい評価ははたして可能なのだろうか。大学評価という視点から、大学生き残りの条件と二十一世紀の大学像を提示する。
感想・レビュー・書評
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105円購入2012-07-23
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2010.12.1に読み終えていたが、何気なく本書をとってみたところ、第7章「これからの大学論をもとめて」を一気に読んでしまった。当時はこの章の結論部分に全く関心を覚えなかった。
半年間「高等教育論」の講義を受け、先人の大学論を読んだ上で自らの大学の理念を考えることが課題だった。それこそ半年間で100時間以上、大学とは何かを自分なりに考え続け、結果的に極めて著者の論(P.158)に近いところで落ち着いた。この本の感想ではないが、著者の考えを了解するまでの思考プロセスを記録しておく。
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大学とは、中等教育機関の学校とは異なる「人類にとっての広義の学びの場」と、「学びを志向する人々の交わりの場」の2つの意味の「場」であると考える。幾つかの大学論に触れながら、①「広義の学び」に関する(1)~(10)の具体的形態について見た後、②「交わりの場」の論拠を確認し、③広義化した大学を考察する、という構成で報告する。
そもそも中世大学は、「最初は、土地も建物もない人間だけの大学」(横尾1992)であった。ゆえに、(1)大学は「学問的に認識し、精神的に生きようとする人々を集めたものです。教師と学生の共同体としてのウニヴェルシタスの根源的意味は、全ての学問の統一の意味と同様に重要なことです。」というヤスパースの言葉を、本報告の始原と帰結として考えてみたい。
次に(2)教養教育を含む大学教育に対するいくつかの見解を確認する。これが大学の理念を形成する中心的な形態だからだ。例えばミルは、その目的を「人類が蓄積してきた思想の宝庫を、事情の許す限り次の世代へと最大限に開放する」ためとした。ニューマンは、知識獲得の目的を「人格、人生、社会のため」と、「知識自体のため」の2つがあるといった。また彼はアメリカで多く語られる「リベラル」についても、「教養ある知性・洗練された趣味・率直で公正な精神、高潔かつ礼儀正しい態度」を持ち、「多くの事柄を同時に一つの統一体として眺め、普遍的な体系の中に位置づけること」が求められると説いた。さらにオルテガは、「教授内容の精選(刈込)」が重要として、「青少年は限られた能力しかもっていない」ため、一般教養の教授が必要だと述べた。大学教育は、学生に知識・知恵の獲得と人格形成の2つの機会を提供している。
(3)大学ないし大学院における研究を通じた教育や(4)教員・研究者による研究は、ドイツの大学を源流としている。ヤスパースは、「道具性や単なる好奇心を超えた根源的な知識欲」を科学研究の源とした上で、研究と授業の統合を主張し、最高の研究者が唯一の善き教師と述べた。 (5)大学は研究と方法の態度の訓練の場で、学問的な思考の教育を受け、研究との接触で(6)職業教育を行うとした。こうして彼は研究と学びの関係を説いた。
また、同様にフレックスナーも科学研究を重視する立場をとり、加えて大学の役割として、アメリカにおける高校の状況を鑑みた(7)中等学校と同じようなカレッジの側面と、大学院と(8)専門職大学院、(9)サービスステーションの性格もあると整理している。カーも「法科と医科をのぞく(10)その他諸々の専門教育および諸サービスの活動の分野では、アメリカがかなりの成果をあげている」として、大学が行うサービス面の役割に言及している。
ここに挙げた10の大学の形態を包括した概念は、とうてい旧来の大学の枠組みに収まりきらない。実際にカーは「マルチバーシティ」という語を生み出し、その多様化した役割を持つ大学を表している。
さて、次に2つ目の大学が「交わりの場」である論拠を示したい。ヤスパースは、学問の意義を支えるものとして、まず知の全体との関係を維持する「研究者同士の交流」を重視した。同じくフレックスナーも、科学はどこまでいっても「個人的営み」であり、共同作業では不可能であるので、無理な垣根の除去や計画的共同を避けた「非公式の接触・努力」、「自由で容易な交流」が大切であるとした。大学の交わりの場としての重要性は、研究の場面だけでなく、様々な教育の場面でのクラスやゼミの組織にもいえるはずだ。
以上までのことから、今日ある大学は、中世ヨーロッパにおける原始的な大学から出発して、教授者・学習者・研究者、時代・社会、国・地域・国際情勢によって、担うべき役割と機能が付与され続け、大学に求められる「学びの場」と「交わりの場」の形態が多様となり、「広義化した大学」となったといえる。
ここで、ウォーラーステインの論にふれてみたい。彼は資本主義の発展に伴い「普遍主義のイデオロギー」という認識論が生まれたと言及し、「このイデオロギーの製造工場となり、この信仰の神殿となったのが大学」とされ、「真理の探究こそが大学の存在理由」と述べた。「史的システム」において、この思想が資本主義社会にフィットしたことこそが、「大学の広義化」が強力に進んだ原動力であると考える。そこでは、様々なレベルでの「真理の探究」が行われた。
ただ、いくら大学が広義化したといっても、軽重・濃淡・程度の差はあるが、普遍的な大学の理念があるはずだ。デビットは、国を単位として、学問の府とそれに追随する周辺、そのまた周辺が形成されていると整理した。そこで、私は一国の中でも同様の構造があるではないかと考えた。ほとんどの伝統的な大学は、学問の府の機能を負託されている。他方で多くの大学には、社会から「広義化した大学」を演じることを求められ、それに従順に応えている。
しかし府、その周辺、そのまた周辺といった大学の位置にかかわらず、どの大学も学問の府の姿を追い求めて、かつ学問の統一に貢献しようとする姿勢に変わりは無いはずだ。これが自らを「大学」と名乗る唯一の共通理念といえよう。そうした態度をとることをあきらめたとき、当該大学はいわゆる「学校」と見做され、日本の例でいえば専門学校や各種学校のようになる。
このことは、フレックスナーの「ほとんど大学だけが成しうることを完璧に成し遂げるための大学の再編成は、大学以外の教育システムの再編成を余儀なくさせることによってほとんど成就するかもしれないのである。」という言説と密接に関連している。現代社会において、大学とは何かを問い直すには、隣接の中等教育後教育機関の理念と役割について、「史的システム」の中で社会的コンセンサスを得ることがまず必要だろう。 -
三宅先輩の勧めもあり興味本位で新振りで教育社会学に進学して、入ってみると教育社会学ってどんぐりおっさんwはじめ恣意的な統計に汗かいてばっかの何も知らない人ばっかだなーと思ってたけど橋本の高等教育論って視点が広くて面白いな。
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オランダには14校しか大学がない。しかも法律によって平等な内容を提供するように義務付けられているにも関わらずランキングが存在するのだ。アメリカで大学ランキングが好きなのはビジネスだから。